第一部(二) キイロ

 声をかけてきたのは、キイロと名乗る男だった。その名のとおり、着ているジャージからスニーカーまで、濃淡様々な黄色のコーディネートだ。金色に染め上げられた短髪がひたすらに透き通っている。

 彼はこの洋館の住人で、夕食の買い出しをしてきたのだと言う。確かに、彼が両手に提げたエコバッグは大きく膨らみ、ねぎの先端が顔を出していた。どう見ても一人分の量ではない。

 私はと言えば、立ち上がったもののどんな顔をして何を言えばよいのか分からず、視線を上下左右に振りながら空気を吸うことしかできなかった。自宅の前で這いつくばっている人間がいたら、誰だって警戒する。キイロだって優しく声をかけてくれたものの、その実は私の抱える事情や通報すべき機関について考えを巡らしているはずだ。とすれば、こちらが何者で、なぜここにいるのかを探ってくるだろう。

 家へ送り返されてはたまらないので、私は踵を少し浮かせる。黙って立ち去ってしまうのが得策だろうと、駆け出すタイミングを計っていたのだ。しかし、キイロが続けてみせた反応は私の予想を丸っきり覆した。

「何かワケがあるんでしょ? 問い詰めたりしないから、とりあえずうちにおいでよ。ここは寒いから」

 荷物も重いしね、と舌をぺろりと出してからキイロは門を肩で押し開けた。鈍い音を立てたそれをくぐるかどうか、私はわずかに躊躇する。でも、門を足で留めながらこちらを振り返ったキイロの顔を見て、一歩踏み出した。何と言うか、慈愛にあふれた顔とはこんなのを指すのだろう――そう思ったのだ。


 洋館の玄関は、扇の形にカーブを描いた広々とした空間だった。

 たたきから一段上がったスペースには絨毯が敷かれ、その奥に二階へ続く螺旋階段が見える。靴箱は観音扉になっていて、キイロは脱いだ靴をたたきに置きっぱなしにしたので、靴の足数を見ることはできなかった。手前の傘立てには傘が四本ある。私の視線の動きから察したのか、荷物を抱え直したキイロが微笑んだ。

「ここには僕を含め、四人の人間が暮らしてるんだよ。家族ってわけではなくて、友達同士でハウスシェアしてるみたいな」

「豪華なおうちですね」

「外面だけはね。中身は全然だよ」

 確かに、玄関は広く清潔だが、物がほとんどない。置こうと思えばグランドピアノくらい運び込めそうなのだが。

 キイロに促され、リビングに続くという扉を開ける。最初に目に入ったのは、革張りのソファ。二人掛けのものが三つ、コの字に並んでいる。その手前にはテレビ。

 二間続きになった部屋の奥にはダイニングテーブルがあって、椅子が五つ――手前に二つ、奥に二つ、あとの一つは誕生日席の位置に――鎮座していた。キイロは四人暮らしと言ったから、一脚は客用だろうか。

 壁に燭台を模した照明が並んでいて、うっすら黄みがかった光を放っている。

 最低限の物でしつらえられた、お洒落で静かな空間。それなのに、どこか寂しい印象を受けた。

 ここには何か大事なものが欠落している。

 そんな確信を抱く。それが具体的な事物でないことははっきり分かっていた。何と言うか、動物の剥製を眺めているときに感じるような静けさがあるのだ。

「まずは荷物を置いてくるね。手伝ってもらえるとありがたいな」

 キイロと共にダイニングの方へ向かうと、ちょうどダイニングテーブルの右手側に扉が見えた。入口からは目に入らない位置。他の瀟洒な木製扉とは違い、すりガラスの簡易な作りだ。いわゆる勝手口に近いだろう。

「ごめん、そこ開けて」

 促されるままにドアノブをひねると、キッチンが眼前に現れた。隅々まで手入れの行き届いたガスコンロにシンク。白を基調とした食器棚。炊飯器やレンジ、冷蔵庫といった家電は、キッチン奥の壁に沿って並べられている。

 キイロはどさりとエコバッグを床へ下ろした。これから仕分けるのだと言う。

「冷蔵庫に入れなきゃいけなさそうなものを、バッグから出してくれる?」

「分かりました」

 私はてきぱきと作業に取り掛かった。要冷蔵の物とそれ以外とを分け、さらに野菜室に入れるべき物を別にしておく。

「まだ若いのにしっかりしてるね。僕よりよっぽど手際がいいよ」

 そう褒められて面映ゆいと同時に、少し複雑な気分になる。

 私だって、買い出した食品の仕分けなど上手くなりたくなかった。まごつきながら作業して、「一生懸命だね」くらいの言葉がもらえる程度でいたかった。

「名前は何ていうの?」

 キイロの声にどきりとする。彼は何でもないふうに野菜室へ食品を詰め込んでいた。

 どう答えたらよいか束の間逡巡する。ここで名前を言ってしまえば、然るべき機関に連絡を取られて終わりかもしれない。しかし、偽名など使えばいつぼろが出てもおかしくなかった。

「――モモ、です」

 迷った挙句、自分のあだ名を口にする。小学生の頃――つまり、まだ友達と呼べる存在がいた頃――私は「モモちゃん」と呼ばれていた。本名がモモコという、ただそれだけなのだけれど。

「モモちゃんか、いいね」

 キイロはそれだけ言う。特に探りを入れてくる様子もない。私はほっと胸をなでおろす。

 とは言え、不安が消えたわけではなかった。キイロに通報する気が無かったとしても、それはそれで気がかりだ。常識的には、ここで警察なり児相なりに連絡を取ろうとするものだということは私にも分かる。キイロがそうしないのには、何かよからぬ目的があるからかもしれない。人当たり良く振る舞いながら、裏では若い女の子にいたずらするような人間なんていくらでもいる。

「何か、事情があるんでしょ?」

 こちらの不穏な思考をよそに、キイロはあっけらかんと言った。

「とりあえず、どっかに通報するなんてことはしないから安心して。君をいつまでここに居させてあげられるかは他の三人とも相談しないとだけど、まあ体力と気力が回復するまではここにいるといいよ」

 信じていいものだろうか。私には分からない。人を信じたいのに信じられない。それが今、私の背負っている一番深い問題だ。

 いずれにしろ、私の選択肢は今となっては二つだけ。ここに居させてもらうか、それともまたあてどない旅に繰り出して家へ連れ戻されるか。

 返事は決まっていた。

「ありがとうございます」

 キイロはうんうんと頷く。食品は全て片付け終えたようだ。彼はパンパンと手を払い、人差し指を立てる。

「今、二人は外出してるんだけど、一人は家にいるはずだ」

 ここで暮らしている仲間のことを言っているのだろう。

「せっかくだし、“シロ”に会っておくかい?」

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