第8話『黎明の森』
静寂が支配する森の中、柔らかな朝日が木々の隙間からこぼれ落ちていた。草葉に残る露が光を反射し、細い霧がうっすらと漂っている。
森は、どこまでも穏やかで美しかった。しかし、その奥には何かを拒むような、見えない壁があるような気がする。
「……ここは、黎明の森……」
しんは呟いた。朝の光に照らされたその姿は、どこか頼りなく、それでも少しだけ前を向こうとしていた。
傍らには、ぼんやりとした瞳で空を見つめる少女——夢現が静かに立っている。
「君も……この森、怖くないの?」
少女は返事をしない。ただ、ゆっくりとしんの袖を掴んだ。
「……大丈夫、僕たちなら……きっと、大丈夫だよ。」
しんは自分に言い聞かせるように小さく呟いた。かくの姿はない。夜が明けたことで、しんが表に出てきた。
頼るべきもう一つの人格はいない——今は、しん自身が歩き出さなければならない。
二人はゆっくりと森の中を進んでいった。湿った土の匂いと葉擦れの音が耳に届く。
しかし、進むたびにしんの胸に違和感が広がる。
「……進んでいるはずなのに、同じ場所に戻ってきてる?」
周囲の木々は同じ形に見え、霧はより一層濃くなっている。遠くから鳥の鳴き声すら聞こえない。
不自然な静寂。しんの背筋に冷たい汗が流れる。
「戻ろう……一旦、戻ろう……」
しんは振り向くが、来た道がどこなのか分からなくなっていた。
木々は無数に並び、そのどれもが同じ形をしている。
「……やっぱり、僕じゃ……」
小さく震える手が袖を握りしめる。その時、少女が一歩、前に出た。
「……こっち。」
虚ろな瞳で森の奥を指差す。その指の先に、小さな光が見えた。
朝日よりも柔らかく、しかし確かな光。
「……君、分かるの?」
少女は小さく頷く。迷いのない足取りで、彼女はその光に向かって歩き始める。
「待って!僕も……!」
しんは慌てて彼女を追いかけた。
どれくらい歩いただろうか。二人の前に、ぽっかりと開けた小さな泉が現れた。
水面は鏡のように静かで、まるでそこだけ世界が切り取られたかのようだ。
「……綺麗だ。」
しんは呆然とその光景を見つめる。泉の中心には、一本の大きな樹が立っていた。
その幹にはまるで人の手のような模様が浮かび上がっている。
「……ここ、何か……違う。」
しんは無意識に泉に近づく。水面に映る自分の顔が揺らめく。
しかし、その背後——木々の影が微かに揺れた。
「誰か、いる……?」
しんは背後を振り返った。しかし、そこには何もいない。
風が吹き抜け、木の葉がふわりと舞うだけ。
「気のせい、かな……」
その時——。
「……そんなに慌てんでもええやろ?」
低く、しかしどこか柔らかな声が微かに届いた。風に紛れたその声は、どこからか分からない。
それでもしんの背筋に冷たいものが走る。
「誰……?」
返事はない。ただ、泉の水面がわずかに揺れた。
「ここ、何かおかしい……」
しんは息をのむ。何者かが、確かにこちらを見ている——そんな気配があった。
「……行こう、夢現。」
少女はぼんやりとしんを見つめる。彼女の目は、何かを悟ったかのように静かだった。
誰かが見ている。
その誰かは、ただじっと二人を見つめ、どこか愉しげに微笑んでいる——そんな気がした。
───────
夕闇が少しずつ降り始め、木々の影は伸び、道を見えなくさせていく。
わずかな光が少女——夢現の白髪に淡く反射し、しんの隣を歩く彼女の姿はまるで幻のように揺らめいていた。
森の中では時間の流れが曖昧だ。それでも、夜が近づいていることだけはわかる。
足元の枯葉が小さな音を立て、二人の進む道を僅かに示してくれる。
「……まだ、僕の時間だから。」
少女は何も言わず、ぼんやりと木々の向こうを見つめている。
彼女の瞳には映るものすべてが通り過ぎていくように見えた。
しばらく歩いた先に、ぽつりと小さな廃屋があった。
苔むした石造りの壁、壊れかけた屋根。扉は半分開き、今にも崩れ落ちそうだ。
「ここなら……少し休める、かな。」
しんは少女の手を引き、そっと扉を押した。
中は埃っぽく、古びた家具が無造作に散乱している。かつては誰かが住んでいたのだろう。
「座って、少し休もう。」
しんは少女を椅子に座らせ、自分も隣に腰を下ろした。
風が割れた窓から吹き込み、室内を少しだけ冷たくする。
「……君は、何を見ているの?」
しんは少女に問いかける。だが、少女は応えない。ただ、その瞳は遠くを見つめていた。
まるで、誰かを探しているかのように。
「僕には……わからないよ。でも、君を守りたいんだ。かくみたいにはなれないけれど、それでも……」
その言葉に少女は小さく瞬きをした。そして、僅かに唇を動かす。
「……眠い。」
その言葉にしんは微笑んだ。
「少し寝て。僕が、見てるから。」
少女はゆっくりと目を閉じ、椅子に体を預けた。
しんは少女の肩にそっと上着をかけ、自分は立ち上がった。
外はすっかり暗くなり、月が薄雲の向こうで輝いていた。
しんは廃屋の前で息を吐く。夜が来る。そうなれば、かくが出てくる時間だ。
「……今日は、少しだけ頑張れたかな。」
しんは小さく呟いた。そして、夜の帳が完全に下りた瞬間——。
「おいおい、そんな顔すんなよ。」
しんの体がかくへと切り替わる。
赤い瞳が月光を反射し、不気味な舌が口元から覗いた。右手の甲にある口は静かに閉じている。
かくは屋内を一瞥し、眠る少女を見つけると、その場に立ち尽くした。
彼の赤い瞳には、どこか複雑な光が宿っている。
「ったく……こんな頼りねぇガキが、よくもまぁここまで連れてきたもんだ。」
かくは少女に近づき、ゆっくりとその白い髪に手を伸ばした。
その手は不器用に、しかし優しく、彼女の頭を撫でる。
「……今だけは、ゆっくり眠っとけ。」
小さな言葉が宙に消える。
その夜、かくは窓辺に座り、外を見つめていた。
森の中には何かが潜んでいる気配がある。それは獣のような、それでいて冷たい気配だった。
「……なんか、いやーな感じだな。」
その時、遠くで何かが光った。
森の奥、暗闇の中にぼんやりと灯る光。かくの瞳が鋭く光る。
「おいおい、こりゃまた面倒事か?」
彼はため息をつき、立ち上がる。そして少女の方を一瞥した。
「ここからは、俺の時間だ。しっかり寝てろよ。」
マントを翻し、かくは夜の森へと消えていった。
森の奥へ進む。月光が彼の背を追いかけるように差し込んでいる。
そして、彼の前に現れたのは——古びた祭壇だった。
「ほう……こりゃ、随分と派手だな。」
祭壇の中央には青白い光を放つ何かが浮かんでいる。
その光は静かに脈打ち、森の木々を揺らしている。
「……なんだ、これは?」
かくはゆっくりと光に近づく。だが、その瞬間——。
「止まりなさい。」
凛とした声が闇を裂いた。
かくは振り返る。そこには、白い司祭服を纏った女性が立っていた。
「……あんた、教会の……」
彼女は冷たい瞳でかくを見つめ、手に持った盃をゆっくりと掲げる。
「私はエルフィ。大司教、エルフィ・ブラッドローズ。
この場所は、神聖な場所。異端者が踏み入ることは許されない。」
盃の中には赤い液体——それが不気味に揺れている。
かくは舌打ちをし、片手を広げる。
「へぇ……神聖な場所ねぇ。お高く止まった連中が言いそうなことだ。」
エルフィの瞳が鋭く光る。
「異端者に慈悲はないわ。ここで、浄化されなさい。」
盃が輝き、炎がかくを包み込もうとする。
かくは飛び退き、ニヤリと口角を上げた。
「面白ぇ……舞台は揃った、って感じか?」
二人の間に緊張が走る。
青白い光が二人の影を引き伸ばし、森は再び静寂に包まれる。
夜の森は静かに、しかし不穏に揺れていた。
月明かりがかくの赤い瞳を照らし、エルフィの盃に宿る赤い炎が森の空気を焼き尽くすように揺らめいている。
「夜の異形よ。あなたの存在は神の御名に背く冒涜——」
エルフィの声は冷たく、澄み切っていた。
彼女が掲げる
「痛ぇな、オイ……その盃、ずいぶんと物騒な代物じゃねぇか」
かくは右手の甲を振り、舌打ちをする。
彼の鋭い瞳がエルフィを見据えるが、彼女は微動だにしない。
「神の光はすべてを浄化する。それがこの盃の力——異形も、人も、同じ。」
盃に溜まった赤い液体が溢れ出し、地面に垂れると瞬時に炎へと変わる。
その炎は蛇のようにうねり、かくへと向かってきた。
「チッ、面倒くせぇな!」
かくは素早く飛び退き、炎を回避する。
彼のマントの端が燃え、焦げた煙が夜空に溶けていく。
エルフィは一歩、また一歩と前に進み、盃を掲げる。
その度に赤い炎が森を這い、木々を焼いていく。
「お前ら教会の連中は、ほんとに性質が悪いぜ……!」
かくは低く唸り、マントを翻す。
次の瞬間、彼の姿は闇に溶けるように消えた。
「——消えた?」
エルフィが周囲を見回す。その瞬間——。
「上だよ、お嬢さん!」
かくは木の枝から飛び降り、エルフィへ向かって一直線に突進する。
エルフィは盃を振り上げ、赤い炎が防壁のように広がる。
「そんなもんで——!」
かくは炎を避けるように側面へ飛び、エルフィの懐に踏み込む。
鋭い視線を交わし、かくはエルフィの盃に伸ばした手を止める。
「クッ——!」
エルフィは間一髪で後退し、かくとの距離を取った。
だが、その一瞬の交錯で盃の液体がかくの左腕にかかる。
「ぐっ……!」
ジュッという音が夜の静寂に響き、かくは歯を食いしばる。
炎の液体が皮膚を焼き、痛みが腕を貫く。
「逃げ場はないわ。あなたがどれだけ足掻こうと、神の光はすべてを照らす。」
エルフィの目は冷たく光り、まるで断罪者のようだった。
かくは焼け焦げた左腕を見つめ、笑みを浮かべる。
「ははっ、面白ぇ……!」
その時、遠くから微かな声が聞こえた。
「……かく……!」
かくとエルフィが同時にその声の方向を見た。
そこには、ぼんやりと立つ少女——夢現の姿があった。
「おい、ここに来るんじゃねぇ!」
かくが声を上げるが、夢現は足を引きずりながら二人に近づいてくる。
その瞳には焦点が合わず、虚ろなままだ。
「何をしているの……?」
エルフィは盃を下げ、少女を見つめる。
その瞳には一瞬の迷いが浮かぶ。
「その子に手を出すなよ、司教さん。」
かくの声には鋭い警告が含まれていた。
しかしエルフィは盃を掲げることなく、夢現に向かってゆっくりと歩み寄る。
「あなたは……何者なの?」
エルフィの問いに、少女は何も答えない。
ただ、彼女の周囲に小さな光が揺らめき始める。
「これは……異質の力?」
エルフィの顔に緊張が走る。
夢現の周囲に揺れる光は、まるで霧のように周囲の空間を歪ませ始めた。
「これは……っ!」
かくが息を呑む。エルフィが盃を掲げようとしたその瞬間——。
「やめて……」
少女の小さな声が、二人の動きを止めた。
「お願いだから、やめて……」
その声には、かすかだが確かな意思が宿っていた。
夢現の瞳が一瞬、しっかりとエルフィを見つめる。
「……何が起きているの?」
エルフィの手が震える。
盃の中の炎がかすかに揺らぎ、エルフィの表情に動揺が浮かぶ。
「これは……違う。これは、神の……」
その言葉の続きを言えないまま、エルフィは盃を下げる。
かくはその隙を見逃さなかった。
「今だ!」
かくは夢現を抱きかかえ、炎の歪みの隙間を突き抜けるように走り出す。
「待ちなさい!」
エルフィの叫び声が夜の森に響いた。
だが、かくは少女を抱えたまま闇の中へと消えていった。
森の奥深く、かくはようやく足を止めた。
少女は彼の腕の中で震えている。
「無茶すんなよ……お前は、戦うなんざ向いてねぇんだから。」
かくは少女をそっと下ろし、その白い髪を撫でた。
彼女の瞳は再び虚ろになり、言葉を紡ぐことはなかった。
「……お前は、何を知ってるんだ?」
かくは小さく呟き、夜空を見上げる。
月は冷たく輝き、森を静かに照らしていた。
───────
夜の帳が薄れ、黎明の光が静かに森を照らし始める。
樹々の間から柔らかな陽光が差し込み、朝露がきらめく。
その光の中、木の根元にうずくまる小さな影——しんの姿があった。
しんは重いまぶたをゆっくりと開き、息を吸い込む。
「……僕、戻った……?」
淡い光が、彼の蒼白な顔と、震える細い肩を照らす。
腕には酷く焼け焦げた跡が残っており、少し動かすだけで鋭い痛みが走った。
「っ……あ……」
しんは痛みで顔を歪め、震える手で左腕を押さえた。
赤く焼けただれた皮膚が袖に貼り付き、動かすたびに鈍い痛みが響く。
「かく……ひどい怪我……」
小さな声で呟くが、返事はない。
夜の人格は、夜が終わると共に静かに姿を消している。
しかし、しんには微かな記憶が残っていた。
——夜の間にかくが戦ったこと。
——自分を守ってくれたこと。
——そして、少女を守り抜いたこと。
その隣には白髪の少女が、まるで眠るように木の根元に座り込んでいる。
彼女の瞳は半開きで、どこか遠くを見つめていた。
「……君、大丈夫?」
しんは震える指先で少女の頬に触れる。
彼女は小さく瞬きをし、ぼんやりとしんの顔を見つめた。
「こわい……」
その言葉は、かすかに震えていた。
しんの胸に鋭い痛みが走る。
「もう大丈夫……怖くないよ。僕が、僕が君を守るから……」
彼の声は弱々しかったが、その中には小さな覚悟が滲んでいた。
二人は森の中をゆっくりと歩き始めた。
しんは少女の手をしっかりと握りしめ、時折振り返りながら先を進む。
木々の間から漏れる光が二人の影を引きずる。
「この森、なんだか……変だ……」
しんは息を呑み、辺りを見回す。
霧が立ち込め始め、視界が曖昧になっていく。
その時——遠くから、微かに鈴の音が聞こえた。
チリン……チリン……
「な、なんだろう……?」
少女が小さく震える。
その白い髪が霧の中でぼんやりと輝いた。
「しん……」
「大丈夫。何も怖くないよ」
しんは少女の手を強く握りしめる。
しかし、次の瞬間——。
「やぁ、こんにちは!」
唐突に明るい声が森に響いた。
霧の中から、小柄な影が現れる。
縫い目だらけの道化服、歪な道化帽、左右で色の違う瞳。
「ねぇ、二人とも、どうしてそんなに怖がってるの?」
しんは反射的に少女を庇うように立ちはだかった。
「君は……誰?」
「ボク?ボクはただの旅の道化さ。ほら、見てよ!」
道化は細い指先で光る糸を器用に操り、宙にふわりと浮かせた。
「ふふっ、綺麗でしょ?この糸、すっごく丈夫なんだ!」
その言葉とは裏腹に、糸が木の枝に触れると、音もなく切断された。
その光景に、しんは息を呑む。
「ひっ……」
道化はニコニコと笑いながら、糸を指先で弄んでいる。
その姿は、どこか無邪気で、どこか狂気的だった。
「ねぇねぇ、二人とも。遊ぼうよ?楽しいよ、きっとさ!」
「……逃げよう!」
しんは少女の手を引き、霧の中へと駆け出した。
道化の笑い声が森に響く。
「待って待って!走っちゃダメだよ!危ないからねぇ♪」
背後から聞こえるその声は、どこか遠く、どこか近く。
糸が次々と樹木を切り裂き、二人の背後に迫る。
「痛っ……!」
しんは左腕の痛みに顔を歪めるが、それでも足を止めなかった。
少女は彼の手を握り返し、小さな声で何か呟いている。
「こわい……」
「もう少し……もう少しで……!」
木々の間を縫うように走り続ける二人。
その先に、薄く光が差す出口のような場所が見えた。
「もう少し、もう少し……!」
道化の声がすぐ背後まで迫ってくる。
「ふふっ、逃げ足はやいねぇ!でも、ボクの糸からは逃げられないよ!」
その瞬間、糸がしんの足首に絡みついた。
「あっ——!」
「……っ!」
しんは前のめりに倒れ込み、少女も地面に転がった。
糸が絡まり、二人は動けなくなる。
「ふぅん……捕まえちゃった♪」
道化はゆっくりと霧の中から姿を現す。
小柄な体、左右色の違う瞳、無邪気な笑顔。
「さて、どうしようかなぁ。二人とも、すごく楽しそうな顔してるね!」
しんは歯を食いしばりながら、少女を庇うように体を丸めた。
「お願い……彼女には手を出さないで……!」
道化はしばらくしんを見つめていたが、やがてふっと笑った。
「……ううん、今日はもう終わり。続きは、また今度にしよっか♪」
そう言い残すと、道化は糸を緩め、霧の中へと消えていった。
その笑い声だけが、森に木霊している。
───────
二人はしばらくその場で息を整えていた。
しんは震える手で少女を抱きしめ、小さく呟く。
「ごめん……守れなくて……」
少女はしんの胸に顔を埋め、小さく震えている。
朝の光が森を照らし、二人を優しく包み込んでいた。
───────
乾いた風が吹き抜ける荒廃した街道。大地にはひび割れが広がり、遠くには崩れかけた建物の影が並んでいる。太陽は薄雲に覆われ、どこか頼りない光を投げかけていた。
「……大丈夫?」
しんは夢現の手を引きながら、慎重に足元を確かめる。夢現はぼんやりと前を見つめ、返事の代わりに小さく瞬きをするだけだった。
「ふぅ……もう少し休んだ方がいいかな……」
しんが立ち止まり、石の影に座り込もうとしたその瞬間——。
「おーっと、そこ!もうちょい右寄ってくれへん?」
どこか軽薄な声が空気を裂いた。
しんはハッと顔を上げる。廃墟の上に、片手をひらひらと振る男の姿があった。
「S……君……?」
風に揺れる黒いコート。肩から下がった武器の影。彼の顔にはいつもの軽薄な笑みが浮かんでいた。
「いやぁ、こんなとこで会えるとは奇遇やなぁ。あんた、ホンマに運がええんか悪いんか……」
Sは軽やかに廃墟から飛び降り、しんの前に着地する。その瞬間、夢現が小さく身をすくめた。
「S君、どうしてここに……?」
「さぁなぁ。俺も仕事中や。ついでに言うと、あんたらには用事ない。安心しぃな。」
Sはポケットに手を突っ込み、ひょいっと肩をすくめてみせる。その口元にはいつもの軽薄な笑みが浮かんでいるが、その瞳は妙に鋭く、しんと夢現をじっと見つめていた。
「……また、僕たちを見張ってるの?」
「見張ってる?そない人聞きの悪い言い方せんといてや。オレはただ――」
Sが言葉を切り、泉の水面をじっと見つめる。水面にはSの顔と、夕闇に沈む二人の影が揺れて映っていた。
「……まぁ、ちょっと興味が湧いただけや。」
「興味?」
「そや。ヒューマノイドの君らが、ここまでしぶとく生き延びてるんや。そこにはなんか理由があるんやろ?」
しんはぎゅっと夢現の手を握りしめる。
「理由なんて……ないよ。僕たちはただ、生きるために……逃げてるだけ。」
Sはその言葉にふっと鼻で笑い、泉のほとりにしゃがみこんだ。
「それがほんまやったら、もっと楽に生きられんのになぁ。」
Sの言葉はどこか皮肉めいているようで、それでいて寂しさのようなものも滲んでいた。
「S……君は、なんで執行人なんかやってるの?」
「なんで、か――」
Sは立ち上がり、頭を掻きながらしんに向き直る。
「さぁな。オレにもようわからん。金が欲しかっただけやったんか、それとも――」
Sは言葉を切り、遠くを見る。その目にはどこか深い闇が宿っているようだった。
「ま、そんなことはどうでもええわ。」
Sはポケットから何かを取り出し、しんに向かって軽く放り投げた。それは小さな布切れに包まれた乾パンだった。
「ほれ、腹減ってるんやろ。遠慮せんと食いな。」
「え……?」
しんは乾パンを手に取り、Sを見つめる。
「……なんで、こんなこと……。」
「気まぐれや。オレの気まぐれ。」
Sは軽く手を振り、背を向ける。その足取りは軽やかで、まるで風のようだった。
「おい、お嬢ちゃん。」
Sは去り際に、夢現の方をちらりと振り返った。
「お前も、しっかり坊やを守ったれよ。」
夢現はSの言葉に何も返さず、ただぼんやりとSを見つめていた。
「ほな、またな。」
Sは木々の影に紛れるようにして消えていった。
「S君……。」
しんは乾パンを握りしめながら、Sが消えていった方向を見つめ続けた。
「僕たち……なんで、助けてもらえたんだろう。」
風が静かに泉の水面を揺らし、夜の帳が二人を包み込んだ。
「……もう少しだけ、ここで休もう。」
しんは夢現の肩にそっと自分の肩を寄せた。二人の影が月明かりに照らされ、泉の水面に揺れて映っていた。
──夜は、まだ終わらない。
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