第9話『朽ちた植物園』

荒廃した道を、しんは夢現と共に歩き続けていた。彼の足取りは重く、顔には疲労の色が滲んでいる。時折、夢現がふらりと足を止めるたびに、しんはその小さな手を引いて優しく声をかけた。


「大丈夫……?少し休む?」


だが夢現は何も答えず、ぼんやりと前を見つめたまま再び歩き出す。彼女の瞳は何かを捉えるように遠くを見つめ、その先に何かがあることを確信しているかのようだった。


「……どこへ向かっているんだろう。」


しんは呟き、冷たい風にマントを強く握りしめた。


やがて二人の目の前に、巨大な廃墟が姿を現す。鉄骨がむき出しになり、天井のガラスは割れ、植物が侵食している。そこは、かつて植物園と呼ばれていた場所。


「ここ……なんだか、息が詰まりそう……」


植物園の入り口に立った瞬間、しんは無意識に息を飲み込んだ。何かが違う。ただの廃墟ではない。そこには、言葉にできない不気味さと圧迫感が漂っている。


夢現は迷うことなく植物園の奥へと足を踏み入れた。


「待って、行かないで……!」


しんは慌てて彼女の手を掴む。しかし、夢現はその手を振りほどき、まるで何かに導かれるように前へと進んでいく。


「どうして……こんな場所に?」


周囲は静まり返り、風すら止んだかのように植物園は音を失っている。唯一聞こえるのは、天井の割れたガラスから滴る水の音だけ。


——ぽつり、ぽつり。


「……仕方ない。僕も行くよ。」


しんは小さく息を吐き、夢現の背中を追って植物園の奥へと歩き出した。


​───────


進むにつれて、しんの心臓は早鐘を打ち始める。苔むした床を踏みしめるたびに、足元からひやりとした冷たさが伝わってきた。


「やっぱり、ここ……変だ。」


光がほとんど届かないガラス天井の下、しんは無意識に夢現の手を掴もうとしたが、彼女はすでにしんの一歩先を歩いていた。


そして、二人はたどり着く。


——そこには、巨大な檻があった。


鉄格子は錆びつき、蔦が絡まり、檻の中には黒髪を長く垂らし、赤い着物を纏った人物が膝を抱えてうずくまっている。


額には、第三の目。だがその目は閉じられたままで、かすかな呼吸音だけが檻の中に微かに響いていた。


「……誰?」


しんは震える声で呟いた。檻の中の人物はわずかに顔を上げる。鋭い瞳がしんと夢現を捉える。


「誰か……来たのか。」


その声は乾き、疲れきっていた。長い時間、孤独に苛まれていた者の声だ。


「……助けなきゃ。」


しんは檻に駆け寄ろうとした。しかし、その瞬間——。


——ガシャァン!!


植物園全体が揺れるほどの衝撃音。天井のガラスが割れ、光が一瞬にして差し込む。


震えるしんの視界に、白いローブに紅い刺繍を施した人物がゆっくりと現れる。長い銀髪を三つ編みにし、顔には焼け跡。そして、手には赤く輝く聖杯が握られている。


「ふふふ……異端者が揃いも揃って、ここに集まっていたとはね。」


その人物は笑みを浮かべ、しんをじっと見つめた。その目はまるで獲物を値踏みするかのようで、しんは背筋に冷たいものが走るのを感じた。


(……誰だ、この人?)


しんは無意識に後ずさる。その姿を見て、エルフィはくすくすと笑った。


「夜の彼は出てこないの?それとも、君が今夜の主役かしら?」


「……何のことを言ってるの?」


しんの問いに、エルフィは興味を失ったように目を細める。


「つまらないわね。ま、いいわ。お遊びはこれから——」


エルフィが聖杯を高く掲げ、灼熱の光が植物園全体を包み込もうとする——。


——灼熱の光が、植物園を飲み込む。


「っ!」


しんは夢現を咄嗟に抱きかかえ、近くの大きなプランターの陰に飛び込んだ。灼熱の炎が空間を焼き尽くし、葉が焼け焦げる匂いが鼻をつく。熱気で息が詰まりそうになる。


「はぁ……はぁ……っ!」


肩で息をしながら、しんは夢現の顔を覗き込む。彼女は目を閉じたまま微動だにしないが、かすかに震えている。


「大丈夫だから……僕が、なんとかするから……」


震える手を握りしめ、しんはプランターの陰からエルフィの姿を覗き見た。


——エルフィは、まるで舞台に立つ女優のように、ゆっくりと舞うように歩いている。


彼女の持つ聖杯が淡い赤い光を放ち、その一歩一歩が植物園に灼熱の道を刻んでいく。


「逃げてどうするの?ねぇ、そんなところに隠れてないで、もっと私を楽しませてよ。」


その声は甘美でありながら、底知れぬ狂気が滲んでいる。


(逃げられない……ここで逃げたら、あの人に……あの子に……)


しんは震える脚に力を込めた。


——立ち上がれ。


しんはゆっくりと立ち上がり、エルフィの前に姿を現した。震える脚、乾いた喉、冷や汗が背中を伝う。それでも、逃げなかった。


「……僕は……逃げない。」


エルフィの銀髪が風に揺れ、顔の焼け跡がわずかに見えた。彼女は目を細め、興味深げにしんを見つめた。


「ほう……勇敢じゃない。でもね、可哀想に。君には、何もできないでしょう?」


聖杯から再び赤い光が迸る。灼熱の炎が、今度はしんに向かって一直線に迫る。


「くっ……!」


咄嗟に腕を交差させて身を守ろうとしたその瞬間——。


「ッッ!……無茶すんな、ガキ。」


——銃声が響き、赤い炎が弾け飛んだ。


「え?」


しんが目を見開くと、そこには埃っぽいコートを翻し、肩越しに銃を構えるSの姿があった。


「お前さん、ガキンチョのくせに度胸だけは一丁前やなぁ。」


——Sが、ゆっくりとしんの前に立ちはだかる。


「……なんで、ここに……?」


「さぁ?なんでやろなぁ?偶然通りかかったんちゃう?」


Sはニヤリと笑いながら、再び銃を構え直した。だが、その瞳にはいつもの軽薄さはなく、鋭い光が宿っていた。


「ふふふ……またお邪魔虫が現れたわね。」

エルフィは舌打ちしながら、聖杯を胸元に抱え込む。


——Sとエルフィが、睨み合う。


「しん、お前は……その子を連れて下がっとけ。ここは大人の時間や。」


「でも……!」


「ええから、はよ行け。」


その言葉に、しんは震えながらも頷いた。


「……わかった。でも、S君は、……大丈夫なの?」


「お前さんこそ、気ぃつけぇや。無事やったらジュースの一本くらい奢ったるわ。」


Sは片目を瞑って見せた。どこか軽薄な笑み。しかし、その背中には、しんには到底真似できない「強さ」が確かにあった。


——しんは夢現を抱きかかえ、植物園の奥へと走り出した。


後ろでは、銃声と灼熱の炎がぶつかり合う音が響いていた。


​───────


植物園の端までたどり着き、しんは夢現を木の根元にそっと下ろした。彼女は小さな寝息を立て、微かに震えている。


「ごめんね……こんなことばかりで……」


その横には、檻の中から救い出した鬼子が静かに立っていた。赤い角と、長い黒髪が月明かりに照らされている。


「お前……無茶しすぎだろう。」


低い声が、鬼子の口から零れた。どこか荒々しくも、優しさが滲んでいる。


「だって、あのままじゃ……!」


しんは思わず言葉を詰まらせる。


「……怖くなかったのか?」


「怖かったよ……今でも怖い。でも……僕がやらなきゃ……!」


その言葉に、鬼子は静かに目を閉じた。そして、わずかに微笑む。


「……変なガキだな、お前。」


「えっ?」


しんは驚いたように鬼子を見つめる。鬼子は視線をしんから夢現へと移す。そして、少しだけ眉をひそめた。


「……お前たち、なんでだろうな……どこかで見たような気がする。」


「え……?」


「いや、なんでもない。ただの気のせいだろう。」


鬼子は頭を振り、視線を前へ向ける。その横顔には、どこか言葉にできない違和感が滲んでいた。


「……行くぞ。立ち止まってる暇はないだろう?」


「……うん!」


しんは夢現を抱きかかえ、鬼子と共に再び歩き出す。


​───────


植物園の中心部――そこはまるで時間が止まったかのように、静寂が支配していた。崩壊したガラス温室の破片が月明かりを反射し、地面には燃え尽きた植物の灰が無数に散らばっている。


「ほぉら、燃えて、燃えて……もっと綺麗に灰になりなさいよ!」


紅い炎が聖杯から放たれ、周囲の植物が次々と燃え上がる。葉が炭化し、枝が爆ぜる音が小気味よく響く。焦げた匂いが鼻をつき、灼熱の空気が辺りに広がっていた。


エルフィは炎に照らされながら、狂気じみた笑みを浮かべていた。白を基調としたローブは炎の色に染まり、彼女の銀髪は紅い光を受けて揺れている。その手には血晶の盃――灼熱の力を宿す聖杯が握られていた。


温室の端から、煙の中をくぐるようにして一つの影が現れる。S――黒いコートはところどころ焦げ、肩口には真っ赤な火傷の痕が生々しく広がっていた。血が滲み、衣服に張り付き、皮膚の焦げた臭いが微かに漂っている。


「ほんま、派手やなぁ……。火遊びは怪我の元やで、お嬢さん。」


Sはいつものように薄く笑いながらも、その息は僅かに乱れていた。焦げた肩口を抑える手が小刻みに震え、体に走る痛みが容赦なく神経を蝕んでいる。


エルフィの笑みが一瞬だけ引き攣った。


「ふざけないで……! 貴方、何者なの!?」


その瞳には不信感と焦燥が浮かび、唇が小刻みに震える。聖杯を握る指が強張り、炎が再び勢いを増した。


Sは傷ついた肩を軽くすくめ、片手で銃を構える。目は鋭く、冗談めいた笑みの裏側に僅かな緊張が滲んでいる。


「さぁて、どうやろなぁ。あんさんが勝ったら、真実を教えたるわ。」


その瞬間、エルフィは唇を噛み締め、聖杯を高く掲げた。燃え盛る炎が彼女の背後に大きく広がり、植物園は紅蓮の地獄と化した。


​───────


植物園から少し離れた暗がりの中――。


しんは草むらに蹲り、荒い息を繰り返していた。彼の瞳には、遠くに燃え上がる炎の光が映り込んでいる。


「Sは……あんな風に、笑いながら戦ってるのに……。僕は、僕はまた逃げてるだけだ……」


しんは震える指先で胸元を掴み、ぎゅっと力を込める。涙がこぼれ、頬を伝い、地面にぽたりと落ちた。


その隣で、鬼子が腕を組み、じっとしんを見つめている。彼女の瞳はどこか遠くを見つめているようで、それでいて鋭い光を宿していた。


「……戻るつもりか?」


低く、冷ややかな声が闇を切り裂く。しんは涙を拭い、ゆっくりと顔を上げた。


「お願い……夢現のこと、頼む。ここにいて。絶対に動かないで。」


鬼子はしばらくしんを見つめた後、小さくため息をつく。


「……お前、後悔すんなよ。」


「うん……!」


しんは小さく頷き、涙を拭い去った。そして、震える足で立ち上がり、燃え盛る植物園の光へ向かって駆け出していく。



炎が弾ける音、聖杯から放たれる紅い光、Sの銃弾が虚空を裂く音――。


その混沌とした戦場に、しんの叫び声が響き渡った。


「やめて!!」


Sとエルフィの動きが一瞬止まる。しんの小さな体が、燃え盛る炎と濃い煙の中に浮かび上がった。


「……なんや、来たんか。」


Sは息を切らしながらも、僅かに笑みを浮かべる。しかしその表情には安堵と驚きが入り混じっていた。


「またお邪魔虫が増えたわね……。いいわ、纏めて燃やしてあげる!」


エルフィは聖杯を高く掲げ、燃え盛る炎をしんへと放とうとする。その動きがしんの瞳にスローモーションのように映った。


「う……っ!」


しんの意識が揺らぎ、足元がふらつく。視界が滲み、耳鳴りが頭の中で響き始めた。


――闇。


夜が植物園を包み込み、月明かりが分厚い雲に遮られた。



「ったく……無茶しやがって……」


低く、乾いた声がしんの唇から漏れた。その瞳がゆっくりと赤く輝き始める。


口元に浮かぶ薄い笑み、右手が僅かに震え、甲に刻まれた口が不気味な笑い声を漏らす。


「ヒィ……ヒィ……アハハハハ……」


「お前ぇ、また面倒事に首突っ込んだんだな。」


Sは息を吐きながら、銃を構え直す。


「お前さんが来たら百人力やわ。」


かくは顎をしゃくり、エルフィを見据える。


「よぉ、お嬢さん。お前、燃やすことしか能がないのか?」


「……黙れ!」


エルフィの顔が怒りに歪む。聖杯から再び炎が放たれ、植物園を灼熱の嵐が駆け抜けた。


かくは滑るように身をかわし、Sの銃弾がその隙間を縫うようにエルフィの聖杯へと向かう。


炎と弾丸、そして影が交錯するその瞬間――。


「ヒィ……ヒィ……アハハハハ……」


植物園には狂気じみた笑い声がこだまし、夜の闇がその光景をじっと見つめていた。



​───────


植物園の空気は紅蓮の炎に炙られ、息をするだけで喉が焼けるようだった。ガラス片が燃え盛る炎に照らされ、まるで無数の瞳が闇夜に瞬いているかのようだ。


エルフィは聖杯を掲げ、歯を食いしばりながらかくとSを見据える。白いローブが焦げ、髪が乱れ、血走った瞳には怒りと焦りが渦巻いていた。


「なんで……なんで、貴方たちは私の邪魔をするの……!?」


その言葉には怒りだけでなく、どこか震えるような弱さも滲んでいた。


かくはゆっくりと肩をすくめ、右手の甲が不気味に笑い声を漏らす。


「ヒィ……ヒィ……アハハハハ……」


「そりゃあ、お嬢さん。お前さんの炎が、ちょーっと熱すぎるからだよ。」


その一言に、エルフィの顔が歪む。彼女は怒りに駆られるように聖杯を握りしめ、再び炎を噴出させた。


「燃え尽きなさいッ!!」


灼熱の業火が空間を切り裂き、かくとSを飲み込もうと襲いかかる。


「そらっ!」


Sは直感的に体を投げ出し、炎の直撃を避けた。火の粉がコートに降りかかり、先程負った火傷が再び悲鳴を上げる。


「くっ……!」


苦痛に顔を歪めるS。その一方で、かくは炎の中に立ったままだった。


赤い瞳が炎をじっと見つめ、ゆっくりと足を踏み出す。その影は揺らめき、夜の闇に溶け込むかのようだった。


「お前、これで終わると思ってんのか?」


かくは息を吐き、煙の中からゆっくりと姿を現す。そのマントの裾は焦げ、肌に小さな火傷の痕が残っていた。


エルフィは息を切らしながら、聖杯を構え直す。


「どれだけ……どれだけ邪魔をすれば気が済むのよ……!」


その声は震え、怒りというよりも悲鳴に近かった。


Sが立ち上がり、火傷を負った肩を軽く叩く。


「嬢ちゃん、もうやめとき。あんた、もう勝てへんわ。」


その冷静な一言が、エルフィの中に小さな亀裂を生じさせる。


「私は……っ!」


エルフィは自分の拳を握り締め、涙が頬を伝う。彼女の瞳は歪み、月明かりがその涙を輝かせた。


「私は、神に選ばれた……。だから、神のために……異端者を燃やさなければならない……!」


彼女の叫びが夜空に響く。


「これは……私の役目なのよ!」


Sは彼女の姿を見つめ、ため息をついた。


「嬢ちゃん、誰かに言われたからやることなんか、本当の役目ちゃうで。」


エルフィはその言葉に目を見開く。Sの言葉は鋭く、しかし優しさが滲んでいた。


「やめて……黙れ……!」


聖杯が再び紅く輝き、炎がうねりを上げる。


だがその瞬間、かくがエルフィに向かって一直線に走り出した。


「おい、嬢ちゃん。」


その言葉に、エルフィの動きが止まる。


かくの赤い瞳が彼女を真っ直ぐに見据えた。


「お前、そいつを持ってるだけで、ずっと痛ぇんだろ?」


その問いに、エルフィは息を呑む。


「聖杯は……お前を救わねぇよ。」


かくの言葉が重く響いた。エルフィの手から僅かに力が抜け、聖杯がかすかに揺れる。


その瞬間、Sの銃声が夜を切り裂いた。


弾丸は聖杯の縁をかすめ、甲高い音を立てて砕ける。


エルフィはその場に崩れ落ち、聖杯が地面に転がる。紅い光が徐々に弱まり、植物園を包んでいた炎が少しずつ収まっていく。


Sは銃を下ろし、かくはゆっくりと立ち止まる。


「……終わったか?」


エルフィは地面に膝をつき、肩を震わせていた。その瞳には涙が溢れ、悔しさとも安堵とも取れる表情が浮かんでいる。


「私は……何をしていたの……」


その呟きは、誰にも届かなかった。


かくは振り返り、Sに軽く顎をしゃくった。


「おい、あの嬢ちゃん……どうするよ?」


Sはエルフィを見つめ、肩をすくめる。


「さて、嬢ちゃん。ここで終わりか、まだ続けるか――どっちや?」


エルフィは答えなかった。ただ、震える手で聖杯を掴んでいた。


​───────


東の空が僅かに明るみ始め、夜が終わりを迎えようとしていた。


かくはその光を見上げ、僅かに目を細める。


「あーあ、もう時間か。」


その言葉と共に、かくの赤い瞳がゆっくりと薄れていく。


身体が小さく震え、視線がぼやけ、夜の支配者は徐々に退場を始めた。


その場に残されたのは、弱々しく肩を揺らすしんの姿だった。


「僕……また、逃げて……」


Sはしんを見つめ、軽く頭を掻く。


「お前さん、逃げたんやない。ちゃんと戻ってきたんやろ?」


その言葉に、しんは小さく頷いた。





​───────​───────


太陽がゆっくりと昇り、木々の間から柔らかな光が差し込んでいた。空は淡いオレンジと青のグラデーションに染まり、鳥たちが新しい朝を告げるように鳴いている。


木々に囲まれた小さな空き地に、しん、夢現、鬼子の三人が座り込んでいた。焚き火の残り火がまだ微かに赤く燻り、冷えた朝の空気にわずかな温もりを残している。


しんは夢現をそっと寝かせ、ゆっくりと立ち上がった。鬼子は少し離れた木の根元に座り込み、長い黒髪を指で梳いている。その額の第三の目は閉じられ、何かをじっと考えているようだった。


「……夜が明けたね。」

しんが小さな声で呟く。


夢現は薄っすらと目を開け、ぼんやりとしんを見つめた。その瞳には微かな光が宿っているように見えたが、すぐに再び閉じられる。


鬼子はゆっくりと顔を上げ、しんに向き直る。第三の目は閉じたままだが、その二つの瞳には静かな決意が宿っていた。


「もう……行かなければならないんだろう?」

鬼子が低い声で尋ねる。


しんは小さく頷く。

「うん。僕たちは進まなきゃ。でも……鬼子さんも、一緒に来てくれる?」


その問いに鬼子はしばらく黙り込んだ。そして、ゆっくりと立ち上がり、しんと向かい合う。


「私は……記憶がない。でも、君たちといると……何か、懐かしいような、そんな気がする。」


しんは鬼子の言葉に微笑み、小さく頷いた。

「それでいいんだよ。今はそれで十分。」


​───────


三人はゆっくりと森の奥へと歩き出した。朝日が木漏れ日となって地面に降り注ぎ、草木の葉に小さな光の粒が踊る。


「……しん。」

鬼子が小さく呼びかける。


「ん?」

しんが振り向くと、鬼子は立ち止まり、鋭い視線で周囲を見回していた。


「誰か、来る。」


その言葉にしんは息を呑み、夢現の手を強く握った。木々の向こうから、金属が擦れる音と重い足音が聞こえてくる。


木々の隙間から数人のトラスト教会の追手が姿を現した。銀色の鎧に、十字架を象った紋章。彼らの目には感情はなく、ただ義務を遂行する意志だけが宿っている。


「異端者、発見。」

冷たい声が森に響く。


「囲め。」

リーダー格の男が短く命令すると、追手たちはしんたちを取り囲む。


「……戦うしかない。」

しんが呟く。その声は震えていたが、足はしっかりと地面に踏ん張っていた。


鬼子が一歩前に出る。第三の目がゆっくりと開き、その瞳には赤い光が宿る。


「下がって。」

彼女の声は低く、鋭い。


「君、一人で戦うつもり?」

しんが心配そうに尋ねるが、鬼子は振り返らない。


「私は……できることがある。」


追手の一人が前に出て、聖なる剣を振り下ろした。

だが、その刃は空を切る。


「っ——!」

鬼子が素早く敵の懐に入り込み、鋭い蹴りを放った。鎧の継ぎ目に正確に叩き込まれた一撃は、追手を地面に叩き伏せる。


「囲め!囲め!」

追手たちが次々に鬼子へと向かっていく。


鬼子は長い髪を振り乱しながら、素早く動き続ける。その蹴りと拳は正確無比で、次々と追手を無力化していった。


「……強い。」

しんはその姿に息を呑んだ。


だが、鬼子にも疲労が見え始める。肩で息をし、第三の目が微かに揺らいでいる。


「……僕も、行く!」

しんが叫び、地面に落ちていた木の枝を手に取った。


「下がって、しん!」

鬼子が鋭く叫ぶが、しんはその場を動かなかった。


「僕は……もう逃げたくない!君だけに全部任せたくない!」


その言葉に、鬼子の第三の目が一瞬揺れた。


「……分かった。」


​───────


しんと鬼子は背中合わせに立ち、追手たちを迎え撃った。


しんは必死に枝を振り回し、敵の隙を作る。鬼子はその隙を逃さず、次々と敵を倒していく。


「くっ……!」

しんは転びそうになりながらも、必死に立ち上がる。その姿を鬼子が一瞬だけ見つめた。


やがて最後の追手が地面に倒れ込み、静寂が森を包んだ。


「はぁ……はぁ……。」

鬼子は息を切らし、しんもその場にへたり込んだ。


「勝った……の?」

しんがかすれた声で呟く。


鬼子はゆっくりと立ち上がり、ふらつきながらも歩み寄る。


「……大丈夫。」

鬼子はしんの頭にそっと手を置いた。


「ありがとう、鬼子さん。」

しんが小さく呟く。


「私も……ありがとう。」



夢現はその様子をぼんやりと見つめていた。その目には、何か小さな感情の揺らぎが見えた気がした。


朝の光が三人を包み込む。森の向こうには、次へと続く道が待っている。

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