小説を書くと死ぬ世界の話
無為憂
プロローグ
小説を書いて死ぬ。
『小説家の──さんが、昨夜未明、遺作を書き上げ亡くなりました』
リビングの一角に置かれた、何の気なしにつけていたテレビが速報を告げた。朝の八時、テレビの後方にあるカーテンから日差しが漏れて、床に斜めの影を作っている。
七月の終わりのことだった。
ダイニングテーブルから斜向かいにテレビを眺めていた僕は朝食のリンゴを刺したフォークごと、床に落とした。母が何か言っているようだったが、まるで聞こえなかった。全ての思考が止まり、視線がテレビの情報に釘付けになる。今ニュースで流れているその小説家はよく知っている人だった。覚悟はしていた。しかし実際に報道されてしまうと堪えるものがある。
ああ、書けたのか……。それなのに僕は──、と一抹の寂しさと自責の念が残る。筆を折って以来、僕はまだ自分の小説が書けていない。
母がキッチンの流しからテレビを盗み見て、「小説家は物騒ねえ」と呟いた。しょうがないじゃないか、と僕は思う。
作家人生の終止符として遺作と共に命を終えることは小説家にとって望んだ死の形そのものなのだから。
「傑は長生きしてよ」と母が言う。
子が親より先に死ぬことほど、悲しいことはないのだから、と。
それでも、僕は小説を書いて死にたい。テレビにとりあげられたあの作家のように。
「どうかな……」と僕は曖昧な返事をした。
曖昧な返事をするくらい、母の願いは聞き入れられなかった。
小説を書くと死ぬ。漫画には絵が描かれているように、映画には主演がいるように、小説で人は死ねる。死ぬには条件がある。作者が一人で最後まで書き切り、その原稿の最後にパソコンでも手書きでもいいから「了」と置くこと。
小説で人は簡単に死ねる。だがしかし、現代では遺作を書いて死ぬことは小説家にしか許されていない死だ。デビューしていないアマチュアの作家が小説を書いて死んでも、それは「遺書」にしかならない。
だからこそテレビで報道された作家は、小説家として素晴らしい最期を迎えられたと思う。
僕はその作家に追悼の意を表明するようにリモコンを押して、音量を下げた。
落としたリンゴの行方はわかっているのになかなか拾う気になれない。
すぐにテレビは平時のニュースに戻った。僕は今もなおその報道の衝撃に思考を奪われ、余韻が続いている。昔、心の奥底に隠した記憶が、はたと湧き上がった。
『小説を書きなよ』
昨日死んだその作家も、数年前に死んだ大御所作家も、果てには幼馴染の彼女も同じことを言っていた。しかし、「書かないでほしい」と僕を止めたのはあいつだけだった。
はあ、とため息をつきながら母がキッチンから出てきて、床に落ちたリンゴを拾ってくれる。悔恨を滲ませながら、僕はコップに入った水を飲み干し、コップをゴンとテーブルに打ち鳴らせた。そして、キッチンに戻ろうとする母の背中に向けて言った。
「小説家になりたいんだ」
*
この小説を書くにあたって、僕はあの日のことを思い出さなければならない。一年ほど前の夏、「小説を書きなよ」と僕に言った、例の幼馴染の女の子について。
ことのは栞という作家がいた。ことのは栞は、小説家だったがついぞ遺作を完成させることは出来なかった。僕と同じ、小さい頃から付き合っている小児性の病に冒されて、亡くなってしまった。病気で死んでしまったのだ。
「ことのは栞」は小説家の彼女のペンネームで、僕にとっては更科紙織だった。僕にとっての紙織は同じ病気で入院していた、いわゆる入院仲間というやつで辛い時も楽しい時も一緒に過ごした。退院してからも家が近所で付き合いは続き、年を重ねた。しかしそんな彼女は、去年病気を再発した。
『紙織は、もう小説書かないの?』
病床で本を読んでいる紙織に声をかける。親のいない二人だけしかいない病室に、自分の弱々しい声が響く。闘病で満身創痍なことは、毎日お見舞いに来ているからよくわかっていた。
白を基調とした病室に、緑色のカーテンやベッドのサイドテーブルに積み重ねられた色彩豊かな装丁の本たちが、今だけはモノクロに見える。
紙織は読んでいた本を閉じた。病院着に身を包んだ彼女は僕の質問にくたびれたように答える。しかし、僕に向けた紙織の眼差しは力強かった。
『書きたいけどね。いや、書いてるけど……完成はしないと思う。だからあとは頼んだよ、
作家の集大成である遺作を前にして、僕の幼馴染はそう言った。どうしてか、僕に託す。小説家でもない僕に。
口惜しそうな、諦めているけれど実際はまだ諦めきれていない感情が、紙織の歪んだ口元に滞留している。絶望のトンネルを通り越してもあったのは絶望だったと語るような瞳を僕に向けて。あるいは憎しみを湛えた瞳だった。
『どうして俺なんかに……。諦めちゃダメだよ。紙織もよく知ってるだろ? 遺作を書かないで死んだ作家は、小説の評価を消されるって』
小説家である紙織なら、それは重々わかっているはずだった。
遺作を書かないで死んだ小説家は、作家としての評価を消される。世間的にも、遺作審査機関によっても。生前どれだけ傑作を書いても、価値のないものとして見られる。破壊されてしまった芸術作品や世界遺産のように。
反論すべき場面で彼女が何も言わないので、その凄みに怯んで口早に続けた。
『それに頼まれても俺は、ことのは栞の小説は書けないよ』
『そうだよね、小説を書き切ったことがないからね』
皮肉で返したつもりはなかったのだが、紙織はさらに僕の痛いところを突いてくる。
僕は自分の書いてきた小説を全部中途半端に投げ出してしまっている。自分の小説の面白さに自信が無くなったり、そもそも書くことに飽きて違う新作に手を出したり。なにより、隣にいる紙織の小説と勝手に比較して、筆を置いた。そのことを紙織はよく知っている。
死の恐怖から原稿に了と打たなくとも物語にピリオドは打てるのに、僕はラストシーンまで書くことなく逃げ続けた。
紙織の口撃に、「はは、は」と下手くそな笑みで返すことしかできなかった。
紙織の追撃から逃げるように視線を外すと、白色の病室に紙織の読みかけの本が目に留まる。
紙織が入院している個室の空間には、手の動く範囲で所狭しに本が積まれている。ノートパソコンも彼女の動きの邪魔にならないよう、ベッドテーブルの端に置かれており、「完成しない」なんて、彼女がそんなことを言うとは信じられない。今まさに執筆中の原稿あるいは遺作があるんじゃないか、と思わずにはいられない。
だって、作家が小説で死ねないなんて不幸だから。
僕がそんなことを考えていると顔に出ていたのか紙織が、
『傑は長生きしてよ』
柔和に、祈りを込めるような口調で呟いた。
『そしたら私ほどの小説は書けるよ』
傲岸不遜な物言いに、僕は苦笑いを浮かべる。僕の反応が面白いのか、それを小馬鹿にして、ふふ、と笑った。
揶揄っているだけかもしれないが、紙織はよく僕に「書けるよ」と励ましてくれた。しかし、残念ながら……。
『俺も数年以内に死ぬってわかってるくせに。書けないと思って言っているでしょ』
紙織を蝕んでいる病魔は、僕の体にも潜んでいる。紙織の方が、再発が早かっただけで僕も今日明日の命だということには変わらない。
『そうであれば嬉しいかなって。私はまた傑の小説を読みたいから』
純粋な願いの言葉だった。優しさのある言葉ほど、胸につく。
うっ、と僕は喉の中で空気を詰まらせた。また揶揄っているのかと思って紙織の小馬鹿にした笑いを待ったが、彼女は毅然とした態度をつくって崩さなかった。
「傑の命の使い方はそれでいいの」
釘ではなくもっと大きな杭を心臓に打たれたような感覚だった。それに対する返答として、僕はかぶりを振った。正解はわからないが、不正解であることはわかる。残り短い時間で何をすべきか、答えを先延ばしにできないことも。
『紙織はどうなんだよ』僕はパソコンを一瞥し、紙織を見咎めた。
『私は、いやだよ。だから最後まで踠いてる』
紙織はベッドテーブルの端にあったノーパソを中央に持ってきて、開いた。指紋認証で起動する。カタカタとキーボードを打つ指捌きは静謐で、しかし一文字一文字をこの世界に刻み込んでやるという気迫を感じる。紙織から、まるで時が止まってしまったかのような圧迫感を覚えた。ふと、横髪が垂れてきて耳にかける。彼女の細い手ももうなじも耳先も、美しかった。
そんな幼馴染を見て幸せに死んでくれ、と僕は祈ったものだ。ことのは栞という作家に対する敬愛よりも幼馴染としての執着の方が僕は強かったらしかった。
それから、いやそれでも彼女は病気で死んだ。
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