ストックホルム
Unknown
ストックホルム【10700文字】
ストックホルム症候群という精神医学用語を知っているだろうか?
拉致・監禁という極限のストレス状態に置かれた人間は、その恐怖から転じて、拉致・監禁の加害者に対して同情や恋愛感情にも似た正の感情を抱くことがある。それをストックホルム症候群という。被害者は極度のストレスを耐え抜こうと、自己防衛の為にストックホルム症候群を発症するのだ。
日本でも今までいくつも拉致・監禁事件は起こっているが、被害者がストックホルム症候群を発症したことで犯行が何年も発覚しなかった事例がある。ストックホルム症候群に陥った被害者は、例え加害者が家を留守にしていて常に逃げられる状態にあっても逃げようとしない。既に洗脳にかかっているからだ。加害者が警察に逮捕された時、被害者が加害者を全面的に庇うような言動を見せた事例も実際にあるのだ。
また、拉致・監禁の被害者は、ストックホルム症候群の他に“学習性無力感”に陥っている可能性も高い。そのため、自分が犯人から逃げられる状況にありながら逃げられないという心理状態に陥る。
学習性無力感とは1967年にアメリカのマーティン・セリグマンという学者が発表した現象なのだが、セリグマンはまず3匹の犬を3つのグループに分け、心理学実験を行った。
この実験はステップが前半と後半の2つに分かれている。
【前半】 第1グループの犬には何もしない。第2グループの犬には電気ショックを与えるが犬がボタンを踏むと電流が止むようにする。第3グループの犬には電気ショックを与え続け、犬が何をしても電流は止まらない。
↓
【後半】 しばらく電気ショックを与え続けたのち、次のステップとして3つの部屋の犬を全て外に出し、3匹全てを、部屋の中央が低い柵で仕切られた1つの小屋に入れる。その部屋は柵の左側の床だけに電気ショックが流れるようになっていて、右側は普通の床である。すると、グループ1、2の犬は電気ショックを受けるとすぐに柵を飛び越えて右側の床に逃げた。しかしグループ3の犬は電気ショックを受けても何の行動もせず、電気ショックを受け続けた。つまりグループ3の犬は、“電気ショックからは絶対に避けられないもの”と完全に思い込み、無気力状態に陥ってしまったのだ。このような心理状態を専門用語で学習性無力感と呼ぶ。
人間の場合でも、学習性無力感に陥ることはよくある。例えば夫からのDV被害から逃げる気力が無いほどに追い詰められてしまう妻だとか、学校という狭い閉鎖社会でいじめを受け続けた被害者が大人に助けを求められずに引きこもるだとか、“家に監禁された被害者が全く逃げようとしない”だとか。
──という話を、俺は監禁中の17歳の無職の少女の〈内田紗希〉に部屋の中で語って聞かせた。俺が仕事から帰宅した夕食中のことであった。食事は紗希が基本的に作ってくれる。
──紗希は俺の今までの長い話をずっと無表情で聞いていた。
◆
この少女は、3年前、14歳の時に1人で帰宅途中のところを俺に車で誘拐され、そのまま俺に監禁されて3年以上が経ち、未だに俺のアパートで暮らしていた。
当時、時刻は夕方6時くらいだっただろうか。仕事終わりに適当な中学生か高校生を拐おうと考えていた俺は、自宅アパートのあるX市からY市まで車を走らせ、ターゲットを探していた。Y市の人気の無い田舎の路上で中学生らしき少女が制服姿で歩いていたので、俺は少女の数メートル前に車を停め、ナイフを手に持って少女に近づいた。そして、
「大人しくしろ。声を出すな。声出したらぶっ殺す」
と脅し、車に連行した。そして結束バンドで手首を縛り、ガムテープで少女の目と口を塞ぎ、そのままトランクの中に少女を押し込んで、俺は自宅であるアパートに帰宅した。
目隠しをしたままお姫様抱っこの形で2階の部屋の中まで少女を連れていった。(ここで住民に目撃されたら全てが終わっていたに違いない)
それから俺は少女を監禁し始めた。まず俺は少女の逃走の意思を封じる為に、目隠しと拘束をしたまま何度も激しく殴打した。少しでも声を出したら、体にスタンガンを当てて、痛めつけた。幸い少女はまだスマートフォンを所持していなかった。30分ほど暴力を振るっていると、もう既に少女の抵抗力は完全に失われていた。そのタイミングで、俺は無表情で、少女にこう言った。
「お前殺されたくないだろ。まだ死にたくないだろ。お前はもうこの部屋からは出られない。今日からずっとここで俺と暮らすんだよ。俺の言うことを聞かなかったら、生きたままお前をチェーンソーでバラバラにして山に捨てる。それが嫌なら指示に従え。わかったか」
すると、少女は首を縦に振った。
それを確認した俺は目隠しのガムテープと、口のガムテープをゆっくり剥がして、少女に学年と名前と住所を聞いた。
「●●中学2年の内田紗希です。住所は、Y市の●●●●です」
声は震えていた。その直後、俺は少女に向かって無表情で、
「俺は太田涼。21歳」
と言った。
最初の2、3ヶ月は、俺が外出する時や就寝する時には必ず両手足を結束バンドで緊縛し、身動きが取れないようにした。
その後、両脚の緊縛は解いたが、それから1年くらいは、手をずっと緊縛し続けた。
俺の指示に少しでも抵抗したり、声を上げたら、その度に殴った。
排泄の際は、トイレの窓から脱走しないようにトイレの扉を開放させた上で監視した。
食事は、適当にスーパーやコンビニの弁当を1日に1食ほど与えた。それ以外にも、家にあるものは好きな時に食っていいと言った。栄養の偏った食生活を送り続けた紗希は、別人のように痩せ細った。それからはバランスの良い食事を摂らせるように心掛けた。
監禁から1年が経った頃、俺はようやく手の緊縛も解き、紗希の身柄を完全に自由にさせた。
──しかし紗希は、俺から一切逃げなかった。
まるで電気ショックを受け続けた犬が、逃げられる状況にありながら電気ショックから逃げる意志を喪失してしまったかのように。
◆
現在24歳の俺と17歳の紗希は2人で向かい合って夕食をとっている。2人とも無表情だ。
そんな俺達2人とは対照的に、テレビの中の芸人やタレントは騒々しく笑う。俺と紗希の会話の少なさを補ってくれているような気がして少しありがたかった。
食欲の無い俺は、紗希の作った料理を無理矢理口に運ぶ。そして缶チューハイを飲んで、つぶやいた。
「──今話した通り、紗希はストックホルム症候群と学習性無力感に陥ってる。俺に誘拐されて、監禁された極度のストレスで認知の歪みが生じて、俺から逃げられなくなったんだ。紗希は病気だ。頭がおかしくなってる」
「わたし、病気なの?」
「だって、逃げ出そうと思えばいつでも逃げられるだろ。俺が仕事に行ってる時間、逃げようと思えばいつでも逃げられる。なのに紗希は逃げない。ずっとこの部屋にいる。なんで逃げない?」
「だって逃げたら殺されるかもしれないから……」
「殺さない。逃げたいんだったらもう逃げていい」
「逃げてもいいの?」
「別にいいよ。俺は自分の人生が果てしなくどうでもいい。警察に捕まろうが、刑務所に入れられようが、別にどうでもいい。紗希を誘拐した日、俺はかなり迷ってた。自殺するか、誰か適当な女の子を拐うか。俺の精神は元々死んでたようなもんだ」
「自殺と誘拐で迷って、わたしを拐ったの?」
「そう。紗希も運が悪かったな。あの時あの場所にいなければ俺に何年も監禁されずに済んだのにな」
俺が無表情でそう呟くと、紗希は突拍子の無いことを俺に訊ねてきた。
「高校ってさ、楽しい?」
「高校?」
「うん。わたし行ってないから。高校」
「楽しい人は楽しいと思う。俺は全然楽しくなかった。高校なんて同調圧の塊だ」
「同調圧って何」
「同調圧っていうのは、なんていうんだろう。みんながこれをやってるんだからあなたもこれをやりなさい、みたいな雰囲気のこと」
「涼は高校生のとき何部に入ってたの?」
「野球部」
「楽しかった?」
「まあ、途中までは楽しかったよ」
「よかったね」
「ああ」
俺は無表情で缶チューハイを飲んだ。
紗希は無表情で麦茶を飲んだ。
◆
紗希が風呂に入っている間、俺はベランダでタバコを吸いながら、黒い空と白い月を見上げてぼんやりしていた。
いつかは俺も捕まる時が来るだろう。仮に捕まったら、何年間刑務所に入れられるのだろう。刑事罰について一切詳しくない俺の勘では、15年。肉体関係を持っていた場合、おそらく刑期も伸びるが、俺は彼女と肉体関係を1度も持っていないから、多分短くて15年。仮に今捕まったとしたら、俺の出所は40歳を優に超えているだろう。俺は出不精で、酒とタバコと精神薬に何年間も依存している。50歳で寿命を迎えると仮定すると、警察に捕まった時点で俺の人生はもう残り10年も残されていない。もっとも、俺は自分の人生に何の未練もないから、死ぬのは早ければ早い方がいい。だが無期懲役だと面倒だ。刑務作業が。
俺は紗希と肉体関係を持つことに一切興味が無かった。そもそも俺には性欲そのものが皆無に等しかった。俺の性欲が完全に消え失せたのは20歳くらいの時だっただろうか。高校時代に鬱病を患った時点で既に性欲は希薄になっていたが、本格的に精神科に通院して精神薬を服用するようになってからは、薬の副作用もあってかほぼ完全に性欲が失われた。ついでにインポテンツにもなった。子供を作らないのなら、性欲なんてあっても邪魔なだけだ。くだらない。
俺が初めてポルノ動画を見たのは小学生低学年の時だったが、当時、えも言われぬ感情に陥ったのを覚えている。あの時は少年野球チームの友達のD君と見たんだった。D君が俺のパソコンで再生した動画は今も覚えている。タクシーの中で突然茶髪の女が服を脱ぎ出し、そのまま行為が始まるのだ。あの光景は当時無垢な少年だった俺にとってセンシティブすぎて、今でもはっきり覚えている。
肉体的に凌辱するのを目的に監禁する犯人もいるのだろうが、俺はそうではない。もっと大きなものを凌辱している。内田紗希という少女の人生そのものを奪い取っているのだ。俺は紗希を3年も監禁している。肉体を制圧するどころか、人生を制圧している。それ以上の愉悦がこの世のどこにあるだろうか。俺は現状で満足していた。俺は欲しいものを全て手にしていた。俺は途轍もないサイコパスなのかも知れない。いや、単なる気違いか。
そもそも何故俺は少女を誘拐して監禁したのか。今にして思えば、ただの思いつき。拉致・監禁に大した理由など無いのだが、強いて理由を挙げるとすれば、話し相手が欲しかったからだろうか。全くくだらない理由で犯罪を犯したものだ。俺は最低の男だ。しょうもない。死ねばいい。
──俺の頭は鬱と精神薬の影響で常にぼんやりしている。まるで世界に大きな膜がかかったように不明瞭で、現実感がなくてふわふわしていて、常に白昼夢を見ているみたいで、物事を深く思考する能力すら失われている。全てにおいて無気力。目に映る全てが無価値に思える。何事にも興味が持てない。常に目眩がしている。時折、俺を責める幻聴も聴こえる。動作はゆっくり。表情は常に無表情。鬱病になってから、ずっとこうだ。自分が生きているのか死んでいるのかも分からない。膜がかかったような無意味な世界。色彩の無い世界。一生これが続くのかと思うと、今すぐにでも死にたくなる。気分は亡霊。脳のチューニングがズレている。自分が凶悪犯罪者であるという自覚も希薄だ。
やがて、俺は虚空に向かって、こう呟いた。
「死にたい」
生きているのか死んでいるのかわからない時、俺は自分の左腕にタバコを30秒ほど押し付けて、火傷させる。いわゆる根性焼きだ。痛みを感じると、自分がこの世に生きていることを確かに実感出来る。
無表情でタバコの煙を口から吐き出すと、やがてドライヤーの音が遠くから聞こえてきた。紗希が長い髪の毛を乾かしているのだろう。
俺は今現在、紗希の行動に一切の制限を設けず、自由にさせていた。外出すらも自由にさせている。お小遣いは月に10万円を手渡しであげている。俺の現在の給料の手取り20万のうち半分あげていることになる。紗希は金をあまり使わないから、結局はその金は余って俺の酒やタバコ代に消えるのだが。俺は紗希に出来るだけ金を与え、不自由な生活はさせていなかった。スマホも俺の名義で買い与えた。
紗希はろくに金を使わないが、俺も無趣味だから酒やタバコくらいにしか金を使わない。あとの金は家賃、食費、公共料金、ガソリン代、年金、保険、携帯代、精神科への通院代等に消える。紗希は読書家で、本を買うことを好んだ。俺も暇潰しに紗希が買った本を読むことがある。紗希は哲学の世界に傾倒しているようだった。おそらく俺よりも頭はいい。紗希の読んでいる哲学書を読んでも俺には意味がわからなかったから。
紗希の全ての行動を許してるから、彼女はここから逃げようと思えばいつでも逃げられるし、通報しようと思えばいつでも出来る。だが、紗希は逃げようとも通報しようともしなかった。紗希は間違いなくストックホルム症候群と学習性無力感に罹患している。
監禁当初こそ暴力による一方的な支配をしていたが、今となっては俺は本当に何もしていない。さっき、ストックホルム症候群と学習性無力感について紗希に語ったほどには、俺は紗希を自由にしている。
しばらく時間が経つと、ドライヤーの音は止んだ。
俺がぼんやりベランダで喫煙していると、網戸が開かれる音がした。やがて俺の横にサンダルを履いた紗希が立った。
「私にも1本タバコくれる?」
「ああ、いいよ」
俺はタバコとライターを紗希に渡した。
紗希は17歳だ。
◆
大きめのTシャツを着ている紗希の腕にはタバコの火を押し付けた痕が無数に残っている。俺が押し付けたことも何度かあるが、その痕のほとんどは彼女自身が自傷として押し付けたものだった。彼女の体調や精神状態は良くないが、俺の犯行がバレるし紗希の保険証も無いし、病院に連れて行くわけにもいかない。彼女が不調を訴えた時は、俺が処方されている抗うつ薬を何錠か渡す程度だった。
タバコの煙を吐き出す紗希を横目に、俺は煙を吐いて言った。
「紗希は、なんで俺から逃げようとしない?」
「あれ、今日も昨日も一昨日も同じこと私に聞いてたよ」
「あれ……そうだっけ……?」
「うん。頭大丈夫?」
「だめだ。記憶が無い」
鬱によって記憶力も低下しているようだ。
タバコの煙を吐きながら紗希がつぶやく。
「逃げようとしない理由は、私もよくわからない」
「そうか」
「あ、可哀想だから」
「俺が?」
「そう」
「どういうところが可哀想?」
「いつも、ぼーっとしてる。笑ってる顔見たことない。私以外の人と話してるところ見たことない。友達もいない。だから私がいなくなったら可哀想なの」
「会社でもよく言われるよ。お前はずっとぼーっとしてるって。お前は暗いって。お前は感情が無いのかって。俺は感情だらけなのに」
「あと涼は私に優しくしてくれる」
「優しいか? 俺」
「うん」
俺は突拍子もなくこう言った。
「俺の兄貴がさ」
「うん」
「頭おかしくなっちゃったんだ」
「どうに?」
「……一言で言えば、脳の怪我だよ。精神病だ。きっと一生治らない」
「へえ」
「脳は一度でも怪我すると本人の視える世界が地獄に変わって本当に辛そうなんだ。まあ俺も何年も精神病だけどさ」
紗希は無表情でタバコの煙を天に吐く。
俺は煙の行方を見ながら紗希に訊ねる。
「俺は頭おかしいと思う?」
「おかしいって言ったら怒る?」
「怒らないよ」
「じゃあおかしいと思う」
「そっか。そうだよな。まぁ俺に言わせれば、この世界で正気でいられる奴は正気じゃない」
「私も頭おかしい?」
「うん」
「……そう」
「くだらない。本当に。何もかも。何の意味もない。脳が感じたことに、意味なんて無い。全ては電気信号でしかない。そういう意味では希望も絶望も大して変わらない。捉え方の問題だ」
「ねえ、タバコ吸うと頭がクラクラするのなんで?」
「脳の血管が収縮するから。あと一酸化炭素で血流が悪くなるから脳が酸欠状態になってクラクラするんだ。最初のうちは」
「へえ」
「この世には、幸せも不幸も無い」
「なんで」
「目や脳の角度で幸も不幸もどうにでもなっちゃうから。例えば、借金が1億ある奴が覚醒剤をやったら、キマってる最中は本当にそいつは幸せな気分になれる。幸せなんてそんなもんだよ。儚い」
「……」
「2年前くらいかな。職場の人達とカラオケ行った。その時、女の社員が丸の内サディスティック歌ってた。それがなんかすごい頭に残ってる。昨日も夢で見た」
「……」
「俺の高校の友達が彼女孕ませちゃったから富士急の『ええじゃないか』に何度も乗って流産させた話、いつか小説にしてみたい」
「……」
「涼は優しいって、俺のお母さんがよく言った。私の子供の中で俺が一番優しいって。涼は人の痛みが分かるって。馬鹿だよな。人の痛みがわかる奴は監禁なんてしないだろ」
「……」
「睡眠薬をかき集めて200錠くらい飲めば死ねるんだ、とか言ってるバカが未だにネットにいて笑っちまった。今の薬をODして死ねるわけないだろ。死ねないように出来てるんだよ。救急車に運ばれて胃洗浄されて終わりだ。仮に死ねたとしても、寝ゲロでの窒息死しかあり得ない。結局、地獄みたいに苦しんで死ぬだろうな」
「……」
「小さい頃、父親に向かって〈戦争に行きたい〉って言ったら、俺は思いきり顔を殴られた。なんでだろう。今も殴られた理由がよく分からない。俺はどこかの国の戦争に行って死にたかったんだ。子供の頃から」
「……」
「俺は、いじめられてる奴を助けたことがある。でもそれは俺に友達がいなかったからなんだ。だからそいつしか話せる奴がいなかった。だから結果的に俺がそいつをいじめから助けた形になっただけ。俺は優しくなんかない」
「……」
「愛憎って言葉があるだろ。愛と憎しみって表裏一体なんだよ。憎まれてるうちは俺も嬉しい。でも本当に悲しいのは、完全に興味を無くされて、自分の存在そのものを忘れられた時なんだ。忘れられる事より辛いことは無い」
「わたしの家族は、もうわたしのことなんて忘れてるかな?」
「覚えてるに決まってる。きっと今も必死に探してるよ」
「そう……」
俺は思考停止しながら次々に脳に浮かんだ言葉を吐いた。ついでにタバコの煙を天空に向かって吐いた。
俺と紗希の心は不通だった。会話のキャッチボールではない。
紗希がタバコの煙を吐き出す。
俺は、長年の鬱状態で、全てがどうでもよかった。思考力も落ちている。
「明日、俺仕事なんだけど、仕事サボって海にでも行こうか。気分転換に」
「うん」
「紗希が最後に海行ったのいつ?」
「たぶん、10歳くらいの時」
「俺もそのくらいかな。海なんて何年もずっと見てない」
「わたし、海が怖い」
「なんで?」
「世界が広いのを実感するから」
「そっか。まあ大丈夫だよ。俺も少し気持ちがわかる。人間、何が1番怖いか知ってる?」
「なに?」
「未知のものや、得体の知れないものだよ。だから紗希は海が怖いんだ。紗希は何年もこの部屋にいたからな」
紗希は指でタバコを挟みながら、ほんの少しだけ俯いたように見えた。
◆
翌朝。
俺は始業時間の25分ほど前に会社を休むという嘘の電話をかけた。
コロナが流行っているこのご時世だ。体調不良で会社を休むと嘘の電話をかけたら、間違いなく病院行ってPCR検査を受けろだのと面倒なことになる。ここはやっぱり身内の不幸を利用するのが無難だと思い、親戚が亡くなって葬儀に参加しなくてはならないと嘘をついた。
電話に出たのは乗務だったが、乗務はあっさりと俺の嘘を信じた。
午前9時半頃まで、俺は缶チューハイを飲みながらPCでダラダラとネットサーフィンをしていた。すると、横から紗希が、
「海に行かないの?」
と無機質な声で訊ねてきた。
俺は視線をPCのモニターに向けたまま、酔った状態で返答する。
「なんか車の運転がめんどくさくなった。今日はずっと家にいる」
「わかった」
「紗希も海が怖いって言ってたしな」
「涼、海の向こう側って何の国があるの?」
「日本海の向こうには韓国とかロシアとか中国がある。太平洋の向こう側は、よくわからん。アメリカとか?」
「へえ」
「世界って広いよな」
「うん」
「元の世界に戻ってみたいと思う? 家族に会いたい? 友達に会いたい?」
「またその話? 別に、もういい。私の世界は、涼の部屋の中だけだから」
「そうか」
やがて紗希は部屋の隅に座って哲学書をぼんやりとした顔で読み始めた。
アルコールを毎日飲んでいる俺の脳細胞はおそらく昔に比べてかなり死滅して、更に鬱も相まって、かなり知能がバカになっているような気がする。最近は飯を食っても味がしない。食欲は無いが無理矢理口に運んでいる感じだ。
そんなことを考えていると、突然、部屋のインターホンが鳴らされた。
「私が出ようか?」
「いや、俺が出る」
俺はドアの小さな丸い穴から外を覗き込む。そこには、会社の乗務が無表情で突っ立っていた。
俺は驚くと同時に、足りない頭を必死に回転させた。
俺は親戚が死んで葬儀があると嘘をついた。だからこのアパートに俺がいること自体がおかしい。更に、駐車場には俺の車がある。
とりあえずここは、居留守を使う以外の選択肢が無い。
そう思っていると、ドアの向こう側から常務の怒声が聞こえてきた。
「おい太田! そこにいるんだろ! お前の親御さんに連絡を取った。親戚が亡くなったなんて嘘じゃねえか! さっさと開けろ!」
──ちくしょう……。
頭が完全に真っ白になった俺は、俺のすぐ後ろに紗希がいつの間にか立っていることに気付かず、そのままドアの鍵を解錠して、ドアを開けてしまった。
俺と常務は対面する。
すると、常務は仁王像のような表情で俺を睨んで怒鳴った。
「太田お前、嘘ついて会社サボるなんていい度胸だな。お前みたいな役立たず、今すぐ解雇してやってもいいんだからな!」
「すいません」
「ん? 後ろの女の子は誰だ」
俺は咄嗟に振り向く。そこには紗希が無表情で立っていた。いつの間にいたんだ?
俺は常務の目を見て、無表情で言う。
「あ、えっと、その、俺の妹で。今一緒に住んでて……」
「嘘つくな。お前、面接の時に家族構成を聞いたら両親と兄と自分だけって言ってたじゃないか」
「間違えました。この子は同棲してる俺の彼女で……」
「間違えた? そんなわけあるか。仮に彼女だとしても、どうして家にいるんだ。その子はどう見ても学生じゃないか。学校はどうした」
「彼女は体調不良なんです。だから、看病のために今日は会社を休みました」
「さっきから発言が矛盾してばかりだ。お前、何か隠してないだろうな?」
「いえ、何も」
「……ん? その女の子、行方不明の少女にそっくりじゃないか。お前まさか!」
「いや」
この瞬間、俺は、全てが終わったことを察して、人生が終わったような気分になった。
3年前に紗希が俺に誘拐されて行方不明になってから、紗希の当時の写真は全国に貼られて、ネットやSNSでもかなり拡散されていた。
紗希は全国的な有名人だ。
「太田。お前が犯人なのか?」
「違いますって」
俺は苦し紛れにそう答える。
その直後、紗希が予想外の行動に出た。俺の背後から前に出て、常務にこう言ったのだ。
「涼は犯人じゃありません。家出した私を保護してくれて、それから付き合い始めて同棲してるだけです」
紗希がそう言うと、常務は紗希の目を見て、こう訊ねた。
「あなたの名前は?」
「内田紗希です」
直後、常務はゴキブリを見るような冷たい目で俺を直視して、
「警察に通報する。太田、その場から動くな」
と言って、スーツのポケットからスマホを取り出した。
俺は全てを諦め、絶望する。頭がぼーっとする。まるで夢の中にいるようだ。
紗希は、焦った様子で常務に、
「通報なんてやめてください!」
と言っている。
しかし常務は動きを止めることなく、110番に電話をかけ、行方不明の少女が俺のアパートにいることと、ここの住所を伝えたのだった。
ここはアパートの2階だ。ここから飛び降りて死ねる確率は皆無に等しい。打撲か骨折して終わりだろう。
だったら、包丁で首の頸動脈を切って、死ぬしかない。
俺は無表情でその場からゆっくり歩いて、キッチンに向かった。
「おい太田!」
後ろから常務の声がする。
俺はそれを無視して歩く。
紗希は俺と一緒に歩いてきた。
「どうしよう。このままだと涼が捕まっちゃう」
「……」
その言葉を無視して、キッチンに辿り着いた俺はすぐに包丁を握って、自分の首を思いきり切り裂いた。
──はずだった。
この期に及んでも俺は死への恐怖が勝り、ほんの少ししか首を切ることができず、痛みに耐えかねて包丁を床に落とした。
紗希はその様子を焦った様子で見ていた。
「涼、大丈夫!? 血が出てる」
「俺は何をやっても駄目な奴だ。自分を殺す勇気さえ無かった」
俺は無表情でそう言った。
直後、乗務が部屋に勢いよく入ってきて、背後から俺を羽交い締めして、俺の身動きを取れないようにした。
だが俺は一切抵抗しなかった。
やがてパトカーのサイレンが近くで聞こえて、何人もの警察官が部屋に入ってきた時、俺は常務の羽交い締めから解放されて、床に崩れ落ちた。
そして警官は紗希に名前を訊ねた。すると紗希は、
「内田紗希です……」
と小さな声で答えた。
次に別の警官が俺の目を鋭く見てきた時、俺は自発的にこう答えた。
「3年前の少女誘拐事件の犯人は俺です。3年前、帰宅途中の内田紗希さんを車で拉致して、ずっとこの部屋に監禁していました」
すると警官が紗希に、
「今の発言に間違いはありませんか?」
と訊ねたところ、紗希は無言で頷いた。そのあと、俺は手錠をはめられて現行犯逮捕された。頭が真っ白になったから、そこからの記憶は一切ない。
ああ、俺の人生はこれで終わったのだ、という感慨だけを持って、俺はパトカーに乗せられた。
今更悔悟の念も絶望も無い。
刑務所に入ったらどうせ受刑者たちにいじめられるんだろうな、なんてことを俺は考えていた。
パトカーの中から見上げる空は、鬱陶しいほど青かった。死にたいなー。
「チッ」
俺は世の中への最大限の怒りと祝福を込めて舌打ちをした。
終わり
「っていう小説を書いたんだけど、どうかな」
と俺は監禁中の20歳の女に笑顔で訊ねた。
「最悪。もう死んで下さいよ!!!!!!」
と女は笑顔で言った。
終わり
ストックホルム Unknown @ots16g
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