おまじない

青葉羽琉

追いかけっこ

 今日も父は帰ってこなかった。

 次の朝、母は起きてこなかった。



 父はいつも家に帰ってくるわけではない。頻度で言うと3日、4日に1回くらいだ。1週間のうちに2回会えることすらほとんどなかった。それなのに母は父といる時に一度も笑顔を見せない。何一つ嬉しそうでない。


 父がいない時の食事はファミレスに行って好きなものを何でも食べられるが、父がいる時は母のつくった、信じられないくらい味の濃いご飯だった。手料理を食べるのは嬉しかったが味が濃すぎるうえに私と母の料理だけ品数が少なかった。ひどい日は茶碗の5分の1の量の白米と掬えないくらいの具しか入っていない味噌汁だけ。どんな時でも父は茶碗いっぱいの白米に具沢山の汁、父にしか出されていない揚げ物や炒め物を食べていた。


 いつか忘れたが何年か前にこの原因であろう出来事があった。これだけははっきりと覚えている。 


「俺は仕事してるんだから帰ってきた時ぐらいお前がご飯を作れ、何もしてないんだから」


 私もいつでも美味しい母の料理を食べたいと思っていたので母の料理が好きなんだと共感したものだった。


「何でこんなこともできないんだ。仕事もしていない上に自分がやらなければならないことだってちゃんとできない。馬鹿なんじゃないのか」


 その後何かが破裂するようなバチッという音が聞こえたが当時遊んでいた風船でも割れたのだろうと思った。


「こうやって言うのはお前のことが嫌いだからじゃないんだ。何とも思わない人のことなんか叩けないだろ。強く叩くということはそれだけお前のことを愛しているからなんだよ。それだけは分かっておいてくれ。」

「叩いてごめんな、痛かっただろ。でもやるべきことはやらないとだめだぞ。」


 子供をあやすような口調で母に語っていた。このとき、前に聞いた破裂音は風船じゃなく父が母の頬を叩いたときの音だと気づいた。幼いながらこの言葉を理解しようとした。そして私は父に愛されていないと思った。思い返してみると父に暴力を振るわれたことはなかった。目も合ったことがない気がする。いつも父は話す時に下を向いていて、どんなに顔を覗き込んでも避けられるだけだった。そうか、私は愛されてないのか。母はそれを分かっているから、父の愛が欲しくて父からの要望は全て受け入れる。たとえ私や母自身が蔑ろになろうとも。



 そう思えば母は父に依存していた。

 私は母に依存していた。

 父は誰に依存していた?

 そもそも依存していたのだろうか。


今となっては父の感情すらも確認の仕様が無い



 母に一度だけ父が帰ってこない理由を聞いたが「お仕事が忙しくて大変なの」と返された。



 父は他の女のところに行っていた?



 そんなことを考えていたら20時がきた。父が帰ってくるときはいつも20時なのだ。お母さんが一つだけ大盛りに盛られたご飯を作っているから父が帰ってくる日なのだろう。父親、というだけで会えるのは嬉しいのだが何があるか分からない。母に暴力を振るうかもしれない。もしかしたら今日は私が暴力を振るわれるかもしれない。


 だけど帰ってくるはずの父は帰ってこなかった。次の朝、母は起きてこなかった。



 朝起きればキッチンで立っている母がいるはずなのにいない。リビングにもいない。小学生ではあるものの起きているはずの母がいないのを不審に思い、寝室に入った。そこには瓶とペットボトルと青白い母の顔があった。まだ起きていないのかと思い大きく体を揺さぶったが一向に目を覚さない。呼吸ひとつ感じなかった。


かつて母に「お母さんが動けなくなったら電話でおばあちゃんに電話してね」と言われたとこがあったのを思い出した。家事を1人で行い、父が帰ってきたと思えば暴力を振るわれ、母も自分の体が壊れる可能性を危惧していたのだろう。電話を受けたおばあちゃんが部屋に入れると声にならない叫びを発した。その直後に膝から崩れ落ち、頭を抱えて泣いた。



 駆けつけた警察と話をするために警察署に連れていかれた。お父さんの名前を言ったときに父も死んでいることが伝えられた。


母の携帯につけられた日記に

「病院から電話があった。父が交通事故で死んだらしい。私の生きる意味は何処にあるの。」

と書かれていた。

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