【2:光なき英雄】


「なあ、リュシー。お前、本当にその人と結婚するのか?」


 アランは瘴気を吸ってむせ、ゲホゲホと咳をしながら問う。それに対し、リュシーは鳥かごを揺らして答えた。


「ええ、そうよ。だってお父様がそうお決めになったんだから」


 ここ数週間で、日はずいぶん長くなってきた。もう時刻は二〇時を回るというのに、夏至祭目前の空はまだ明るいままだ。

 リュシーはずり落ちかけていた口元の布を引っぱり、鼻まで覆う。瘴気は普段より薄く感じられるが、【森】特有の、生き物が腐ったような臭いはいつもと変わらない。


「お前、マジで瘴気当たりにならないよな」

「そういう体質なのよ。母もそうだったみたいだし」


 アランも咳をしながら、リュシーと同じように口を布で覆う。リュシーは鳥カゴの中を見た。有毒感知用のカナリアは、元気にピロピロ鳴いている。


「『お父様がお決めになった』か。それで? お前は納得してるのか?」

「納得とか、そういうのじゃないのよ。『貴族の結婚なんてそんなものだ』って、ロッテ姉様も仰っていたもの」


 リュシーの姉シャーロットも、父の決めた婚姻で他領から婿を取った。最初はあまり乗り気でなさそうな姉だったが、今ではすっかり幸福な家庭を築いている。

 だがアランは呆れたように、


「お前な、グレイン卿が――アンドレイ様が『死ね』って言ったら、死ぬのかよ? 何でも『お父様の命令だから』って……。そういうの、なんか違くねえか?」


 リュシーはアランを――この立場をわきまえず、ズケズケとモノを言う近習の兵士を、誰よりも信頼している。


「そうね、そうするかもしれない。でも、それが領と領民のためになるなら、多分そうすると思う。領主の娘はそうあるべきよ」

「娘って、ただの養女じゃないか。血の繋がりがなくても、お前は貴族の娘として、領のために人生を捨てるってのか?」

「ええ、そうよ。当然じゃない」


 リュシーが実母と死別し、領主グレイン家の養女となったのは五歳の頃だ。その日から彼女はただの娘から貴族の娘になり、領地と領民のために生きようと決めていた。それが領の利益となるならば、見知らぬ人との結婚も受け入れなければならない。


「自由な恋愛とか好きな人との結婚とか、憧れないのか?」

「ないってことはないわよ。わたしには縁がなかったってだけ」


 アランの不躾な態度と言葉遣いを聞きつけ、先輩の兵士がジロリと彼を睨む。彼はバツが悪そうに目を逸らし、それでも声を潜めながら詮索を続ける。


「そのお相手ってのは、どんな人なんだ?」

「わたしもまだ詳しくは知らないの。ただ『竜を何回も倒した英雄的な魔術師』としか」


 領地を囲む防壁が近づいてくる。気のせいだろうか。瘴気の臭いが少し濃くなった気がする。


「でも、きっとウソに決まってるわ。だって竜は全ての生き物の頂点なのよ。それを何回も倒すなんて……。そんなの、うちのエリオットお兄様だって無理よ」


 エリオットはリュシーの長兄だ。少々変わり者だが、彼より優れた魔術師を他に知らない。

 リュシーが少し不安そうに眉を寄せると、アランは、


「何だ、不安なのかよ?」

「うん、不安よ。よく『英雄、色を好む』って言うじゃない。魔術師でも毛むくじゃらのムキムキで、お酒臭い人かもしれない。わたし、そんな人怖いわ」


 そう言いながら、リュシーはまだ見ぬ婚約者を想像する。毛むくじゃらでムキムキでゴリゴリの酒臭い中年の自称魔術師が、妄想の中で覆い被さってきた瞬間、リュシーは小さく悲鳴を上げる。


「今時そんな分かりやすいの、ガチの傭兵にだっていねえよ。

 ……ま、しょうがねえよな。リュシーの好みは細身でインテリな魔術師だもんな。初恋のお兄さんもそんな感じだったし」

「やめてよ。そんなの、子どもの頃の話じゃない」


 リュシーの初恋は八歳の時。相手は【森】の魔物を討伐しに来た、魔術師の青年だった。あのお兄さんの顔はほとんど忘れてしまったが、知的で優しく、穏やかな雰囲気は今でもよく覚えている。もし自由な恋愛を許されたとしたら、あのお兄さんのような人と恋をしたい。


 それから二人はひそひそ話を続けた。貴族に対しあるまじき態度と言葉遣いに、先輩兵士は咳払いでアランを注意し、リュシーは都度「気にしないで」と小さく笑う。


 領壁はもうすぐそばだ。結界の清浄な色が見え、魔祓いマバライの花のいい匂いにホッと胸を撫で下ろす。


 カゴのカナリアが苦しみ出したのは、その時だ。


「えっ?」


 リュシーは驚いてカゴを取り落とす。カナリアはキーキーとカゴの中で暴れ、体をあちこちにぶつけた後、奇声を上げて事切れた。

 濃い悪臭が鼻を掠める。瘴気の臭いだ。


「ウソ、この辺りの瘴気がこんなに濃いわけないわ!」


 兵士たちが持っていたカナリアも次々に死んでいく。うろたえる彼らを尻目に、アランが剣を抜く。


「おい、リュシー!」


 もう遅かった。

 魔物に囲まれている。下位の魔物だけでなく、上位の魔物も混ざっている。その中の一番強そうな魔物を見て、リュシーは呟いた。


「ガ、ガーゴイル……」


 悪魔に似た石の体。あれには剣はもちろん、生半可な魔法も通じない。


「うわあっ‼︎」

 兵士が一人、攻撃される。彼の苦悶と同時に、あちこちで剣と魔法の音が響く。リュシーは右手の爪を噛みながら、どうしたらいいのか必死に考える。


 頭が真っ白になり、考えがまとまらない。


「きゃっ‼︎」

 何かに押されて転倒する。左足の骨が、グキッと嫌な音を立てる。

 次の瞬間、目の前にガーゴイルの鎌が振り下ろされる。


「っ‼︎」

「大丈夫かっ⁉︎」


 アランの剣が、ガーゴイルの鎌を受け止めた。剣からオレンジ色の火花が散っていた。


「逃げろ! リュシー‼︎」

「え、あ……」


 ――ダメ、逃げたらダメ。わたしは領主の娘なのだから。わたしがみんなを守らなきゃ。このままじゃ、アランもみんなも、死んでしまう。


 リュシーの手中で光が輝く。術式と魔法陣。こんな普通の攻撃魔法で、あのガーゴイルが倒せるとは思えない。だが、やらなくてはならない。


 白い魔法を打ち出す。一発、二発、三発。全てがガーゴイルの体にぶつかるが、何の効果もない。

 ガーゴイルの動きは止まらない。激しい金属音と共に、アランの体が宙を舞う。


「がはっ……!」

「アランっ‼︎」


 ガーゴイルの鎌が、再びリュシーに迫る。


 ――もうダメ。


 目を閉じる。魔法が爆ぜる。やっぱり無理だ。こんな並みの魔術師でしかない自分が、あんな怪物が倒せるわけがない。

 しかし、


「え……?」


 目を開ける。ガーゴイルの左半分は吹き飛んでいた。直後、青白い一閃の光が、右半身も破壊する。

 昔『ガーゴイルは上位の魔物だ』と兄エリオットが言っていた。『高名な魔術師ですら、倒すのには苦労する』と、そう教えてくれた。


 そのガーゴイルを簡単に倒す魔術師が今、目の前にいた。


 濃い青色のローブを着た青年だった。フードを目深に被っているせいで、顔はほとんど見えない。彼は岩場を足下に、たくさんの六芒星の魔法陣を展開していた。やがて魔法陣から、青白い光が何閃も飛び出て、魔物の群れを焼き払っていく。


「……すごい」


 リュシーは呆気に取られたまま、魔物たちが蹂躙じゅうりんされるのを見ていた。青年は岩場から飛び降りて、細い杖を探るようにカンカン突きながら、ゆっくりとこちらに向かってくる。


 彼の杖の先が、リュシーの手に触れる。

 彼は「あっ」と声を上げてから、その場で屈む。


「大丈夫ですか?」

「あ、はい……」

「立てる?」


 彼は手を差し出す。リュシーはその手を取るが、左足の痛みで立ち上がれない。


「足、怪我しているんですか?」

「はい、すみません」


 彼は目を閉じていた。遠くからアランの悲鳴が響く。


「リュシー‼︎」


 リュシーはハッと顔を上げた。まだ生き残っていたガーゴイルが、ひび割れた鎌を下ろしてくる。


 ――もうダメ。今度こそ本当にダメだわ。


 リュシーは覚悟した。自分はここで死ぬのだと。誰も守らず、この見知らぬ青年を巻き込んで。そして婚約者とは顔を合わせないまま。

 ギュッと目を瞑る。硬いもの同士がぶつかる音が響く。


「……」


 恐る恐る目を開ける。分厚い防御魔法の下、新しい攻撃魔法の術式が、あっという間に完成する。


 激しい魔力の嵐が吹いていた。青年のフードが、突風にあおられて脱げる。


 リュシーは彼の横顔を見た。思っていたより若い。自分と同じかもう少し歳上のようだ。色が抜け切った白い髪が揺れ、顔面に刻まれた魔流痕まりゅうこんが青緑色に輝いている。そして目が見開かれたと同時に、鋭い光がガーゴイルたちの胴体を貫いた。


 魔物たちが崩れ去ったことに、彼は興味がないようだった。早々にガーゴイルからリュシーの方へと向き直り、


「足を出して」


 彼はリュシーの足に触れ、手探りで患部を見つける。


「痛っ……」

「ここですか? なるほど、なかなか派手にくじきましたね」

「……すみません」

「回復魔法は、あまり得意ではないんです。領地に戻ったら、きちんとした治療を」


 彼の手から、温かい回復魔法の光があふれる。痛みは消え、体の内側で骨と肉が役目を取り戻す。


「あの……。ありがとう、ございます」


 彼が目を開け、二人の視線が交錯する。魔流痕と同じ、綺麗な青緑色をした目だった。だが焦点は合っておらず、そこでやっとリュシーは気づいた。


 ――ひょっとしてこの人、目が見えていないのかしら?


 彼は立ち上がる。不自由な目で戦場を見渡し、それからもう一度、リュシーに手を差し出す。


「どういたしまして」


 その後、リュシーは誰も守ることができず、青年が残りの魔物を圧倒する姿をボーッと見つめるしかなかった。彼が組み立てた防御結界の、青緑色の光に守られながら。


 彼の名は、イズラフェル・フォン・ラルターシャと言う。

『光なき英雄』として有名な、盲目の魔術師である。

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