第二章:言語の記録者
明けの明星がまだ輝く早朝、咲は目を覚ました。獣皮のテントの中で、彼女は昨日からの出来事を整理していた。
部族の人々は彼女に「*Sweh₂dʰus」(甘い、心地よい)という意味の名前をつけてくれた。その発音は現代の言語学者が再構成した形とほぼ同じだった。
(私の理論は正しかった。この時代、この場所で、印欧語族の重要な分岐が始まろうとしているのね)
外からは、朝の生活が始まる音が聞こえてきた。女性たちの会話、子供たちの笑い声、家畜の鳴き声。それらすべてが、失われた言語の生きた証拠だった。
咲は急いでテントを出た。昨日から考えていたことを実行に移さなければならない。
まず必要なのは、文字を記録する道具だった。粘土板はまだ存在しない時代。彼女は周囲を見回し、適当な石を探し始めた。
「*Kʷid dʰeh₁-si?」(何をしているんだ?)
声をかけてきたのは、昨日彼女を見つけた男性だった。彼の名は「*Peth₂-tēr」(守護者)という意味だった。
「*Schrijo-h₂eg」(私は書きたいのです)
咲は身振り手振りを交えて説明した。自分の知識を記録したいのだと。
彼は不思議そうな顔をしたが、すぐに理解を示してくれた。そして、近くの丘へと咲を案内してくれた。
そこには、平らな岩肌が露出していた。咲は喜びの声を上げた。
(これなら、文字を刻むことができる!)
次に必要なのは、刻む道具だった。*Peth₂-tērは、鋭い石器を持ってきてくれた。
咲は慎重に作業を始めた。まず、現代の音声学の知識を活かした文字体系を考案する必要があった。
(子音と母音を区別し、さらに音の高さも表現できるようにしないと……)
彼女は石に向かって、一つ一つ丁寧に記号を刻んでいった。それは、人類最古の音声記録システムの誕生の瞬間だった。
「*Kʷid tod?」(これは何だ?)
*Peth₂-tērが興味深そうに覗き込んでくる。
「*Swonoi memn-」(音を覚える)
咲は、できるだけ簡単な言葉で説明しようとした。彼は真剣な表情で、咲の作業を見守っていた。
一日中かけて、咲は基本的な文字体系を完成させた。それは、現代の国際音声記号(IPA)の知識を応用しながらも、石に刻むのに適した単純な形に整理されていた。
夕暮れ時、部族の長老たちが岩のところにやってきた。彼らは咲の作った文字を見て、長い議論を始めた。
最終的に、年長の女性が咲に告げた。
「*Deiwos deh₃-non」(神々の贈り物だ)
咲は困惑した。自分の知識が神託として扱われることに、複雑な思いがあった。しかし、それは記録を残すためには必要な妥協かもしれなかった。
その夜、テントの中で咲は考え込んだ。
(私の存在が、歴史を変えてしまうのかもしれない。でも、この言語を記録することは、それだけの価値があるはず)
月明かりの中、彼女は自分の使命を再確認していた。
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