柳さんによると7
「ほんとに期待して良いんだろうね?」
柳さんはコンクリートの上に腰を下ろし、日本酒のカップを傾けた。
「ええ、たいてい一匹は釣れますから」
尾形さんは廃ホテルを背に、渓流に釣り糸を垂らしている。二人はあれからときおり話をするようになった。
柳さんは誰にでも話しかけるような気さくな人だ。夜、どうしても眠れそうにない晩なんかは、庭に出て尾形さんと話をしていたらしい。
尾形さんは尾形さんで、この渓流のヌシを釣るという一心で廃墟に足を運んでいるが、恐怖心が全くないわけでもない。
気味の悪い場所で、釣りに夢中になれるまでムキになって竿を動かし続け、落ち着かなくなるとタバコに火をつける。
そんな様子だから、柳さんがそばにいてくれると幾分安心できたのだろう。
「来週、七輪を持ってきますよ。ウグイを塩焼きにして食ったら美味いですよ。たくさん釣れたら酒盛りでもしましょうか」
先週末、尾形さんは柳さんにこう言ったのだと言う。
あえて一週間も前から気を持たせるようなことを言うのだから、やはり心細いのだろう。
「本当かい? それなら俺は酒を持ってくるよ」
そういう話をして今週末になった。
柳さんはもう一時間も前から後ろで、尾形さんの様子を眺めている。すでに缶ビールを一本開けて、日本酒をチビチビやり始めたのだが、一向に釣れる気配はない。
「おかしいな……おかしいな……」
尾形さんは柳さんの視線を背中に受けながら釣竿を操る。
「もうそろそろ眠いんだけど……」
いい感じに酒が回ってきた柳さんは目をこすりながら言った。
「もうちょっと待っててください。今に釣れますから」
「ほんとうだろうね?」
そういってあくびをした柳さんだが、次の瞬間、思わず後ろを振り返った。ホテルのロビーの方で「ぎゃはははははは」と妙に浮かれた声が響いた。
「なんでしょう」
尾形さんの表情も強張る。
「肝試しの若者だね。金曜日は多いんだよ」
何がそんなにおかしいのか分からないが、若者は甲高い笑い声をあげながら、「やめろよ! やめろよ!」と言って騒いでいる。
「こんなところにいて、目を付けられたりしませんかね……」
「多分、大丈夫。適当に一階を見て回ったら帰るよ」
柳さんは経験上、肝試しに来た者が、すべての部屋を見て回ることがないと知っていた。
ホテルの部屋数はかなり多く、物珍しいのは最初だけで、実際飽きてくるのだろう。
二階部分はまだ遊技場や浴室などもあって面白いが、三階から上はただの客室が続いており、危険な割に見るものは少ない。
柳さんも最初の晩に、状態のいい部屋を探したとき以外は、他の部屋を覗くこともなかったという。
「だったらいいんですけどね……。ぼくも大学生まではよく下らないことをして遊んでましたけど、ああいうのはなかったですよ」
尾形さんはそういってあごでホテルを示した。
「まあ気持ちは分かるよ」
柳さんはもうそれほど前のことはよく思い出せない。若者らしくはしゃぎまわっていたと思うが、それでも彼らほどではなかったなという気はする。
ホテルの中では依然として若者の声が聞こえる。
「あ、今魚が食いましたよ!!」
尾形さんが興奮気味に言って竿をあげた。
途端に水面にきらりと魚影が翻った。
尾形さんは慎重に魚を岸に寄せる。それほど大きな魚ではないので、すぐに上がってくる。
「中々大きいね。それなんて魚?」
柳さんは暗闇の中目を凝らした。
「ウグイですよ」
「いいね、ようやくツマミにありつけるよ」
柳さんは肝試しの若者については気にしないことにした。向こうは向こうで遊びにきたのだ。こっちはこっちで楽しめばいい。
「柳さん、魚を捌いたことはありますか?」
「まあ、得意な方だと思うよ」
「それなら鱗を取って、ワタを抜いといてください。その間にあと何匹か釣っておきますから」
尾形さんは都合のいいことを言って釣竿を振る。完全にスイッチが入って、ようやく楽しくなってきたといったところだった。
「包丁は?」
「サバイバルナイフですけど」
柳さんはサバイバルナイフを受け取ると、鱗を落として内臓を取り出した。バケツで渓流の水を汲み、身を洗って塩を振る。
そういうことをしている間に、尾形さんはさらに三匹の魚を釣り上げた。
「すごいね」
「でしょ? ここは釣りに来る人がいませんから、魚自体はいるんですよ。本当はヌシを釣りあげて、柳さんと盛大にやりたかったんですけど」
「そんな大きな魚釣られても困るよ」
柳さんはそう言って笑った。
「にしても、手際が良いですね。塩加減もよさそうで美味しそうだ。今、七輪の準備しますよ」
尾形さんが釣竿を柵にもたれさせて、持ってきた七輪に炭を入れようとしたときだった。
「わ、わ、うわあああああああああああ」
ホテルの三階あたりだろうか。若者の叫び声が聞こえた。
柳さんと尾形さんは顔を見合わせた。
「なんだろう」
「さあ、さっきまで機嫌よく遊んでたのにね」
「ひ、ひいいいいいいいいい」
若者は相当怖気づいてしまったらしく、頼りない悲鳴を漏らしている。
「行ってみますか?」
大人としての責任感を感じたのかもしれない。尾形さんは真面目な表情になると、宴会場の窓からホテルの中に入った。柳さんはその後ろをついていく。
「悲鳴はどこで?」
「多分、こっちだと思う」
柳さんの方がホテルの間取りには通じている。声が聞こえたのは恐らく、三階の西側だろう。ちょうど、柳さんの部屋があるあたりで、そこまでの経路は慣れたものだった。
階段の踊り場に二つの影が重なっているのが見えた。
「あ、あ、あ、あ、……」
「おい、早く立てよ。もう行こうぜ」
「わ、わ、わ、分かってる……」
一人はよほど怖気づいているらしく、腰が抜けたまま動けないようだ。柳さんが「前髪だけ伸ばして後は刈りあげた河童みたいな髪型」と言っていたから恐らくツーブロックだろう。背が高く服装にもかなり気を使っていたらしく、自我が強そうな子だったらしい。
「な、なあ立てって」
もう一人も半分パニックになってるのか、やたらと苛立った声をしている。そちらは髪の毛が長く、どこか野暮ったい印象を受けたそうだ。
「君たち、どうしたんだい?」
尾形さんは三階まであがると、階段の踊り場で座り込んでしまった若者に声をかけた。
若者は「わぁっ」と叫び声をあげたが、すぐに幽霊ではないと気が付いたらしく二人にかみついた。
「なんだよ、驚かせんなよ!!」
「君たちの叫び声が聞こえたから、何かあったのかと思って見に来たんだよ。何があったんだい?」
「おっさんたちこそ、こんなところで何をしてるんだよ」
髪の長い若者が腰の抜けた友だちを立たせようとしながら言った。
「まあ、僕らも肝試しみたいなものだよ」
「そ、そうかよ」
「で、どうしたの? 立てる?」
「見れば分かるだろ」
腰の抜けた方はぶるぶる震えながら足摺りをしている。本人は立ち上がろうとしているようだが、足が滑ってどうにもならない。
よほど恐ろしいことがあったのだろう。さっきから尾形さんが何度もどうしたの?と聞いているのに、二人はそれに答えようとしない。
「立たせてあげるよ。手伝って」
尾形さんは髪の長い若者と一緒に肩を持ち、なんとか腰の抜けた若者を立たせた。
「帰ろうぜ、ほら」
「うん、それが良い」
二人がかりで腰の抜けた若者を歩かせ、柳さんはその様子を見守る。一階までは支えることができたが、ガラスの割れた玄関は一人分の隙間しかない。
友だちが先に外に出ると、尾形さんが背中を押し、友だちが手を引っ張るようにして、外に出した。
「お、女の人がいたんだ」
駐車場まで来たところで、若者はそう言った。腰の抜けた方はまだ口もきけない状態で、髪の長い若者は何とか話ができるようになったようだ。
「女の人?」
「ああ、俺たちが三階の廊下を覗いて、四階も行ってみようぜって思って階段をのぼりかけたら、階段の上から女の人が俺たちを見てたんだよ」
「それは驚くね」
「ま、マジだって」
若者が尾形さんを睨んだ。
「嘘だとは思ってないよ。それで、どうしたの?」
「どうもしねえよ。びっくりしてうわあって声が出ただけだ」
「そっか。にしても君の方が怖がりなんだな。見た目は、こっちの方が強そうだけど」
尾形さんはそう言って笑った。まぜっ返すつもりで言っただけなのだが、髪の毛の長い若者がぶんぶんと首を振った。
「ちげえんだよ。女がゾノの方を指さして、『かわいそうに二十二歳、しかも病死』って言ったんだよ」
「や、やめてくれよ!!」
ゾノと言われた若者がヒステリックな声を出した。
「なに?」
尾形さんが顔をしかめる。
「だから、女がゾノに向かって」
「もう言わないでくれぇっ!! 頼むから」
ゾノはそういってボロボロと泣きはじめた。
「わ、悪い……」
「君たち何歳?」
「二十」
「なるほどね」
廃墟で女の人を見たと思ったら、指をさされて年齢と死因を言われるなんて恐ろしいことこの上ない。
私はこの話を柳さんから聞いただけで鳥肌が立ったくらいだから、いざ自分が名指しされたときには腰が抜けても不思議ではない。
これは明らかな凶兆で、実際にゾノが死んだときには怪談の領域を超えてしまっている。結局、その若者はそれ以降、廃墟を訪れることはなく、その後、二十二歳で本当に死んでしまったのか、確かに死因は病死だったのかは確かめようがないという。
「聞き間違いじゃないのか?」
そこで柳さんは口を挟んだ。
「だったらいいなと思ってるよ」
尾形さんと髪の長い若者はゾノを乗ってきた車に押し込んだ。
髪の長い男の方がハンドルを握り、ゾノを家まで送ってから帰るという。
「とにかく気を付けてね。この辺は道も暗いから」
「分かってる。おっさんたちも気を付けて」
「うん、そうするよ」
二人の車が走り去ったあと、尾形さんと柳さんは顔を見合わせた。
「気味の悪い話ですね」
「そうだね」
「一体、なんだってそんなことを言うんでしょう」
尾形さんは廃墟に戻りながら話し始めた。
「さあ、寿命が見えるのかもしれない」
「よくマンガやなんかである話でしょう? 頭の上に数字が書いてあって、他の人の寿命が見えるみたいな。でも、考えたらバカバカしいですよ。数字くらいならそう目障りにもなりませんけどね、道歩いてて、通行人の頭の上に数字と死因が書かれてあったら、鬱陶しくてしょうがありませんよ」
「確かにそうだね」
柳さんも同意する。
「それなら、見えるわけじゃないのかもしれない」
「どういうことです?」
「知ってるんだ。誰が何歳でどんなふうに死ぬか、その女は知ってるんだ」
「死神みたいですね」
「みたいじゃなくて死神なのかも。尾形さんは怖くないの?」
柳さんはそう聞いた。
先ほどから尾形さんは飄々としているというのか、それほど怖気づいていないように見える。
「確かに話としては怖いですよ。でも、その女の人って娼婦でしょう?」
二人は庭に戻って七輪に火をつけようとした。
しかし、急に風が強くなって、ライターの火がすぐに消えてしまう。
さっきまではほとんど無風だったのに、突然、寒いくらいに風が吹きつけてくる。ざわりと鳥肌が立つ。
ライターの火は焦れば焦るほどつかなくなる。
尾形さんが舌打ちを繰り返すのを見かねて、柳さんは言った。
「俺の部屋でやるかい?」
二人は柳さんの寝起きしている三階の部屋まで移動した。
階段をあがったところで、ちらりと四階にあがる階段を見たが、女の姿は見えなかった。
柳さんの部屋に戻ると七輪をセットしなおして火をつける。今度は風もなく、着火剤に火が移る。
「さっきの話だけど、尾形さんはその女の人が娼婦だって本当に信じているのかい?」
柳さんはそう言った。
確かに、この廃墟で客を取る娼婦の怪談がある。柳さんは日野さんからその怪談について聞いており、地元の住人にはすでに相当広まっていると思われる。
「僕の予想では彼女は娼婦ですよ。それも耳が聞こえないんです」
尾形さんはかなり踏み込んだ推測を披露し、柳さんは驚いて前のめりになる。
「なんでそう思うの?」
「だって、普通の女ならこんなところで客を取らなくてもどうにでもなるでしょう。多分、彼女はソープランドでは雇ってもらえない何かがあるんです。そう思ったら耳が聞こえなくて、発音にもかなり難があるんじゃないかと思ったんです」
確かに怪談の中では、女は「いっかいせええ、いっかいせええ」と妙な発音をして男に迫る。それを考えれば、耳が不自由でかつ、発音に難があるというのも的外れではないんじゃないかと思う。
「それだけなら何の根拠もない憶測じゃないか」
柳さんは網の上にウグイを乗せながら言った。
「いや、実は僕、一度、彼女に言い寄ったことがあるんです」
尾形さんはそういって照れたように頭を掻いた。
尾形さんが彼女の姿を見かけたのはまだ柳さんと知り合う前の話で、二度目に釣りをするためにこの廃墟を訪れたときだったらしい。
駐車場からホテルに向かおうとすると、玄関前のヒサシでぼうっと立ち尽くしている女がいる。尾形さんは娼婦の怪談を聞いていたが、奥さんとの関係は冷え切っており、女性への渇きは長年満たされていなかった。
なんどかそういう店に行ったこともあるし、一回千円という安さにも心惹かれた。
廃墟で釣りをするほど欲望に正直な男だ。尾形さんは女性に近づいていった。
「すみません」
尾形さんは女性に声をかけた。尾形さんに背を向けたまま振り返ろうともしない。
「あの、その手の客を取るって本当ですか?」
女が一向に振り向かないので、尾形さんは目の前まで近づいていき、女の肩を叩いた。
びくっと女が肩を震わせたあと、尾形さんをじろりとにらんだ。
「いっかいせえぇ、いっかいせえぇ」
女がそう言った。
「本当に千円で良いんですか?」
尾形さんはそう言って財布を取り出そうとする。
すると女は物凄い形相になり、尾形さんの財布を叩き落すと、そのまま廃墟の奥へと消えていってしまった。
尾形さんは他に客があったか、何か彼女を怒らせたか、とにかくフラれてしまったことに気が付いて、仕方なく釣りをすることにしたのだという。
「じゃあ、娼婦っていうのは本当なんだ?」
話をしている間に、塩焼きがあがる。身の焦げる匂いと魚の脂が溶けだしたような匂いが混ざりあい旨そうな匂いがする。
「ええ、確かに一回千円ですよ。柳さんでもどうです?」
「いやあ、僕はもう七十だから」
「七十じゃもうダメですか」
「身体もそうだけど、気持ち的にね。相手に気を使わせるのに耐えられないんだよ」
柳さんは意外にも繊細なことを言う。
二人は火を弱め、網から魚をつまみ上げた。
「あつ、あつっ」
指先でお手玉をしながら、塩焼きにかぶりつく。
「ほら、女が帰っていきますよ」
尾形さんは部屋の窓から玄関を見下ろして言った。
「どこどこ」
柳さんも窓を覗き込む。
見ればすらりとした女が廃墟から駐車場の方へと歩いていく。女に気が付いたネコが女の足にすり寄っていく。
女はそのネコの頭をなでると、鞄の中から何かを取り出し、地面に落としてやる。
「そういえば、このあいだもネコにエサをあげてたなあ」
「あれ? 柳さんも見たことがあるんですか?」
「うん、僕はそこまで近づかなかったから『いっかいせえぇ』なんて怪しい誘いを受けることはなかったけどね。ネコにエサをあげてるところは見たよ」
「それならやっぱり人間ですね」
「幽霊には見えなかったね」
「でしょう? 彼女は幽霊でもなんでもないんですよ。どういうわけかここにいついた立ちんぼです」
「それにしたら客はどうしたんだ?」
柳さんは納得がいかない。
立ちんぼだとして、女一人で帰るのはどういうことだろう。客はどこへ行ったのか?
「さあ、客を先に帰して、自分は一人で帰るんじゃないですか」
「じゃあ、さっきの若者の寿命と死因を告げたのはどういう意味があるんだい?」
「そうなんですよね。それが分からない」
尾形さんは頼りない返事をする。
尾形さんの推測通り彼女が立ちんぼだとするなら、この廃墟に立ち寄る若者は格好の客だろう。それを言い寄るどころか、寿命と死因を告げて驚かすのは理解に苦しむ。
「本当に人間なのかな」
「ほかになんなんです?」
「死神とか?」
「死神の立ち去るところを上から眺めるなんて間が抜けてますよ。幽霊にしろ、何にしても不意に目の前に現れるから怖いわけで、機嫌よくご帰宅あそばす姿を上から眺めるなんか聞いたことありません」
尾形さんがまぜっ返す様なことを言う。
「そう言って笑ってたら、実は背後に立ってたりして」
「こ、怖いこと言わないでくださいよ」
尾形さんは奇妙な笑顔になって言った。冗談と分かっていながら後ろを振り返らないわけにはいかなくなって、まるでゼンマイ人形のようにぎこちなく首を回す。
当然だが、そこには誰もない。
「まったく驚かさないでくださいよ」
尾形さんはそう言いながら、残りの塩焼きを平らげた。
結局、女については様々な憶測が飛び交ったが、どうもすっきりしないままだったそうだ。
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