エピローグ2
黒猫が死んでから数か月の間、柳さんはまだ廃墟で暮らしていた。あれだけ不気味なことがあったのに、柳さんはまだそこを離れなかった。
むしろ、黒猫が死んだあとはもう恐ろしいことは何一つ起きなかった。
あれだけ後を絶たなかった自殺者も最近はほとんど見なくなったという。
聞くところによると〇州極楽ホテルよりも駅に近いところにあった市営団地で、元俳優だった男が飛び降り自殺をした。
そこはひそかに自殺の名所と噂されていたのだが、そのニュースが全国的に広がったことで知名度があがり、そこで自殺する人が急増したという。
自殺スポットで大勢の人間が自殺をするのは、決してそこが呪われているからではないという。
自殺において一番苦しいのは死に損なうことだ。死ぬほどの苦しみを味わってなお死ぬことができずに、身体や脳に障害が残れば、家族や身の回りの人にも日常的に負担を強いることになる。
自殺というただでさえ恐ろしい行為に及ぶのだ。
そのうえ、失敗することが最も恐ろしいとなれば、誰だって成功した人を参考にして、絶対に失敗しないようにしようと考える。
自殺スポットは成功例が数多く報告されている場所だ。
成功例に倣って自殺スポットに足を運び、それがまた成功例となって次の自殺志願者を呼び込む。
〇州極楽ホテルの場合、この永遠の連鎖はあっけなく断ち切られた。
別の自殺スポットが有名になったことで、〇州極楽ホテルに足を運ぶ自殺志願者は激減したのだ。
柳さんは静かな廃墟で一人暮らしていた。
自殺志願者はいなくなり、犯罪者は捕まり、黒猫は生を全うし、その世話をしていた女はいなくなった。
因縁の鎖は完全に断ち切られたのだ。
怪談の絶えない場所で、ついに怪談が絶える日が来たのだ。
柳さんはそう思っていた。
尾形さんも相変わらず、この渓流の主を釣ろうと週末には竿を担いでやってくる。
「こんばんは。久しぶりだね」
その日、柳さんは久しぶりに尾形さんのもとを訪れた。
お酒を買ったものの、つまみを買う余裕がなく、尾形さんが釣る魚をつまみに一杯やろうと考えたのだ。
「久しぶりです」
尾形さんは柳さんが差し出したビールを受け取った。
「どう調子は?」
「ぼちぼちですよ。仕事の方で繫忙期を乗り切ったので、また釣りに精を出せます」
そんな話をしながらダラダラと酒を飲み、二人で竿先を眺めていたそのときだった。
竿先が勢いよくしなると、渓流に向かって強く引っ張られた。
柵に引っかかって引きずりこまれることはなかったものの、隣の竿を巻き込んで横倒しになってしまった。
「引いてる、引いてる!!」
柳さんは言った。
尾形さんは興奮して竿に飛びつくと、慎重にリールを巻き始めた。
「重たい……」
「切れる……切れる……」
尾形さんは文字通り格闘していた。
リールが切れないようこまめに糸を出しながら、魚が体力を消耗するのを待った。
魚が手前に走り始めたところで、勢いよくリールを巻き、魚を水面に引っ張り出し、空気を吸わせて消耗させた。
「柳さん、タモを取ってください」
「分かった」
柳さんはタモを掴むと、柄を伸ばして、水面近くに網を構えた。
「なんだあれは?」
「すごい大きさですね」
暗闇の中でもバシャバシャと水しぶきをあげる音が伝わってくる。
水しぶきの出どころを眺めていると、ふいに大きな尾びれが水面を叩いた。
「もう少し寄せますんで、タモですくってください」
「わ、分かった……」
そう言って柳さんは腕を伸ばしたが、暴れる魚は容易に網に近づかない。
「入らないよ。大きすぎる!!」
「でも、この竿じゃあげられません。なんとか頭だけでいいんで入れてください」
二人はそこからさらに格闘したという。
なんとかタモに頭を入れると、今度は土手を引きずって庭まで運んだ。
「なんだ……この魚は?」
柳さんはびっくりしていた。
こんな魚は見たことがなかった。ナマズのように大きなヒゲが生えているが、日本のナマズのように尾が小さくない。
口が大きく、全身はコケ色の体表で覆われており、腹が大きく膨らんでいた。
「これ、アメリカナマズですよ」
「アメリカナマズ? どうしてこんなところに」
「さあ。誰かが放したんでしょうけど、釣り目的で放流したようには見えないから、多分ペットとして飼ってた人が逃がしたんじゃないんですか?」
アメリカナマズは特定外来生物に指定されていた。
非常に貪欲な肉食動物で、川の生き物を片っ端から食べつくしてしまい、生態系を破壊してしまう。
その食性と気性の激しさは釣り人の間では有名で、針につけた石けんに食らいついたといった話まである。
とにかく何でも食べてしまう厄介者だった。
「うーん、これはさすがに食べられないな」
柳さんが言うと、尾形さんは飄々として言った。
「食べれますよ」
「食べられるの?」
「はい。この辺は水質もきれいですし、すぐに血抜きをして内臓を取り出せば食えないことはないでしょう」
「ふーん」
「ここで捌いちゃいましょう」
特定外来生物は生きたままの運搬が禁止されている。
ナマズは生命力が高いので、水からあげてすぐ死ぬとも思えない。
このまま持ち帰って、うっかり職質にあって、中のアメリカナマズがピクリとでもしたら面倒なことになりかねない。
止めを刺すついでに内臓も取り出し、腹の中を水に洗って、頭を落とし、身の状態で持ち帰ろうと考えたようだ。
「俺はやらないよ。こんな魚、捌いたこともない」
柳さんはそう言って一歩引いた。
「任せてくださいよ。ぼくも釣り人の端くれですから。自分でも魚は捌けますよ」
そういうと尾形さんはさっそく準備に取り掛かった。
「せっかくだし、一切れ焼いてみますか?」
「良いの?」
「はい。どうせ一人では食べきれませんし」
尾形さんはバケツに川の水をくむと、ナイフでエラを切って、身を放り込む。
しばらくすると血抜きができるので、それを取り出して、コンクリートの床にアメリカナマズを置いた。
腹を裂き、内臓を引っ張り出す。
その光景を柳さんは遠目から見ていた。
何はともあれつまみになるというのであれば楽しみだった。この川は水質もキレイだし、釣り上げたところだ。
塩をよく振って、しっかり火を通せば食べ応えはじゅうぶんだろう。
「柳さん、ぼんやりしてないで火の準備をしてくださいよ」
尾形さんは腹にナイフを入れながらそう言った。
「わ、分かったよ」
柳さんは尾形さんに背を向けて、火の用意を始めた。尾形さんが持ってきた七輪に炭を入れ、着火剤を入れて火をつける。
そんな作業をしていて、尾形さんの姿は目に入っていなかった。
「いたっ……」
尾形さんが小さな悲鳴をあげたときも、包丁で指を切ったのか、それとも魚のトゲが刺さったのか、その程度のことだろうと考えていた。
「な、なんだこれっ!?」
尾形さんが狼狽えた声を出した。
尾形さんが続けざまに悲鳴をあげた。
小さい子どものように怯えきった悲鳴だった。
柳さんは咄嗟に振り返ったが、暗くて尾形さんの様子は分からない。必死に目を凝らしたところで、再び、尾形さんの悲鳴が聞こえた。
カラ、カラと妙な金属音がした。尾形さんがナイフを取り落としたようだ。
「どうしたのさ」
慌てて駆け寄ると、暗闇の中、尾形さんの姿が浮かび上がってきた。
おかしな形に身体を捻じ曲げて、地面に這いつくばっている。必死に何かを掴もうと空中を手が泳いだ。
尾形さんは腰を抜かしていた。
コンクリートに置かれたアメリカナマズの身から、腰を引きずって遠ざかろうとしていた。
「くっ……くっ……くっ……」
尾形さんはそういって言葉を詰まらせている。
「もうどうしたの? 寄生虫でもいたのかい?」
「そんなんじゃありませんっ!!」
尾形さんは甲高い声をあげた。
「じゃあ、なに?」
「釘ですよ!! 川で見失った……あのネコをはりつけにしていた釘です!!」
尾形さんは助けを求めるように柳さんを見た。
慌てて駆け寄ると、コンクリートの床にはあのときの釘が確かに落ちていた。
「ナマズの内臓を取り出してたら出てきたんです……」
尾形さんは内臓を取り出したとき、胃袋に何かが入っていることに気が付いた。
釣り人の性として、ここの魚が普段どんなものを食べているのか気になり、胃袋を裂いてみたのだという。
そこには尾形さんが××神社の手前の川で見失った和釘が、身体のどこにも刺さることなく胃の腑中に収まっていた。
長年、フローリングに刺さっており、先端が鈍くなっていたのだろう。
消化されないまま胃の中にとどまっていたようだ。アメリカナマズは口に入るものなら何でも食べてしまうほど貪欲な食性で知られる。
そのうえ釘にはネコの肉や血が付着していたのだから、その匂いは絶品だったのだろう。
理屈がつかないことはない。
果たして本当にそうだろうか。上流で和釘を流したのだから、ここまで流れ着いても不思議ではない。
とはいえ、和釘を見失った地点からはかなりの距離がある。
かなり重い釘だからそう簡単に流れ着くとは思えない。
雨で水かさが増した日に、川の勢いに乗ってここまで流れ着いたのだろうか。
そして、偶然にもナマズがそれを食べた。
そして、そのナマズを尾形さんが釣り上げた。
「すごい偶然だね……でも、あり得ない話ではないね」
柳さんは自分に言い聞かせるように言った。
「それってどんな確率ですか……偶然で説明できませんよ!!」
尾形さんは悲壮感を漂わせて言った。
だが、あの忌まわしい拷問道具が再び目の前に現れたことに二人は完全に動揺していた。
「でも、偶然としか言いようがないじゃないか」
柳さんは自分で自分のセリフが信じられなかった。
「こういうものって……戻ってくるんですよ」
尾形さんが首を振った。
「なに?」
「だから、釘ですよ!」
尾形さんは焦れったそうに言った。
「それ本気で言ってるの? 戻ってくるって」
「不思議な力があるものは、そう簡単には埋没しないんです。何かしらの力があって、必ず元の場所に戻ってくるんです。もしかしたら、ネコが釘を打たれながら生きながらえたのも、この釘の力だったのかもしれません」
「まさか……。冗談だろう?」
「の……呪われてるんだ!! これは呪われてる……」
尾形さんは叫んだ。
柳さんの返事も聞かずに、憑りつかれたような声をあげた。
「因縁は……断ち切られることなんかないんです。どうやっても、何をしても終わらないんだ。ここは繰り返される場所なんだ……次から次へと……よくないことが起こる場所なんだ」
「そんなことはないさ。君が川になんか流すからいけないんだろ? ちゃんと供養をすればこんなことにはならなかった」
「この釘がそれを拒んだんです。供養なんかされたくないって」
「まさか。偶然だよ。あそこで手を離さなければ、あの神社で供養されて終わったんだ」
「終わらないんですよ。こういうものはそう簡単に捨てられたりしないんです。戻ってくるんです。必ず、あるべき場所に……」
尾形さんはまるで子どものようにわっと泣き出してしまった。
「泣かなくてもいいだろう」
「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ……」
尾形さんは叫び声をあげると、釣り道具も荷物もすべてほうったまま走り出した。
宴会場に入り、エントランスを抜け、建物を出ると、駐車場まで一目散に走った。
そして、自動車に飛び乗ると、そのまま敷地を出て行った。
「ふう……」
柳さんは苦笑いを浮かべると、火の始末をして、捌いている途中の魚を渓流に向かって投げ捨てた。
釘にはもう指一本触れる気にならなかった。
それから宴会場に入った。
最初は冷静を保っていた。
しかし、尾形さんの怯え切った表情が頭から離れなかった。
暗闇の中で、ぽつんと廃墟に立ち尽くしていることが心底恐ろしかった。
落ち着こうと努めた。
何があったわけでもない。魚の胃から和釘が見つかっただけだ。幽霊が出たわけでも、ひどい悪寒がしたわけでもない。
わざと歩みを緩めて、なんでもないように考えようとした。
しかし、自然と歩みは速くなっていった。
自分の意志とは裏腹に足が止まらなくなる。そして、ついに誤魔化しようがなくなった。柳さんは恐怖を認めた。
そのときになって、自分が走り出していることに気が付いた。
柳さんもついに叫び声をあげてホテルを飛び出した。
入り口の脇に停めていた自転車に飛び乗ると、ペダルを踏み外しながら必死にこいだ。
尾形さんの手前、冷静を装っていたが、柳さんもこの因縁が永遠に続くことを悟っていた。そして、こんなところに長らくいれば、いずれ自分も因縁の鎖に取り込まれてしまうことを悟った。
あるいはもう新たな怪談の一部になっているのかもしれない……。
「うううううう……」
柳さんは叫び出したくなるのをこらえた。口からはおかしな呻きが漏れた。もつれる足で必死にペダルをこいで、駅の明かりが見えるまで一度も止まらなかった。
駅に着くと柳さんは電灯の明かりの下、バス停のベンチに腰を落とした。
異常に動悸が早く、胸が苦しかった。どんどんどんどん、と誰かが殴っているかのような動悸がいつまでも続いていた。
柳さんはこうして家具や荷物を部屋に残したまま廃墟から立ち去った。
今は寂れた住宅街にある公園で暮らしているという。
あの近くには自分から進んで近づくことはない。
それでもときおりぎょっとさせられることがある。
一度、道を歩いているときに、道端に和釘が落ちていることがあった。柳さんはそれがあのときの釘ではないかと感じ、しばらくの間、目が離せなくなったという。
「廃墟の案内人」〈了〉
廃墟の案内人 荏胡麻 @egoma-
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