柳さんによると11

 その日、尾形さんは浮かない顔をしていた。

 柳さんは次の金曜日に尾形さんが来るのを楽しみにして待っていた。

 自分の中では前回のことはもう忘れたことにしていたし、自分があの日のことを話題にしなければ、互いにいつも通り接することができると考えていた。

 しかし、当日、現れた尾形さんはあまり気乗りしない様子で釣り糸を垂らすと、タバコばかり吸っていたという。

 そして、柳さんが顔を見せると、「ああ、こんばんは」と弱々しい笑みを見せた。

 尾形さんの表情は、やっぱり来たかと言いたげだったという。

「久しぶりだね。今日もイワナの塩焼きを食べないかい?」

 柳さんは言って、両手に缶ビールを掲げた。

「今日は火の用意を持ってきてません。すみません……」

「そうかい。それならこれはツマミでやるとするよ。尾形くんもひとつどうだい?」

 柳さんはそう言ってスルメの袋を開け始めた。

「いえ、酔いたい気分じゃないんです」

 尾形さんは柳さんと距離をとりたがっているようだった。

 考えてみれば、風が強く寂しい晩だったとはいえ、廃墟に住む老人が死体を見たと必死で訴えたのだ。

 周囲が困惑するのも無理はないだろう。


 実際に死体が見つかれば、現実的に対処すれば済む話だが、その死体が消えてしまったとなれば、何をどう信じていいのか分からない。

 尾形さんはさぞかし動揺しただろう。

 きっと耄碌したと思われたに違いない。

 そう考えると悔しい反面、尾形さんに申し訳ない気がした。

 柳さんは一人で缶ビールを開け、ぐびぐびと流し込んだ。

 尾形さんは柳さんの方を見ないようにして、しきりに渓流を眺めていた。

 柳さんはその背中を見てガッカリした。数少ない友人の心が離れていくのを感じていた。


 昔ながらの友だちのように、なんでも話し合える仲だったわけではない。それでも酒を酌み交わしたり、冗談を言い合える仲だった。

 尾形さんは、柳さんがホームレスの老人であることをほとんど気にしないタイプだったし、柳さんも尾形さんと話をするときはそういったひけめのようなものを感じなかった。

 尾形さんはもう目も合わせようとしなかった。

 柳さんは黙って酒を飲み続けた。

「明日、病院に行きませんか?」

 尾形さんは柳さんに背を向けたまま言った。

「病院?」

「認知症も薬を飲めば症状が改善することがあるみたいですよ。それに、進行を遅らせることもできるみたいです」

 尾形さんは遠慮がちに言った。

「何を言ってるんだよ。俺は認知症なんかじゃない」

「でも、明らかに言動が変じゃないですか。それに変なものを見たとか言って。一度病院で見てもらいましょうよ」

「本当に見たんだよ!」

「ほら、そうやって……」

「いや……、だから、それは本当に見えたと思っただけで、別に今では自分が見間違いをしたことを理解してるよ。俺は認知症なんかじゃない。しっかりしている」

「そうですか? 大体、こんなところで一人で暮らしてて本当に良いんですか? 心配してる人とか、家族は?」

「何を言うんだよ。俺くらいの年になると、子どもがなければ、家族はいなくても不思議じゃない。親は死んだ。おかしい年じゃないだろ?」

 柳さんは必死に訴えた。

「一度、見てもらいましょうよ。ぼくが車を出します。明日、迎えに来ますから」


 そう言って振り返った尾形さんの顔は真っ青だった。


「どうしたんだい? 尾形くん」

「はっきりさせたいんですよ。柳さんが認知症じゃなければ、何もかも説明がつかないじゃないですか」

 尾形さんはそう言って柳さんに近づいた。

 尾形さんは首に縄をつけて、病院に引きずって行きかねない様子だった。

 尾形さんはあの日以来、得体のしれない恐怖に取りつかれてしまったという。

 柳さんの見間違いだと思いながらも、それがもし本当にあったことなら……と考えると、不意に背後に不安を覚えるようになっていた。

 あんなところに出入りしていて、自分は何か良くない存在に触れたのではないか。あのホテルに侵入したことがタブーだったのではないか。


 そう思うと、すべてが凶兆のように感じられた。


 急に胸が痛くなることもあったし、夜中に不意に気配を感じて目が覚めることもあった。通勤電車が人身事故で遅れるようなことが度々起き、その頻度が次第に増え、事故現場が最寄り駅に近づいていっているような気がした。

 まるで自殺をする人というのはあらかじめ決まっており、自分の番が次第に近づいてくるように感じた。

 そうなるとすべてが恐ろしく感じるようになった。

 コップの水が揺れているのが恐ろしい。急に部屋が軋むのが恐ろしい。衣服が肌に触れている感触が、誰かに触れられているように感じる。

 尾形さんは寝るときも電気をつけて眠るようになり、それでも眠るのが恐ろしく、明け方まで起きているようになった。


 気力、体力ともに消耗し、自分が呪われているという実感が生まれてきた。


 もうダメだと思った。

 気が狂っていると思った。

 そのたびに、あれは柳さんの見間違いだった、あるいは柳さんは認知症で、思い込みや錯覚が激しくなっていると考えるようになった。

 そう思えば思うほど、柳さんがもし認知症じゃなかったら……と、思いぞっとしたという。


「さあ、病院に行きましょう」

「イヤだ! 俺をキチガイ扱いしないでくれ」

「行って、何でもなかったらそれはそれで安心じゃないですか」

「尾形君は俺が認知症であってほしいんだろう?」

 もし、尾形さんと一緒に病院に行けば、彼は柳さんが重度の認知症であるかのように振る舞い、医者にそう診断させるだろう。

 そして、柳さんを精神病棟に閉じ込めて、やっと安心するはずだ。柳さんがそこを出たいと訴えれば、夜中に拘束具をつけられるかもしれない。柳さんが暴れ、拘束具に身体を打ちつけるのを見て、ほっと胸をなでおろすのだ。

 やっぱりあの人がオカシかったんだ、と。

 そうなるのを尾形さんが心の底から望んでいるのが分かった。

「そんなことはありません」

「俺は病院なんか行きたくないんだよ」

「いいえ、強引にでも行ってもらいます。お願いです。一緒に行ってください」

 尾形さんはそう言うと、ポケットの中から細引きヒモを取り出し始めた。

 柳さんはぞっとした。

「やめてくれよ」

 柳さんは尾形さんから距離をとった。尾形さんは憑りつかれたような目つきで柳さんに近づいた。

 そのとき、柳さんは心の底から身の危険を感じたという。

 柳さんは走り出した。

 背後から、ダッ、ダッと地面を蹴る音が聞こえた。

 柳さんは死ぬ気で走った。暗い宴会場を抜けて、配線や、割れた筐体の破片が散らかっているゲームコーナーで何度も躓いた。

 階段を上り、二階の廊下を走った。


 尾形さんはどこまでも追いかけてきた。


 直線では尾形さんの足が勝り、次第に距離が縮まっていった。

 意識する余裕はなかっただろうが、そのとき柳さんの視界に何が移っていたかを説明することはできる。

 大浴場の暖簾がビリビリに破けているのが目についたはずだ。

 いつ以来か、ずっと閉ざされたままの掃除用具入れのドアノブや、浴場の前で待ち合わせをするために置かれた床几がぽつんと置かれているところを目にしたはずだ。

住み慣れているとはいっても、このあたりはほとんど来ることがない。人が去った後の人工物が放つ静謐な不快感を感じ取っていたはずだ。


 柳さんにとっても恐ろしい光景だった。

 しかし、尾形さんもこんなところには一秒だっていたくなかったはずで、それでありながら、どこまでも追いかけてくる彼が恐ろしかった。

「お願いです……一緒に病院に行ってください……」

「イヤだと言ってるだろ」

 柳さんは階段をかけあがり、三階に向かった。四階、五階とさらに階段をあがった。三階以降は柳さんも行ったことがなかった。

 とにかく逃げるのに必死だった。

 五階、六階とあがる。階段をあがっている間は二人の距離がそれほど縮まっている感じはなかった。しかし、廊下に出ると若い尾形さんの方が有利なことは分かっていた。

 六階にたどり着いたとき、もうそれより上へ行く階段はなかった。

 屋上に出る階段は、かなり新しい南京錠で頑丈に施錠されていた。

 柳さんは六階の廊下に出た。

 必死に走った。

「待てええええ」

 尾形さんは声を荒げて追いかけてくる。

 目の前に人影が見えたのはそのときだった。

 柳さんは思わず足を止めた。


 目の前を歩いていたのは、例の女だった。


「引き返せ! 引き返せ!」と繰り返し、肝試しに来た若者の寿命を予言した奇妙な女だ。

 手には何か金属質のモノを握っており、窓から差し込む光できらりと光っている。

 柳さんと尾形さんがかなり騒々しい音を立てているのにも関わらず。女は後ろを振り向こうともせず、廊下を歩いて行く。

 そして、奥から三番目の客室のドアを開けると、中へと消えていった。

 女が消える瞬間、女の手の中で光っていた金属質のモノが、丸く浮かび上がり、そのシルエットを現したような気がした。

 柳さんはそのときふいに足を止めた。

 後ろから尾形さんが追っかけてきているのすら忘れたようだった。

 様々なことが次々に思い浮かび、すべてがあるべき場所に収まったような気がした。そして、すべての事柄がこの瞬間のために巧妙に配置されていて、自分は奇跡のような必然にめぐり合わせたように感じた。

 多くの人が閃きの際に体感するこのような感覚を柳さんも味わったはずだ。


「やっと観念しましたね。さあ、ぼくと病院に行ってください」

 尾形さんは柳さんに追いついて言った。

「尾形くん……俺はほんとうに病院に行かなくて済むかもしれないよ」

「今さら何を言ってるんですか」

「君だって、この廃墟を取り巻く呪いの存在に怯えなくても済むはずだ。現実はもっと残酷なんだから」

「分かるように言ってください」

「さっき、例の女があそこの客室に入っていくのを見たんだ」

「え?」

 尾形さんが柳さんの指の先に視界を向けた。

「あそこにすべてがあるはずだ。行こう」

「行くってどこに」

「あの部屋だよ。尾形くんが前に立って開けてみてくれないかな? 俺はこの通り、老いぼれだ。部屋の中で何が起こっても、きっとうまく対処できずに転んでしまうから」

 柳さんは弱気な笑みを見せて、先を譲った。

 しかし、その顔は不思議な自信に満ち溢れていた。

 尾形さんは迷ったに違いない。

 真実が何であったとしても、愉快な結末は期待できなかっただろう。

 しかし、尾形さんは震える手で、そのドアを開けた。恐怖という不思議な誘惑に取りつかれて。

 ドアの軋む音がして、尾形さんは客室に入った。そこは真っ暗だった。

 何もなかった。

 何もない。

 ただ、がらんどうの客室を闇が満たしているだけだった。

「なにもありませんよ?」

 尾形さんは半狂乱になって言った。

「柳さん! 説明してください。何があるって言うんですか!?」

「暗くてよく見えないだけだよ」

 柳さんはそう言って懐中電灯をつけた。

 その瞬間、懐中電灯の光に照らされて、二人を睨みつける女の物凄い顔が浮かんだ。

「や、柳さん……これって」

「引き返せ! 引き返せえええ」

 女は二人を睨みつけながら言った。

 柳さんは女に構わず、懐中電灯を振って、部屋の中を照らした。

「ほら、やっぱり……あったよ」

 部屋の奥には二つの死体が、無造作に打ち捨てられていた。手足は奇妙な形で曲がり、おままごとの途中で放置された人形のようだった。

 スカートがめくれあがり、シャツのボタンが外され、下着があらわになっている。

 柳さんが見た死体だった。

 あのときと違っていたことといえば、死斑と呼ばれるアザが身体中に浮き上がっていた。体内では生体組織の分解が始まっているのか、死体が異様に膨らんでいるように見えた。

 しかし、真冬のこととあって、その変化はかなりゆっくり進行しているようだった。

 柳さんはさらに懐中電灯を振った。

 部屋の奥の死体が闇に紛れ、女の顔があらわになる。

 柳さんが探しているものは他にあるようで、部屋の隅々まで懐中電灯を照らし、女の背後に小さくうずくまっているそれを見つけた。

「やっぱり。尾形くん、あれ見てよ」

 柳さんはそれに懐中電灯をあてた。


 そこにいたのはネコだった。黒い、やせ細ったネコで、フローリングの床に這いつくばるようにして眠っている。

 その背中には和釘と呼ばれる四角い五寸釘が、深々と突き立っていた。

「うわ……むごい……誰がこんなことを」

「言うまでもないことだろ」

「少年ですか?」

「多分ね……」

「まだ生きてるんです?」

「そうだろう、きっと」

 柳さんはネコに近づいた。

 その瞬間、女がギッと目を見開き、歯をむき出しにして言った。

「引き返せええええ、引き返せええええ!」

 女はしかし、まったくその場を動こうとはしない。

 まるでそう繰り返すのが精いっぱいと言わんばかりで、潰れたような声で、二人を拒み続ける。

 その後ろで、ネコは夢にうなされたように目を閉じ、苦悶の表情を浮かべている。

「安心してくれよ。そのネコをどうこうしようって言うんじゃないんだ」

 柳さんは女に向かって言った。

「でも、このままそんなふうにしていたら、そのうちそのネコも病気になっちまうよ。死体は腐ってきて、有害物質が発生するんだ。あのネコも君も死毒にやられるよ」

「引き返せえええ、引き返せええ!!」

 女は頑なにそう言い続けた。

「分かったよ。引き返すよ。その代わり、その死体は俺に任せてくれないかな?」

「ちょっとどういうつもりです?」

 尾形さんが口を挟んだ。

「このままここに置いておくわけにはいかないだろ。人が死んでるんだ。警察だって事件を把握しておくべきだし、次の被害者を出すわけにはいかない。犯人は逮捕されて、罰を受けるべきじゃないかな?」

「それで、どうするんです?」

「どこか、人目に付くところに置いておこう」

「ここで通報したらいいじゃないですか」

「それはきっとあの子が許してくれないよ」

 柳さんはそう言うと、客室に上がり、死体を引きずってきた。

「さあ、尾形くん、一緒に運ぼう。肩を持ってくれないか?」

「イヤですよ。こんなこと」

「だったら、君は警察に通報して、警官たちが来る間、この女と一緒にいればいいよ。ほら、スマホを出して、警察に電話しなよ。その間、この女が黙ってそれを許している保証はないけどね」

 柳さんは冷たく言い放った。

 女は尾形さんを見て、這いあがるように身体を持ち上げた。

「ひぃ……」

 尾形さんは恐れをなして後ずさった。

「なぜ、この女が人を拒み続けてると思う? なぜ、死体を隠したと思う?」

「そんなこと分かりませんよ」

「あのネコが動けないからだよ。あのネコ少年によって釘打ちにされたまま、野生の生命力で生きながらえたんだよ。ほら、分かるだろ? 血はもう出てない。釘が貫通したまま傷口が癒えて、床と、皮膚と和釘が完全に癒着してしまってる。動かせないんだよ」

 柳さんは懐中電灯を振った。

「分かっただろ? この猫はどこにも逃げることができない。もし、ここに警察が踏み込んだらどうなる? 耐えがたいストレスにさらされるだろうし、もしこのことが明るみに出てみろ。マスコミや野次馬が大勢押し寄せて、このネコに危害を加えるかもしれない。良かれと思って、釘を無理やり引っこ抜いて、ネコを殺してしまうかもしれない」

「分かりましたよ」

 尾形さんは言った。

 今、明るい冷房の効いた部屋で、この文章を書いている私には信じられないことだが、その後、尾形さんは柳さんに従い、二体の死体を運んでいる。

 人間の死体はかなり運びづらいとされている。

 分解が進みつつあった死体はかなり柔らかく、水を運ぶような頼りなさがあったはずだ。分解のために多少、体重は落ちていたと考えられるが、それでも四〇キロはあったはずで、脆くなった部分が破れてしまわないかと不安を覚えたに違いない。

 二人は一階まで、協力して死体を下ろし、それからまた六階にあがって、二体目の死体を一階に下ろさなければいけなかったはずだ。

 実際に二人は、六階の客室から駐車場に停めた車までの道のりを重い死体を持って二往復している。

 柳さんはその際に、手首を痛めていたようで、その後半年間、派遣から回される事務所の撤収作業を断り、工場の軽作業に専念している。

 車に死体を積んだ二人は、駐車場を出ると一般道から坂をあがり、極楽寺の境内に車を止めている。

 二人は自分たちの痕跡をなるべく残さないように努めたようで、途中からは軍手をはめ、人に目撃されるのを恐れてマスクをしていたという。

 車を降りると、二人はなるべく足跡を残さないよう、草の生い茂った場所を選んで歩き、極楽寺の境内にある、山道の草陰に死体を遺棄した。

 すべては夜の廃墟で起こったことだ。

 現実感は乏しかったに違いない。いつまでもそこでじっとしているわけにはいかなかっただろう。明らかに話の通じない女と、二つの死体に囲まれて警察が到着するのを待つのはためらわれたはずだ。

 不法侵入をしている身でもあり、尾形さんも警察とは関わり合いになりたくなかったはずだ。

 二人の心境は理解はできても、生理的には受け入れがたい。

「一体犯人は誰なんです?」

「多分、俺が見た黒いパーカーの男だと思う。強姦殺人じゃないかな。殺すつもりがあったのか、結果としてそうなってしまったのかは分からないけど、あのパーカーの男は肝試しに行こうとか言って女を誘い込んで、この廃墟で犯して殺した」


「柳さんが見たのは本当に生身の死体だったってことですよね?」

「尾形くんが運んだとおりだよ」

「でも、僕を呼びに来て、戻ったときにはすでに消えていたじゃないですか」

「きっとこの女が運んだんだよ」

「それは騒ぎを起こされたくなかったから?」


「恐らくね。あのネコを誰にも見られたくなかったんだろう」

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