9
エドガー・アイアランドの親族と連絡を取ることができた。彼は現在、ボストンの州立病院で悪化した持病を治療していると云う。結局わたしは、東と西を往復しながら、自分の生まれた街に帰ってくることになった。
個人に用意された病室は広々として明るく、白い壁と天井がいっそ未来を想像させた。大きく取られた窓からはわたしの住む家が遠くに見える。最期を過ごすなら、母もこんな部屋が良かったのかも知れない、と思った。
アイアランド氏は、生きているのが不思議なほどに痩せ衰えていた。身体中をチューブが這っている。シーツを叩く皺だらけの指が、一定のリズムを刻んでいる。
――甥がこの病院の理事長なんだ。
嗄れた声で彼は云った。意識は意外にも明瞭で、むしろそれが苦しいのだと彼はぼやいた。視界が混濁しているのか、わたしを看護師だと思い込んでいるようで、アポイントメントもなく訪ねて来たわたしを警戒することなく、新しい孫のように迎えてくれた。
――『火星の旅人』か。よく憶えている。
――忘れられんよ。誇り高い人生を送ってきたわけではないし、ついに俳優として大成功したわけじゃない、しかし、侮辱は耐えがたかった。そう、あれはわたしにとって、何重もの侮辱だった。
アイアランド氏の呼吸は緩やかで、一語一語を発するのに時間がかかった。
侮辱、とわたしは繰り返した。
――わからないかね? そうか、もうずっと昔の話か……。十二月七日。十二月七日だ。アメリカが侮辱された日だ。
父は不思議と、そう念を押していました。
リメンバー、パールハーバー。
――ちょうどその日に、放送があったんですか。
――放送はされなかった。番組は差し替えられることになった。大統領の演説と、ニュース番組に。火星の旅なんて、悠長なことは云ってられなくなったから。
その差し替えもまた、侮辱だったのだ。
――襲撃は恥辱だ。しかし、そのために仕事が台無しにされるのはもっと屈辱だった。忘れられないよ。怖かったが、それ以上に腹立たしかった。だから……、逆らうことにしたんだ。
――放送したの!
アイアランド氏は、若かりし日の無茶を自嘲気味に、それでいてプライドをたっぷりと皺に滲ませて破顔した。
――若かった。準備も手伝いもない。音響さえほとんどなかった。台詞と、衝動だけがあった。ローレンスは降りたが、ミュア・キャンベルは乗ってくれたな。同じ局の別の放送室から、ほかのチャンネルの隙間を縫って。あとで局からこっぴどくやられたが、そのあとのどさくさで忘れられた。憶えているのはわたしくらいだろうさ。
プロデューサーのミュア・キャンベルは、故郷のイングランドに戻ったと云う。アイアランド氏はハリウッドに転がり込んで、映画俳優として自分の居場所を見つけた。彼の話が赤狩りの恐怖へなだれ込むのを堰き止めて、わたしは『火星の旅人』についてさらに訊ねた。――その番組は、どれだけのひとが聞いたんでしょう。
アイアランド氏は目を瞑り、深く息を吸った。
――ひとり、ふたりだけだったとしても、驚かない。それでじゅうぶんだ。
所詮は自分の衝動を満たすための暴走だったから、と彼は云う。
――ああ、話した。久しぶりに、あの物語を思い出したよ。ずいぶんと爽やかな気分だ。
――待って。まだ訊きたいことがあります。ラジオの録音、あるいは台本は、いま、どこかに?
はっきりとしない彼の視線は、天井を見つめて動かない。
――わたしは持っていない。誰かが録音しているかも知れないが、わたしはとにかく、演じて、放送することで精一杯だった。台本は……、局を離れるときに一緒に棄てた。
――脚本を書いたのは誰ですか。
――ミュア・キャンベルだ。あいつが持ってきた。でも、あいつが書いたわけじゃないとわたしは睨んでる。あいつはものを書く才能はなかった。
――じゃあ、誰が。
アイアランド氏の息は、ますます緩やかで、底知れない深くへ落ち込んでいった。――わからない。元々は、どこかで聞いた話だと。故郷で……
――イングランド?
返事はなかった。老人の吐息は寝息に変わっていた。
本物の看護師が来る前に、わたしは病室を出た。今度こそ途切れた、と思った。八十年前、たった一回だけ、ごく狭い範囲に放送されたラジオ番組を複数人が録音していたことのほうが奇跡だ。その録音を、彼らが繰り返し聞いていたことも。彼らの前に一瞬だけ姿を現わした火星が、聞かれ、語られ、受け継がれ、そしてわたしはそれに、追いつくことができない。
長い旅を終えて、わたしは自宅に戻った。ソファに横たわると、壊れたスプリングが軋む。夜、父はよくこうして寝転がりながら、酒をひと壜飲み終えると、背もたれの裏に置いた。それを棄てるのは母だった。酒壜は、どこからともなく補給された。どこに隠しているんだか、と母と一緒に呆れたものだ。
「……どこに隠していたんだか」
テレビを点けると、火星の話題など少しも放送されていなかった。画面に視線を向けながら、しかし画面を見ることなく、わたしは想像していた。ヨーロッパの戦禍に姿を眩ましたパーシヴァル・ローエルが、書き上げた小説の草稿を、誰かに渡すことを。その内容が伝聞として、ミュア・キャンベルに届いたことを。あるいは草稿がそのまま、台本として焼き直されたのではないかと云う可能性を。恥辱の日に、ローエルの物語がほとんど掻き消されたと云う悲劇を。それでも何人か、西海岸の子どもたちが聞いていたと云う奇跡を。
「どこに……」
『火星の旅人』それ自体の長い旅を思えば、これ以上のことは望めないかも知れない。けれど最後に、本当に追いつくことを諦めるために、わたしはセドリックへ電話をかけた。
「――父さんがどこに酒を隠していたか、知ってる?」
医者はこたえた。――隠していたって、どうして知ってる?
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