骨の囁き

@free-dreamer

第1話

 夕暮れの墓地が好きだ。

 陽が傾きかけると、墓参りの参拝者も慌てたように急な坂道を下っていく。そして、ぼくはひとり骨の囁きに耳を澄ますことができる。

 「なんだろうね。やっと来てくれたと思えば、ちょっと手を合わせただけで、線香の一本もなしかい。いつも家の庭からここが見えてるだろうに」

 (家の庭が見えているんですね。同じように家の庭からもここが見えているでしょうね。あなたが見ているように、あなたを見上げて手を合わせているんですよ、きっと。ここまであの坂を上がってくるのは大変ですから)

 「また、お供えは松屋の饅頭か。おれは新生堂の栗羊羹が好きなんだけど。もうだれも忘れちゃったのかな。仕方ないか、おれも死んで長いし、…って、いつだったけ?」

 (動物のえさになるからお供えは禁止になってます。この前も住職さんに言われてました。それでもお供えするのは忘れっぽいんですね。でも、甘党だったことは覚えているんだ)

 「昔はよかったんだよ。なにがって、なんでもだよ。いろんなことがね。でも、もう遠い昔さ。なにがよかったのかも思い出せないくらいね」

 (でも、よかったんですよね、昔は。そんな昔を持っているのは素敵ですよ。思い出せなくても、確かにあったんですから。私もいつかそんな昔を持ているようになりたいですね。そしたら、今よりもっと自分を愛せるかも)


 骨たちはだれかに向かって囁いているわけではない。ただ、心に湧き上がる思いが言葉になっているのだ。ぼくはそんな風に考えている。骨に心があるというと笑われるかもしれないが。

 骨たちの囁きは注意深く耳を傾けないと聞こえない。こんな風に言ってしまったが、かれらの囁きは耳ではなく、直接頭に言葉が入ってくる。ふと微かな風の音に気付き、よく聞こうとすると、その中に鳥のさえずりが聞こえてくる。そのような感じだろうか。

 骨の囁きを聞き始めたのは、父の遺骨を初めて見たときだった。火葬場で遺骨を拾っていたとき、父の囁きが聞こえてきた。

 「みんな、ご苦労さん。すっかり世話になってしまった。苦労を掛けてしまったけど、勘弁してくれよ。ま、これからはぼちぼち宜しく頼む」

 ぼくは納骨の日まで時間が許す限り父の囁きを聞いていた。骨から発する飾りのない素の声が聞こえる。だが、それはぼくだけの秘密だった。

 あの日から5年になるが、骨の囁きはぼくの日常の一部になっていた。そして、ぼくの日常はあの日から少しづつ変わっていった。


 「随分と探しましたよ」

 それは骨の囁きではなく、生ある肉体から発せられた言葉だった。囁きとは異なり、感情という色が付いている。ただ、その感情の色は血の赤のようだ。

 男が立っていた。こんな墓地にはそぐわないスーツにネクタイ姿だった。ただ、スーツは黒く、闇に包まれ始めた墓地に溶け込むにはうってつけなようだ。

 男は立派な作りの墓の向こうを回って現れたようだ。ぼくはその墓の反対に立っていた。ぼくと男は墓を挟んで対峙する格好にあった。

 「ご苦労さん。それで、探し物は見つかりましたか?」

 ぼくはそう切り返したが、夕暮れの墓地でなにを探すというのか、もう少し気の利いたセリフを言うべきだった、と心のメモに綴った。

 「ええ、苦労しましたが」

 「それはそれは、ご苦労さんでした」

 「そういうわけで、大人しく返していただけますね」男がぼくの傍らに置かれた箱に視線を向けた。「それで今回の件は不問、なかったことになります。事を荒立てて、世間の耳目を集めたくない、それがクライアントの要望ですので」

 「クライアント、ああ、あのお嬢様方のことですか」

 「想像するのはあなたの自由ですが、クライアントおよびその依頼内容については守秘義務がありますので、なにもお伝えすることはありません」

 「ただ、依頼内容はこれなんでしょ」ぼくは傍らの箱を持ち上げると、両手で胸の前に抱えた。

 男がゆっくりとうなずいた。真面目な執事のような動きだったが、ぼくを見る目は冷たく、まばたきもせず、視線が逸れることもなかった。

 「では、お返しいただきましょうか」男が一歩踏み込んできた。

 一種独特な圧を感じたが、ぼくはその場に留まった。

 更に男が一歩を進めたとき、ぼくは箱を胸から離し、右手のてのひらに箱を乗せ前へ差し出した。男との距離は3mほど、5歩か6歩だろう。

 箱の重みで腕が小刻みに震えていた。手のひらの上で箱が前後に揺れる。

 男が立ち止まった。困ったような作り笑いをしている。

 「悪い冗談は困りますね。こんな業界にいますが、根はばかが付くほどの正直者なんですから」男の視線がぼくを刺す。言葉通り、男の目は正直に怒り満ちていた。

 ぼくは左手で箱を持ち上げると、頭の上に掲げた。

 男は2歩下がり、元の場所に戻った。黒のスーツが闇に溶け込み、男の顔と赤いネクタイが宙に浮かんでいるように見える。

 「なにがお望みですか? 故人の遺骨を盗んで何がしたいんですか? ご遺族の気持ちが分かりますか? クライアントは遺骨が無事戻れば、それだけでいいとおっしゃているんです」

 「あなたは骨の囁きが聞こえますか? この箱にいる遺骨の囁きがぼくには聞こえます。あの地獄の家には戻りたくない。あの殺人鬼から逃げたい。そう繰り返しています」

 「言ったでしょ。悪い冗談は困りますって。骨の囁きって、なんのことですか? こう言っては失礼ですが、一度精神科を受診した方がいいですよ。大変なことになる前に。今回も大変なことに違いないですが」

 そんな男の言葉が闇に消えていくように、男の姿が闇に紛れていった。

 男がこの墓地のどこかにいる。

 ぼくは耳を澄ました。

 「こんな時間までなにを遊んでるんだ。かくれんぼでもしてるだろうかね」

 少し離れた佐々木家の墓の主だ。門限に厳しい方だったようだ。

 「ねえ、あなた」ぼくは佐々木家の墓の方向に向かって声を掛けた。男が聞いているはずだ。「この墓地から少し離れたところに火葬場があるのを知ってますか? ぼくはそこで働いています。たくさんの方の囁きを聞いてきました。なぜか、肉体がなくなり、骨だけになると聞こえるんです。この方が骨だけになり、あなたの言うクライアントのお嬢様方が遺骨を拾われていたときから、この方は、帰りたくない、と繰り返し囁いていました。娘たちに殺された、少しづつ毒を飲まされ続けた、と言ってました。ぼくでも到底信じられる話ではないですよね、お嬢様のひとりがこう言ったのを聞くまでは。遺骨はすぐに処分しましょう。なにも出てこないうちに、と」

 ぼくは再び、骨の囁きに耳を澄ませた。

 「なにか始まるんだろうかね」「静かにしとくれよ」「もういい時間なんだよ」

 そんな骨たちの囁きが聞こえた。どうやら、男はこの近くにはいないようだ。

 周りは闇に包まれていた。見下ろすと、家の明かりが点々と続いている。あの明かりのひとつひとつにこの墓地に手を合わせる人々がいる。

 腕時計を見ると、18時30分になろうとしていた。ぼくはしばらくの間、周囲の気配を探った。ひとつ深呼吸をすると、箱を抱えた。

 なんとか帰りの道が見えた。少し先に墓地を降りる急な坂道があるはずだ。

 ぼくは音を立てないよう、ゆっくりと息をすると、坂道に向かって歩き出した。道に敷かれた砂利が足元で崩れていく。微かな音になっているように願うしかなかった。

 今歩いている道と坂道が交わる手前まで来たとき、闇の中に赤いネクタイが揺れているのに気付いた。驚きはなかった。予想通りだ。

 「もういいでしょう。こんな時間です。早く終わらせましょう」男の声に少し苛立ちが混じっているように聞こえた。

 「骨たちの囁きタイムは始まったばかり。もう少し楽しみたいところだけど。時間のようですね」

 ぼくは坂道までの距離を箱を抱えたまま一気に走った。足の下の砂利が暗闇に耳障りな音を響かせた。「うるさーい」骨たちの囁きが耳をかすめる。

 そして、ぼくは体を男にぶつけた。だが、男はぼくをがっちり受け止めると、ぼくの足を払ってきた。闇の中、上下の感覚が一瞬消えたが、背中を強く地面に叩かれ、自分が倒れこんだのだと思い知らされた。幸いに頭は打っていない。昔身に着けた柔道の受け身のおかげだったのだろう。

 ぼくをまたぐように男が見下ろしていた。目の端に男の右足が上がるのが見えた。

 蹴られる。容赦なく。

 ぼくは胸に抱えたままの箱を持ち上げると、坂道に向かって放り投げた。男の顔が箱を追っていく。

 ぼくは体をねじると、うつ伏せになって箱の行方を見た。下り坂を回りながら落ちていく。男が箱を追って駆け出すのが見えた。突然のことと急な下り坂のために、バランスを崩しかけていた。ぼくはできる限りの早さで立ち上がると、再度、男に体をぶつけた。

 倒れこんだぼくの向こうに、箱を追って男が下り坂を転げ落ちていくのが見えた。

 その下り坂の下からヘッドライトが上がってくる。定時巡回のパトカーだ。今日も時間通りだった。

 箱に入った骨壺と不審な男。警察の好奇心を十分刺激するはずだ。そう信じている。

 もし、そうならなかったとしても、あの骨の希望は叶えられる。

 あの地獄の家には戻りたくない。あの殺人鬼から逃げたい。

 なぜなら、骨壺に入っていた遺骨はすでに別の場所に納骨しているからだ。今頃は他の骨たちと囁きあっているはずだ。

 「人生いろいろあったけど、すっきりしたもんだよ。ホント、今が一番だね」

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