柳さんによると6

 廃墟で暮らし始めた柳さんは相変わらず不気味な日々を送っていた。

 ボロボロで陰気なホテルに、ときおり肝試しの若者が訪れる。かと思えば、週末には釣り狂いの尾形さんが現れる。

 それ以外にも不穏な音や気配がするのは日常茶飯事で、ホームレス友だちの日野さんにはそんなところに住むのはやめろとうるさく止められていた。

「まだあんなところ住んでるのか?」

 久しぶりに日野さんと公園で会ったとき、柳さんはそう言われた。

「まだって別に引っ越すつもりはないけど」

「あんなところに住んでるとろくなことにならないぞ」

 日野さんはそう言って怖い顔をした。


「そういえばさ、この前、裸の女が走ってるのを見たよ」


 そんなことを言えば余計に止められると思ったが、柳さんはあえてその話をした。 友だちを驚かせて反応を楽しもうという魂胆があったのかもしれない。

 ただ、これは日野さんを驚かせようと思って言った嘘ではない。実際、柳さんは裸の女を見たのだと言う。


 ことの顛末はこのようなものだった。

 ある夜、柳さんは自分の部屋で眠りにつこうとしていた。風のない晩で静かだった。

 廃墟に住んでいるからといって毎日怪談じみたことが起こるわけでもない。 実際のところは穏やかに眠れる日の方が多いそうだ。

 だから、柳さんは世の心霊スポットも大概何もないことの方が多いのだろうと考えていた。たまたま肝試しに行ったり、前を通りがかった人の何人かが不思議なことを体験するだけで、全体としては何もないことがほとんどだと。

 そんな感じでいつものように眠りにつこうとしたときだった。


「いやああああああああああ」

 と物凄い声が階下から聞こえた。

 柳さんは咄嗟に飛び起きた。

 聞き間違いようのない女の叫び声だった。それもちょっとびっくりした程度の悲鳴ではない。絶望に揉まれた者の動物じみた悲鳴だった。

 階下からはドタドタ、ドタドタと物凄い足音がする。

 これは尋常ではない。柳さんはそう思った。

 これまでに怪談じみたことはあったが、どれも不思議な話程度だった。これは本当に何かがあったのだと思った柳さんは懐中電灯を持って階段を下りた。


 一階に降りると女の叫び声が鮮明になった。

 見ると、エントランスから宴会場へと至る廊下を、女が走り回っている。それも女はまっぱだかで上から下まで何もつけていない。

 真っ暗な廃墟の中で女の白い肌だけが浮き上がって見えるようだったという。


 逃げ惑っているという表現がぴったりだった。


 女はどこへ行けばいいのか、逃げ場はどこか全く分かっていないらしく、同じところを行ったり来たりしている。外に出るでもなく、あるいは何者か、追っている者から遠ざかるでもない。


 そもそも追っている者がいないのだ。

 柳さんはかなり注意深く周囲を観察して、誰か襲ってくるものがいるのかと目を凝らしたが、そこには誰もいなかった。

 そもそも女を襲うものがいるなら、こんな大声で走り回る女を見失うはずはないし、助けを求める女を放っておくわけもない。

 薬物中毒者か?

 柳さんはそう思った。

 これほどやかましい幽霊なんて聞いたこともないが、それでも裸の女が廃墟を走り回るというのは現実離れしている。


 いよいよおかしくなったのは自分かもしれない。

 柳さんは声をかけるでもなく自分の部屋に戻った。薬物中毒者なら何をされるか分からないし、向こうからしたら、こんな場所でおじいさんに遭遇する方が恐怖だろう。

 自分の頭がおかしくなっているのだとしたら、相手をするだけ余計におかしくなる。

 柳さんは三階に戻ると、目を閉じて心を鎮めようとした。

 とにかく、心を鎮めて、やり過ごすに限る。

 女の悲鳴はその後もかなり長いあいだ聞こえていた。


「だから、言ってるだろ。そういうものを見る羽目になるんだ」

 日野さんは柳さんを𠮟りつけた。

「でも、裸の女だよ」

 柳さんはそう言って混ぜっ返す。

「やなさんは嬉しかったのか? 女の裸が見られて」

「まさか、裸の女が叫び声をあげて走り回るってのは物凄いよ。色気なんてあったもんじゃない」

「そうだろうな」

 日野さんはむすっとしていた。そんな話は聞きたくなかったと言わんばかりだった。

「これにも何か謂れがあるのかい?」

「いわれ?」

「日野さんは調べたことがあるんだろう? あのホテルの怪談を。何か同じような怪談があるのかと思って」


「やなさん、それは幽霊じゃないよ。人間だよ」

「人間?」

「そうだ。ああいう場所を裸で走り回る女っていうのは、科学的に説明がつくんだ。実際、富士の樹海では度々目撃されている」

「そうなのか?」

「ああ。自殺しようとした女がよくそういう目に遭うんだよ」


 日野さんはそういってこんな話をしたそうだ。


 鬱病や双極性障害などの精神疾患や、借金やイジメで希望を失い、自殺しようとする女性がいたとする。誰にも止められない場所でひっそりと死にたいと思い、こういう人が寄り付かない場所を選んで、死のうとする。

 女のことだから綺麗に死にたいと思い、日頃、お医者さんでもらっていた睡眠薬をコツコツ貯めて、山のようになった錠剤を一気にのみ込んで自殺するのだ。

 しかし、そもそもいくら飲めば死ねるかといった計算なんかしていない。これだけたくさん飲めば、死ねるだろうと思って飲むだけだから、死ねないことも多々あるのだそうだ。

 睡眠薬を飲んだ女は、酩酊状態の中で居心地の悪さを覚えて、あるいは暑さを感じて服を全部脱いで眠りについてしまう。

 大量の睡眠薬を飲んで起きた女は前後不覚の状態に陥っており、睡眠薬のせいでこれまでの記憶を失っている。

 裸で起きたときには、ここがどこで自分がなぜここにいるのかを全く覚えていない。突然、廃墟で目を覚まして、それまでの記憶がないのだから、恐ろしいことこの上ない。

 当然のことながら、どこからどう帰ればいいのかも分からないから恐怖の叫びをあげながら逃げ惑うしかないそうだ。

「じゃあ、あれは生きた人間なのかい?」

「そうだろ。幽霊よりかはよほど納得がいくだろ」

 柳さんは頬を引きつらせた。自殺しようとした女が、死に損なってあんな風になるのなら、幽霊や気の迷いよりもよほど物凄いと思った。

「にしても、日野さんはよくそんなことを知ってるね」

「俺はこれでも大学生だからな」

 日野さんは不機嫌なまま言った。

 日野さんが一コマ一万円で放送大学に通い、学割を適応してもらったり、大学のシャワーを利用している話は前に書いたと思うが、学生証を買っているだけでなく、実際に真面目に授業も受けているようだった。

 日野さんが取っているのは心理学系の授業らしく、講義でうつ病の女性の体験談なども紹介されるのだと言う。

 その中で似たような話を聞いていた日野さんは、柳さんの話を聞いてピンときたのだと言う。


「良いか? ああいう場所に住むってのは怖いことや、危ないことに遭うだけじゃないんだよ。そういう絶望や世の中の悲惨な一面に立ち会うことになるんだ」

「まあ、俺たちだってそういう世界で住んでるわけだから」

「にしても場所は選べる」

「どうだろう。少なくとも公園で寝て、ホームレス狩りにあうようなことはないよ」

「勝手にしろ」

 柳さんの減らず口に日野さんは愛想を尽かしてしまった。

 結局、それ以降、日野さんはときおり柳さんを心配することはあっても、廃墟を離れろとは言わなくなったらしい。


 それほど人の言うことを聞かない柳さんだったが、彼はその一年後にはあっさりと廃墟で暮らすことを辞めている。

「あのとき、日野さんの言うことを聞いていれば良かったんだよ」


 そう言ったとき、柳さんは恐怖が染みついたように顔を引きつらせて笑っていた。

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