一章:小説家が死んだ後

第1話 葬式から始まる話もある

 六月某日。彼女の葬式は梅雨の来る前に執り行われた。

 鯨幕が囲う葬儀会館の中央、彼女の遺影は、幸せそうだった。いかにも写真用に作った表情で紙織は撮られている。

 紙織は写真のように、幸せに死ねただろうか?

 そんなわけはないのに、そう思ってしまう。死人の最期をはかるなんて生きている人間の特権か、それとも傲慢なだけの侮辱のような感情に過ぎないだろう。

 彼女が出版した二冊の小説が、遺影の近くに置かれている。

 遺影の雰囲気が明るいように葬式のたてつけは煌びやかで故人を惜しむ空間が出来ている。にもかかわらず、葬儀会館の空気はしんとしていた。それは彼女の死を悲しんでしみじみとしているから静かなのではなく、親族しか呼んでいないからだった。

 遺作審査機関による補助金が降りるというのもあるが、数年前に遺作を書いて亡くなった大御所作家は、ドームを貸し切ったお別れの会が開かれたという。芸能人や著名人だけでなく、多くのファンも参列し、喪に服した。

 紙織の葬儀の参列者は親戚と僕のような知り合いのみで、出版関係者は呼んでいない。中学三年生でデビューして以後、彼女は一冊しか本を出せなかった。なにより紙織は二作目以降に関わらず、遺作で死ねていない。遺作を書かずに死ぬということはつまり作家としての評価も地に堕ちる。そんな作家に編集者が来てくれるわけはない。

「紙織ちゃんも可哀想ね、小説で死ねなくて」

 僕の席の前、遺影に近い席に座っている紙織の叔母が、ひそひそとそんなことを言っている。

 葬儀スタッフが忙しなく準備を進める中、叔母、叔父、従兄弟と紙織の祖母は早くから集まり、固まって談笑をしている。早めに来てしまった僕は空気となってその会話に混ざった。

 叔母の愛憎の色がこもった声が耳朶にまとわりついて気色悪い。紙織のお見舞いに来ることなんて一度もなかったくせに。

「そんなこと言ってやるなよ、わかってたことじゃないか、紙織ちゃんの余命が短いことなんて」

 喪服に生気を吸われているのか、もとから気弱そうな叔父がフォローを入れる。しかし、叔母の反論は早かった。

「でもかわいそうよ。そのために、せっかく小説家になったのに」

 かわいそう? せっかく? 紙織の死に対して哀れみよりも嘲りの強い、紙織の犯した罪を感じさせる言葉だった。

 普通なら、同情して心配しているように見える優しい叔母のはずなのに、生前の紙織から聞いていた叔母像と照らし合わせると、どうしても僕にはそう受け取ることが出来ない。

 叔母は紙織が自分の書いた小説を遺書として処理されたくないから、作家になったとでも思っているのだろうか。

 全然違う。遺作は自身の最高傑作を生み出すためにあるべきだし、「小説家」という肩書きはそれまでの過程を守るために必要だ。だいいち、紙織は賞を取ってデビューしている。

 僕は反論する代わりに喪服のパンツ生地をぎゅっと握り、革靴に怒りを染み込ませてぐりぐりと床を踏みにじった。

 叔父たちが言い返さないので叔母は言葉を吐き続ける。

「だってそうでしょ? 紙織ちゃんがもし遺作を書いて死ねていたら、こんな葬儀にはならなかったんだから」

 叔母さんは、紙織の葬儀会場をくるりと見まわし、室内に漂う物悲しさに触れた。

 先に挙げた大御所作家の場合は、長年の執筆活動の賜物だが、紙織も遺作を書けていたら、密葬だけで済ますことはなかっただろう。

 叔父さんは気まずそうな顔をする。

「まあ……そうだな。遺作を書いて死ねなかったのは、褒められたことじゃないのかもしれない」

 すぐに叔父は言いくるめられて叔母さんに同調する。

 病死の無念さをここにいる誰も理解してくれない。僕だけがその辛さを胸に宿していた。

「でもそうだよ。デビューしてから紙織のやつ、小説を一冊しか出してないじゃないか。なんだっけ……殺風景な山と海、だっけ……?」

 『殺風景のうちとそと』だ、バカ! 紙織とたいして歳の変わらない従兄弟は、タイトルを言いきれたからか満足げな顔をしている。僕は彼にバレないように睨んだ

「そうよ、そんな感じの本。出してたわねえ。ちょうどあそこにあるじゃない」と言って、遺影の近くに置いてある本を叔母は指差した。「でも、売れなかったんでしょ? 次が出せないってことは」

「だろうね。だって、現に恵本字えもとあざなはバンバン小説を出してる。ほら、」

 言って、従兄弟の彼はスマホを見せた。先週発売された小説の表紙が画面に映っている。

 紙織の小説が売れなかったなんてそんなはずはない、と僕は言えずにいた。たとえ誰も聞いていなかったとしても。恵本字を引き合いに出されたら、今の日本で敵う作家はいない。いや、これから生まれる誰かの遺作ならあるいは。

「ふむ、今回は共著なんだね」

 叔父がスマホを覗き込んで、なるほどといった顔で言う。度の強いレンズが、落ち窪んだ瞳の遠近感を狂わせている。

 共著とは、まだ死ぬ気のない小説家が、さらに保険をかけた小説の形だ。一般に、一個人が小説を了と打った際に死ぬことはよく知られているが、誰しも生涯一作だけ書いて死にたいとは限らない。その場合、作者は了をつけず未完で小説を終わらせて他で補完する形をとるか、共著という形で執筆する。共著の場合作家が死ぬことがないのは、第三者が勝手に書き加えて、執筆者当人を殺害することが出来てしまうからだ。他者が手を加えた瞬間、死ぬ意味を失う。小説は、他殺小説にはならない。

 他にも了を打たない小説では、誰かに一節や一文を貰ったり、小説本篇ではなくあとがきで補足・補完したりして物語を閉じる。雑誌に連載している小説も、基本はそのようにして死のルールを掻い潜っている。小説の神様(架空の存在)を共同執筆者にあげることもよくあるが、心の裡で神を誰にしているかで了を打ってしまった時の結果は変わる。西洋ではとくにこの方法はタブーとされている。今では遺作ではない小説にそもそも了をつけないのでそんな事故は起こらないが。

「恵本字はやっぱ一味違うよなー。本当に天才だもん」

 従兄弟が本のあらすじを読んでいるのか、スマホを覗き込んで言った。

 恵本字という天才小説家が登場してから文芸界は恵本字の登場以前・以後と呼ぶようになった。恵本字が発表する作品はそれだけで遺作審査機関に評価される傑作で、なかには誰かの遺作以上の評価がついた作品も存在する。彼の前では誰も勝てない。

「恵本字は誰と書いたの?」

 叔父さんが質問する。従兄弟は知らない、とスマホをいじりながら無愛想に答えた。恵本字以外の話題には興味がないようだった。

 共著として小説を発表すればその作家の純粋性は減じてしまう。読者は作家一人がはじめから最後まで書いた小説を読みたいし、了を打つまで生死の恐怖に耐えた小説が読みたい。

 しかし恵本字は共著という手段をとった。まだ天才は死ぬつもりがないらしい。まだまだ傑作を世に出すつもりなのか。遺作の眩さを霞むほどの傑作を。

 それから叔母一家は紙織の幼い頃の話やスマホに熱中する従兄弟の学業の話を一頻り続けると、葬儀が始まった。


 葬儀は厳粛な雰囲気で進んだ。お焼香の段になって読経の傍ら、一人ずつ遺影の前に出て、紙織に顔を見せる。その中で一人、見ない顔が順番になって前に出た。黒のセーラー服を着ており、僕や紙織と同じくらいの年の女の子だ。

 彼女は丁寧な合掌をしてお焼香を済ませる。斜め後ろから見ている僕でさえ、彼女が並並ならぬ想いを込めているのがわかり、息を呑んだ。

 他の人間は無表情を作ってその場の空気に合わせているだけだが、その少女はただただ死者である紙織を悼む顔つきをしている。紙織の両親以外で、本当に悲しんでいるのは彼女だけだったと思う。

 少女はやつれており明らかに心労で疲弊していた。叔母一家は気づいていないようだが、僕と同じ、血縁関係にない外部の人間だった。僕は自然と、喪服に包まれた少女を目で追った。それが誰であるかもわからずに。

 少女は葬儀の空気にのまれない、不思議な空気を纏っていた。こちらとあちら、といったように世界の隔たりを感じる雰囲気。僕と紙織が幼馴染という地続きな関係だとすれば、僕とこの少女はショーウィンドウ通りかかった人間と店内のマネキンのようなものだ。ショーウィンドウを眺めていたら目があってしまった、みたいな偶発的でかつ一瞬の関係に違いなかった。だからこそ、むしろ紙織の葬儀には呼ばれたのだと勝手に思った。

 読経と焼香が終わり、紙織と最後の別れの時間がやってきた。紙織の両親は、気持ちだけが溢れて言葉にならないようで、泣き崩れて棺に寄りかかって死化粧を施された娘を見ているばかりだった。時折両親の頭を撫で付ける仕草が、それでも反発のしない体が、ことさら紙織が死んだことを強調してくる。それから両親はやおらに紙織の書いた二冊の小説と、彼女が一番好きだった恵本字作品を棺に入れた。

 僕は葬儀スタッフに手渡された花束を棺におさめる以外、何も入れなかった。思えば、僕は紙織と物を交わしたことが殆どなかった。ある時期まではお互いに書いた小説を見せあったりはしていたものの、彼女が小説家としてデビューして以来僕は筆を折ったし、折ったと言って紙織には小説を見せなくなった。残念なことに、彼女に再び読んでもらう機会はもう訪れない。紙織はたしかに亡くなった。

 棺に花を供え終え、僕は棺を囲っている集団から抜け出した。輪の集団は息を殺す様に泣き、「まだ早いよ」とか「闘病よく頑張ったね」と泣き漏らしている。哀惜に覆われた棺の輪を僕は後方から見守る。礼服を着た親族の物悲しい背中を見つめながら涙が込み上げない自分に、感傷すら湧かない自分に傷ついていた。

 親族が別れの言葉を告げ、紙織が生前好きだったものを一通り入れ終えると、入れ替わるようにそっとあの少女が中に入る。そして棺に便箋を入れた。宛名は「ことのは栞さまへ」。

 彼女はおそらく紙織の読者だった。

 彼女は便箋を棺の中に入れ、合掌をすると棺の輪から颯爽と抜けた。セーラ服の胸の中央にある赤色のリボンが揺れる。身内の時間を奪って迷惑をかけたくないようだった。今度は彼女のリボンに僕は目を惹かれる。黒に包まれた葬式の会場に、赤色はよく映えた。


 告別式も終わり、霊柩車に棺を載せ終えるまで僕は彼女のことを視界の端に収め続けた。一介の読者がなぜ親族でしか執り行われない葬儀に参加しているのか。棺に入れた一通の手紙も彼女のことを気に掛ける理由になった。

 棺を載せた霊柩車が、今火葬場に向けて出発する。

「あの──」

 悲哀の心をどこかに置いてきてしまったような見送りをして、僕は隙を見て早速少女に声をかけた。

 少女の目は落ち窪んだように鋭く、キリッとしている。僕は少し怯んだが、しかし懐かしさを覚えたおかげで二の句を継げた。

「紙織のご友人ですか?」

 彼女のその目つきはなぜか紙織に似ていた。彼女は顎を引き締め、僕を見据えた。

「友人というよりファンです。ことのは栞先生の。生前から手紙で交流があったので、葬儀に呼んでもらいました」

 ファンよりも友人の方が関係は近いのに、彼女はそれでも一歩身を引いて自身をファンだと言った。

「最後まで推してたんですか」

 僕の言葉に、彼女の瞳が大きく見開かれる。「はい」と力強く肯定した。

 誰々の作家のファンを語るということは、その作家の死に目を、つまり遺作を読むまで応援するということだ。アイドルや他のクリエイターと違って、小説家の推し活は遺作という明確なゴールがあるから、「推す」ことに対しての意味合いが他よりも強い。推しを複数持つことはなんらおかしくはないけれど、「推し変」には大きな意味を持つ。推しの終わりか、推す意味を見失ったか、それとも推しを見損なったか。

 しかし彼女は紙織が死んだ以降も、ファンと名乗り推している。紙織が遺作をのこせない、作家失格の最期を迎えた人間だったとしても。

 だからこそ作家を応援して、ファンレターを送り、そしてその対価として葬儀に呼んでもらえたということは、彼女にとってもとても大きな意味を持ったことだろう。

 侮れないな、と僕は思った。

「だからあの時も手紙を」

 僕が棺に入れた手紙について触れると、彼女はええ、と頷いた。

「思いを込めて書きました……。先生に伝えられる最期の言葉ですので」

 彼女は目に溜まったゴミを払うかのように目元を擦った。鼻で息を吸い、それから口を真横に結ぶ。そして、ふと気づかれた。

「あの、あなたは……」

 わかりやすく不審がられる。僕が誰だかわからないせいで、彼女は自分の態度を定められないでいる。

「ああ。俺は、紙織の幼馴染です」

「それで……」

 ふむ、と少女は顎に手を当てて考え込んだ。僕は構わず話しかける。

「お互い居心地悪かったですよね」

 親族の集まりで、肩身が狭かった。しかし、彼女は僕の発言をそうだとは捉えなかった。

「居心地……そうですね。栞ちゃんはやっぱり小説を書いて死ぬべきだった」

 もう叶わぬことを、それを知っていながら彼女は口にした。本当にそう思っているのか、僕はわからなかった。

「幼馴染のあなたもそう思いませんか」

「俺は正直、なんとも……遺しては欲しかったけれど。でも」

 曖昧にして濁す。確かな正解を僕は言えなかった。紙織は小説を書いて死ぬべきだった。小説家なら、間違えようのない生き方だ。しかし僕は、遺作を残してくれないで良かったと安堵してしまっている。僕は紙織のせいで、小説を書けなくなったから。それはある意味呪いだった。

 そんな悪感情に塗れるくらい、僕はまだ折り合いがついていない。彼女の死もそうだし、彼女の遺作のことも。

「……でも、彼女にはもっと長く生きて欲しかったから」

 小説家に対する願いとしてはもしかしたら言うべきでないことを目の前の彼女、ことのは栞のファンに言った。幼馴染としてそう思っていたのは本当だった。

 天才小説家がどれだけ完璧な小説を書き上げて夭折したとしても、その作家の家族はもう少し生きていてほしかったと望んでしまうことだろう。

「私は三作目の刊行なんて夢に見たこともないですよ。願いはしても、夢に見ることはなかった。だから遺作なんて、夢のまた夢」

 戯けるような、僕を非難するような言い方だった。早熟の天才として世に持て囃され、その期待に応えられなかった紙織。まず小説家として在れていないのに、小説家としての死を求めるのか? そう言っている気がした。

「それは亡くなった紙織への冒涜ですよ」

「本当にそう思います?」

 試されているような気がした。僕と紙織との繋がりを。ただのファンに、いやただのファンだからか。

「本当にそう思ってますけど」

「はあ、何もわかってないんですね。そんなことを言うぐらいだったらじゃあ、あなたが死ねば。あなたが代わりに死ねば良かった。ことのは先生のために。そうしたらそんな言葉も出ない」

「……お前──!」

 最期まで推したファンにそんなことを言われて、僕は怒りと驚きで言葉が上手く出なかった。それを効いていると見たのかつぶさに捉えて、「そういえば」と僕を挑発した。彼女は人差し指を顎に当てつけながら、その場でゆったりとうろうろする。

「そういえばことのは栞先生の処女作に出てきた、主人公の宿願を邪魔する胸糞悪い『湊』ってキャラクター、あいつ私嫌いなんですけど、確かモデルいましたよね? 先生のインタビューで知ったんですけど、『湊』は幼馴染のあなたなんじゃないですか?」

 嫌味ったらしく彼女は言った。たいして細目でもないのに、薄ら笑いを顔に貼り付けたせいで頬と眉尻が上がって目がほとんど開いていない。僕のことは眼中になかった。

「あれは俺じゃない」

 僕はちら、と辺りを見る。霊柩車を見届け終えた大人たちは火葬場に移るためその準備で葬儀会館の中に引っ込んでおり、外に出ているのは僕と彼女だけだった。

 「湊」は、あれは叔母さんだ。叔母さんは小説家という特別な職業を目指していた紙織をことあるごとにからかい、横槍を入れてきたらしい。さらには、紙織の作家デビューが決まった後、無知蒙昧でグロテクスな消費者心理を押し付けた。紙織のデビューが早かったことで、彼女のそれまでの血の滲むような努力を軽視して、「才能でしょ」と一括りにして片付けたのだ。

 持って生まれた「才能」だと一蹴して上辺だけで「ことのは栞」という作家を騙った。

 だからこそ、「湊」はそんな紙織の復讐ともいうべきキャラクターなのだ。僕を詰るためのキャラじゃない。

「紙織は俺なんかを小説にいれない。良くも悪くも」

 僕は紙織の幼馴染ではあるが、同時に作家を目指す仲間でもあった。紙織が作家になって以降、僕は小説を書かなくなってしまったが、それでも死ぬまで同好の士として接してくれていた。そんな人間を小説にはいれない。キャラクターなんかにはならない。なれない。

 諦念の混じった断言をすると、少女はあからさまにため息をついた。

「“世の中の人間の大半は命の使い方を間違えている。間違えた使い方をするのは愚かではなく、後悔をするのが愚かなのだ”」

「?」

 彼女の滔々とセリフがかった、熱を入れてキャラに入り込む言い回しに僕は首を傾げた。

 彼女は息を吸う。

「これは二作目、『殺風景のうちとそと』の百十四ページ、十行目の地の文。世の中の人は命の使い方を間違っている──。小説家は小説家の命の使い方をすべきなんです。病人の少女として、ではなく」

「紙織の死は嘲笑され惨めで後悔するようなものだって言いたいのか?」

 僕は怒号を目の前の彼女に浴びせた。ファンを騙ったこの少女は僕の怒りには動じす、その代わりに目線を落とした。六月だとはいうけれど太陽の日差しは強く、太陽を背にした少女の顔には翳が差した。黒のセーラー服のように濃い影を。

「小説家の命の使い方はひとつでしょう」

「そんなの凝り固まった常識だ。固定観念だ」

 僕は怒りのままに言葉を振るった。それが信じるものから離れていても良かった。ただ、幼馴染が罵倒されているのが気に食わなかった。

「いや、洗練されてきたルールです。先人の引いたレールがあったからこそ、小説家は、ファンは相互的に生きていけるのです」

 小説家の対岸には必ず自分たちファンがいる。そう言っているように聞こえた。狂信が産んだ言葉に、僕はもがいた。

「小説家はそんな生き物じゃない」

 幼馴染として、紙織を近くで見てきた自負のあった僕は、真っ向から否定する。この人は小説家を神格化し過ぎている。

「“れおなちゃんがいないと私は小説家になれない”。この言葉の意味がわかりますか。先生が私に書いてくださった手紙の一文です」

「ファンサービスだろ」

 紙織がファンを大事にする作家なのは分かるし、作家が好意的なファンを嫌うことはまずないのも知っている。しかし、僕はそう言ってしまった。この彼女だけが紙織のファンであることはないから。それは傲慢な言い分だ。

「最低ですね」

 僕の発言を信じられない、といった目で睨む。

「先生の言葉ですよ」と彼女は僕を戒めた。

 僕は、いや、と否定した。そして、けれど、と言葉を継ぐ。

「多くの作家がそうであるように紙織もファンを大事にしているのは確かだ。それは否定できない。かといって、誰かを贔屓するということも──」

「贔屓なんてもんじゃないです」力強く言って僕の発言を奪った。その瞳には哀願の色が濃く出ている。「私はファンとして解釈し続けました。ファンだから、ファンたろうとして理解する努力を怠らなかった。そして、やっぱりこれには文字通りの意味があると思います。彼女は、私しかファンとして認めていなかった」

「でも紙織はそういう人間じゃない」

 繰り返される否定の言葉に、彼女は失笑を漏らす。鼻で笑う。

「ことのは栞という作家に救われて、期待して、縋って、打ち破れて、それでも繋がってくれた恩を感じて、交流を続けて、そしてまた救われて。そんな存在がいるんです。あなたにはそれほどまでの存在ですか? ことのは栞という小説家は。幼馴染だからって調子に乗らないでください」

 彼女は怒りを沸々と煮えたぎらせて、僕にぶつけた。僕は歯噛みした。

「ただのファンが分かったような顔してなに言ってんだよ。俺だって紙織のことをずっと見てきた。ぽっと出のファンになにか言われる謂れはない。一番俺が紙織のことを知っている。お前は、ことのは栞という作家(紙織)の一部分しか知らないだろ」

 きっ、と彼女は歯を食いしばり僕を睨みつけた。それから捲し立てる。

「そんなことない! 私は先生のことをちゃんと知ってる。私はことのは栞の唯一の理解者で私だけが彼女のファンなんだから!」

 僕は少女の身丈から出た声量に驚き、身じろいだ。葬儀会館の中にいる大人たちが何事かとと訝しんでいた。

「唯一の理解者?」と僕は嘲笑った。「お前がか?」

「綴れおなって誰だかわかるか、先生に訊けばいい。あとお前ってやめて。ちゃんと名前ある」

 綴れおな。生前の紙織からそんな名前は聞いたことがなかった。なにより、綴れおなだけが紙織の読者、ファンだなんて紙織にとってなによりも悲しいことを彼女は言った。僕は、それは到底認められなかった。

「だから私以外、栞ちゃんのことを語らないで」

 れおなの絶叫に、否定に、僕が思わず反駁しそうになった時に、葬儀会館の自動ドアがウィーンと開いた。二人して、ドアの方を見やる。

 目を赤く腫れぼったくした紙織の母、すみれさんがまだ瞳を濡らしながら、出てくる。

「れおなちゃん……と傑くん……こんなところにいたのね」

 鼻をズビズビ言わせながら、ハンカチで水気を拭き取って言った。

「お母様」

 れおなはすみれさんに駆け寄って、手を取った。しゅんとして途端に愛想よく振る舞っている。

「明日から、ゆっくりだけど紙織の遺品整理をするから良かったから手伝ってくれない? 欲しいものがあったら二人に譲るし。二人に貰ってもらった方が娘も、紙織も本望のはずだわ」

「いいんですか? ぜひ手伝わせてください。もしかしたら未発見の原稿もあるかもしれないですし。なんなら完成しなかった遺作のアイデアだけでも。なんでも嬉しいです」

「傑くんはどう……?」

 すみれさんは鼻を勢いよく啜った。しかしそれで涙が止まるわけでもない。そこにすみれさんのやりきれなさが詰まっている気がした。そして僕の、自分の幼馴染が早逝したことに対してのわだかまりが汚泥のように沈殿しているのにも気がついた。遺品整理をすることでそれが報われるのなら喜んでしたいと思った。

「ぜひ。紙織のためですから」

「わかったわ。じゃあ明日、正午にきてね」

 すみれさんはトボトボとまた中に入っていった。葬儀会館の弱冷房の空気が、外に漏れ出てくる。少しだけひんやりとした。

 すみれさんが中に入るのを見届けると僕は視線を彷徨わせ、それから標的を定めるようにれおなの顔を窺った。

 れおなは不機嫌を隠しもしないで、僕を見ていた。

「あなたは来なくてもいいんですよ」

「残念ながら家が近所なんでね」

「それじゃあ道中、車には気をつけた方がいいですね」

 そんな捨て台詞を吐いて。僕はれおなと再び斎場の中へ入った。

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