くじびきのくに
葉島航
第一部(一) 走る夜
私は走っていた。
世界の端から端を切り裂くみたいに。
街灯の明かりが視界の隅を流れていく。かわいそうに、景色はそうやって私に振り回される。
行く当てはない。もうここには居られないという衝動だけが、私の全身を駆動させている。
料理をまともに作れない母は、今日の夕食をどうするのだろう――そんなノイズを、夜風がどこかへ連れ去っていく。
私はもうあそこに居られない。とっくに壊れてしまっている私自身が、これ以上粉々にならないために。
どれだけ走り続けたか分からない。高校の持久走をもっと頑張っておけばよかった――脈絡なくそんなことを思う。授業でこれだけの走力を見せつけられたなら、クラスメイトからの眼差しも少しは変わったかもしれない。薄汚い制服を着て、前髪の隙間から人の顔色ばかりうかがっている自分から一歩抜け出せた、なんて。
どこか遠くから聞こえる車のエンジン音が、義父の乗っているベコベコに凹んだワゴンのそれに思えて、私は一段とスピードを上げた。車が来られないような小路に折れ、やみくもに繁みを跳び越す。
抜け出た先は、藪に囲まれた砂利道だった。車はおろか自転車でもここを通ろうと思う人間なんていまい。この道を行けるところまで行ってみよう、と思った。ここが私に残された切り取り線なのだ。早くに裁ち切って、切れ端と一緒に世界の縁から転がり落ちてしまいたい。誰にも振り回されず、誰のことも振り回さず、無重力の暗がりで丸まっている――そんなことができたら、どんなに楽だろう。
でも、この世の果ては案外すぐにやって来た。古びた鉄製の門というかたちで。
門の向こうには角ばった洋館が見える。どうやら私の走って来た砂利道は、ここの住民が使う生活道路のようなものらしい。他に迂回路も見つからず、私は門の正面に這いつくばった。さすがに全身が悲鳴を上げている。肺が目一杯に膨らんだり萎んだりを繰り返しているのが分かった。足の裏が自分のものではないみたいに分厚く脈打っている。
胃の中のものを吐きたかったが、他人様の門前だと唾を呑んで耐えた。落ち着いたら引き返して別の道を探すべきなのかもしれない。
でも、そんなことできるのだろうか。私はもうすでに、果てまでたどり着いてしまったのだ。奈落へ沈んだ切れ端を縫い直し、また別のところを切り始める力などもう残っていない。
私の選択肢がトランプのように眼前へ広がった。冷たい砂利の上に浮かぶそれらを睨めつける。枚数は全部で十枚。そのうち九枚はどれを選んだところで行きつく先が同じ――つまり、「家に連れ戻される」。警察、児童相談所、アンド、ソー、オン。どこに逃げようがどこを頼ろうが、結局そうなるのだと私は経験的に悟ってしまっている。
そして残りの一枚は、私に耐えがたい苦痛をもたらすことが明白だった。実行は難しくない。手ごろな道具さえあれば――いや、無かったとしても、その辺を走る車の前に身を投げ出せばいいのだ。しかしその場合、車の運転手はどうなるのだろう。自分のものでは決してないはずの罪悪感を抱いて生きていくことになるのか。もしかしたら、義父がこれ幸いと、慰謝料やら何やらを吹っ掛けるかもしれない。
これ以上どうしろと言うのだろう。私は地面に手をついたまま起き上がれない。ありとあらゆる不可能性が私の身体中にのしかかっている。
そのとき、あまりにもあっけらかんとした声が頭上から降ってきた。
「あれえ、君、どうしたの?」
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