青ダルマの呪い
カミオ コージ
僕の胸の奥で、何かがざわついた。
ゴミ屋敷。
その言葉を耳にした瞬間、僕の胸の奥で、何かがざわついた。
区役所の地域振興課に異動してすぐ、僕はこの案件を任された。イマエ町のゴミ屋敷。住人は42歳の男性;ササキ。彼は近隣住民の苦情の的となっていた。「火事の危険」「悪臭」「不気味な雰囲気」――住民たちの言葉には嫌悪感しかない。ササキが家から出るのは深夜、コンビニに食料を買いに行くときだけらしく、誰も彼と話をしたことがなかった。
初めて彼の家を訪れたとき、玄関の扉は固く閉ざされていた。ノックしても返事はない。数日後、何度も訪問を繰り返し、ポストに手紙を入れるようにした。「お話を聞かせてください」とだけ書いた手紙を。
2週間後、扉がようやく開いた。隙間から覗いたササキの顔は疲れ切っていた。
「お前、本気でこの家を片付けたいのか?」
「もちろんです。」僕は即答した。
「でも、それ以上に、どうしてこうなったのかを知りたいです。」
彼は少し考え込むようにしてからため息をつき、こう言った。
「じゃあ、中に入れ。ただし、一つだけ条件がある。」
「条件?」
「話を最後まで聞け。途中で嫌になっても、絶対に最後までだ。」
★
ササキの目には力がなく、どこか焦点が合っていないように感じられる。その瞳は、長い孤独とゴミに囲まれた生活の中で、外の世界とつながることを諦めたかのようだった。彼の姿全体が、見ているだけで重苦しい空気をまとっており、まるでその体にゴミ屋敷の影響が染みついているかのようだった
家の中に足を踏み入れた瞬間、僕は言葉を失った。
膝まで積み上がったゴミ、腐敗した生ゴミ、無数のカップヌードル容器や空き缶――それらが混沌の海のように広がり、部屋全体を覆い尽くしていた。臭いは強烈で、空気が重かった。
その中で、小さくとも異様な存在感を放つものがあった。拳ほどの大きさの青いダルマ。片方の目だけが黒く塗られ、もう片方は空白のままだ。その鮮やかな青色は、周囲の混沌の中で際立っていた。
ササキはゴミの山に腰を下ろし、ダルマを指さして言った。
「これが……俺の話し相手だ。」
「話し相手?」僕はその言葉を疑った。
「そうだ。最初は信じられなかったけどな……あいつが話し始めたんだよ。」
「ダルマが?」僕はその異様さに戸惑っていた。
「このダルマを見つけたのは、廃業した遊園地の裏手にあるゴミ捨て場だったんだ。あの日、なんであんなところに行ったのか、今はよく思い出せない。周りは壊れた椅子やテーブル、ビニール袋ばかりだったのに、あいつだけは妙に目を引いた。まるで、俺を待ってたみたいだったんだ。それが、話し始めたんだよ。『六百年前、この場所には隕石が落ちた。そのとき私は、この星にやってきた』ってな。頭がおかしくなったのかと思ったよ。隕石? 地球にやってきた? ふざけてるのかと思って笑い飛ばそうとしたけど……なんだか信じられたんだ。いや、信じざるを得なかった。目の前のこのダルマが話しているんだから……」
僕はササキが妄想でおかしくなっていると確信していた。しかしながら、区役所の職員の原則は、こういう時はすべて話を聞いて、受け入れる、正確には受け入れたふりをすることだった。
「ダルマは自分を家に持って帰って欲しいと言ってからは何もしゃべらなくなった。俺はちょっと不気味だったけれども、このダルマを持って帰ることにしたんだ。」とササキは語った。
「最初は1日に1分も話さなかった。でも、それでもあいつは俺の問いに答えてくれた。短い言葉でな。俺はそれが嬉しかった。」
「それで?」
「それで、気づいたんだよ。」彼はダルマをじっと見つめながら言っ
「ゴミを増やすたびに、あいつが話してくれる時間が長くなったってことに。」
★
「どういうことですか?」僕は尋ねた。
ササキは少しだけ笑った。
「最初は偶然だと思ったんだ。でも、ある日、俺が部屋の隅にあったゴミ袋を捨てたとき、ダルマの声が途切れた。それで試してみたんだよ。ゴミを増やしたらどうなるか。」
彼は小さなカップヌードルの容器を拾い上げた。
「そしたら……話せる時間が長くなった。俺が何を聞いても、ダルマがちゃんと答えを返してくれるようになった。」
「それで、ゴミを増やし続けたんですか?」僕は少し息を呑んだ。
「そうだよ。」ササキは淡々と言った。「ゴミを出すたびに、あいつと話す時間が増える。俺が悩みを相談すれば、解決策をくれるし、俺が落ち込んでいれば励ましてくれる。最初は1分だったのが、10分、1時間、そして今では……ほとんど一日中話せるようになった。」
彼の言葉には、妙な執着が滲んでいた。ゴミを増やすことで生きがいを得ているような響きがあった。
「貯金だって10万円しかなかったんだけど、今や1000万。この青いダルマが、月に1度買う株を教えてくれた。」
ササキはそう言うと、ゴミの山の中に座り直し、膝の上に青いダルマを乗せた。その目線はまるで、何か神聖なものに向けられているようだった。
「株を……教えてくれた?」僕は彼の言葉を理解するのに少し時間がかかった。
「そうだ。最初は何もわからなかったけどな、ダルマがささやくんだよ。『これを買え』って。」
「本当に?」僕は自分の耳を疑った。
「冗談だと思うかもしれないが、本当だよ。」
彼の目はどこか狂気じみた輝きを放っていた。その光が不気味に見えたのは、部屋の暗さのせいだけではなかった。
「ダルマはゴミがあるからこそ力を発揮するんだ。この部屋の混沌の中で、あいつは輝いている。ゴミを増やすほど、こいつの力は強くなる。そして俺に、正しい答えをくれる。」
その言葉には確信が込められていた。しかし、同時にどこか脆さも感じられた。
「じゃあ、もしそのゴミを片付けたら?」
ササキは僕をじっと見つめた。顔には怒りも恐怖も浮かんでいない。ただ、諦めたような表情だった。
「ダルマは、もう何も教えてくれなくなるだろうな。そして俺は……またゼロに戻る。孤独に、何もない人生に。」
その瞬間、僕の中でこの男が抱えている闇の深さがはっきりと形を成した。彼が頼っているのは青いダルマではない。その向こう側にある、自分自身が作り出した虚構だった。
★
僕は一歩踏み込むことを決めた。
「確かに、話し相手もできたし、お金は得たかもしれません。でも、ササキさんの生活はどうですか? 幸せになれていますか? このゴミの中で、ダルマだけを信じて、孤独に閉じこもって……それで満足なんですか?」
ササキの顔に微かな動揺が走った。しかし、すぐに硬い表情に戻った。
「俺は……それでもいいんだ。生活できれば。いずれもっと自由になれるかもしれない。もっと楽になるかもしれない。だからダルマを手放すなんてできない。」
「自由ですか?」僕は問い返した。
「そのゴミに囲まれて、ダルマに依存して、それが自由なんですか? 本当に自由になりたいのなら、この執着から解放される必要があるんじゃないですか?」
ササキは何かを言いかけたが、その言葉を飲み込んだ。目を伏せ、膝の上のダルマをじっと見つめている。その姿は、深い森の中で出口を探しているように見えた。
ササキは、自分がゴミ屋敷に住んでいることを正当化しようとして、小さなだるまがしゃべるなどと言ってるのだ。この妄想から解放させなければ。そう思ったとき、ダルマが突然語りかけた。
「ササキ、お前はもう十分だ。」
『喋った……』部屋の空気が震えるような低い声だった。それは先ほどよりもさらに穏やかで、それでいて強い力を持っていた。
「もういい……?」ササキはつぶやいた。
「そうだ。」ダルマの声が響いた。
「俺はもうこれ以上覚醒する必要はない、そしてお前も変わる時がきた。すべてのゴミを片付け、最後に私のもう一つの目を入れてくれ、そこに答えがある。」
そう言ってダルマは喋らなくなった。
ササキは震える手でダルマを握りしめた。涙がこぼれたが、それを拭うこともなく、小さな声で言った。
「本当に……手放せるのか?」
僕は静かに彼に語りかけた。
「ササキさん、今ならできます。一緒に片付けましょう。そして、最後に目を入れましょう。新しい人生を始めるために。」
彼は大きく息を吸い込み、しばらくじっとしていた。そして、ついに覚悟を決めたように頷いた。
★
翌日、僕は区役所の職員たちとともに再びササキの家を訪れた。今回は清掃道具やゴミ袋を持ち、徹底的に部屋を片付ける準備を整えていた。
「やるしかないんだよな……」玄関先に現れたササキは、小さな声で呟いた。その顔には緊張が見えるが、それ以上に何か覚悟を秘めているようだった。
片付けが始まると、膨大な量のゴミが次々と袋に詰め込まれていった。腐った生ゴミ、押しつぶされた空き缶、そして無数のカップヌードルの容器……それは、ササキが長年抱えてきた孤独と執着の象徴だった。
途中、彼が何度も手を止める場面があった。埃にまみれた古い写真、壊れた時計、そして汚れたノート――それらが彼の過去を物語っているようだった。
「これも……捨てるのか?」
彼は小さく呟いた。僕はそっと彼の肩に手を置き、静かに言った。
「捨てるんじゃありません。新しい未来のために手放すんです。」
彼はもう一度、深く頷いた。
★
家から運び出されたゴミは、2トントラックの荷台にぎっしりと積み込まれていた。黒や透明のゴミ袋が隙間なく詰め込まれ、山のように高く盛り上がった袋の塊は、荷台の枠を軽く超えていた。袋が崩れないようロープでしっかりと固定され、タイヤは重さに沈み込んでいた。区役所の職員たちは汗をぬぐいながら、「こんなに多いとは思わなかった」と疲労混じりに口をそろえた。その量はまさに、ササキが長年積み重ねてきた孤独や執着そのものだった。
トラックに積む前、一時的に庭先に置かれたゴミ袋の山は、一目で異常とわかるほど膨大だった。その異様さに近隣住民たちは道端に立ち止まり、言葉を失ったまま見つめていた。「これが一軒の家から出たのか……」と、誰かが小さく呟く。その光景は、ただのゴミではなく、この家とササキが抱えてきた年月そのものを象徴しているように見えた。
最後のゴミ袋がトラックに積まれ、車両がゆっくりと出発していくと、長らくゴミで覆われていた家はその全貌を現した。初めて窓から差し込んだ陽光が、埃をかぶった床や壁を優しく照らしていた。外にまで溢れていた悪臭は消え、玄関から新しい風が吹き込む。その静けさの中、ササキは玄関の外で佇み、トラックが見えなくなるまでじっと見つめていた。
★
部屋にはほとんど何も残っていなかった。中央にある青いダルマの鮮やかな青色は、空っぽになった部屋の中でひときわ際立っていた。
ササキはダルマを手に取り、震える手で筆を握りしめた。
「これで……終わりだな。」
彼はそう言いながら、空白の場所に黒く小さな目を描き入れた。その瞬間、部屋全体が眩い光に包まれた。
そして、光の粒となって消えていった。
ゴミが片付けられ、ダルマが消えただけで、他には何の変わりもなかった。それがダルマの示す「答え」だった。
★
「あのゴミの量は、ササキさんが抱えてきた執着そのものだったんですね。」
彼は僕の言葉に反応し、静かに頷いた。
ササキの家に積み上がったゴミは、まさに人間の執着そのものだった。あの青いダルマは、その執着が化身として我々の前に現れただけなのかも知れない。
部屋に流れる空気は清らかで、何かが確かに終わり、新しい何かが始まったのだと感じさせた。ササキの新しい人生が、静かに、そして力強く動き出そうとしていた。
★
次の日、出勤すると、また違う町のゴミ屋敷の報告書がデスクに置かれていた。
報告書に書かれた「火事の危険」「悪臭」「近隣住民の苦情」という言葉は、以前の僕ならただの「仕事の一部」として目を通していたはずだ。でも今は何か違う言葉に思えた。
人はどうしても執着する。
物に、過去に、誰かに。そして、その執着は知らないうちに形を変え、積み重なり、自分自身を覆い隠してしまう。
歳を取るほど、軽くなるべきだと人は言う。しかしながら歳を重ねるほど、人はさらに執着を強くし、その重さに耐えきれなくなっていく。
僕は静かに報告書を手に取り、立ち上がった。
青ダルマの呪い カミオ コージ @kozy_kam
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