第1話【疎まれし眼】
ふと、ルカは熱い視線を感じて目を覚ました。
夜明け前、薄暗い部屋の隅に人影が見える。
しかし、そこには誰もいなかった。
「またか……」
ルカは溜息をつきながら布団から這い出した。
川での出来事から三ヶ月が経ち、この"気配"を感じることが増えていた。
だがはっきりとは見えるわけではない。
時折、人の形をした影のようなものが視界の端を横切る程度。
(頭がどうかしちゃったのかな……)
冷たい水で顔を洗い、貫頭衣を被って帯を締める。
ルカは早朝から村の共同畑の手入れを手伝うことになっていた。
台所から、父・トーマスの重い足音が響いてきた。
村の皮革職人を営む彼は、いつものように早起きして工房の準備をしている。
「ルカ、もう起きたのか」
がっしりとした体格に厳格そうな顔立ちだが、息子には優しい男だった。
「うん、畑の手伝いがあるから」
「そうか……」
父の表情が一瞬曇る。
最近、村での息子の立場を案じているのがわかった。
「おはよう、ルカ」
母・マリーが奥の部屋から現れた。
亜麻色の髪を三つ編みにした穏やかな女性で、村の薬草師としても知られている。
「体調はどう? 変な夢は見てない?」
心配そうに息子の額に手を当てる母。
川での一件以来、ルカの様子を注意深く見守っていた。
「大丈夫だよ」
「そう……でも何かあったら、すぐに言いなさい」
朝食を済ませ、外に出ると、まだ星が残る空の下、すでに何人かの村人が作業を始めていた。
中でも目立つのは、赤い髪を束ねたミーナの姿だ。
「おはよう、ルカ!」
いつもと変わらない明るい声で手を振る幼馴染に、ルカは小さく頷いて応えた。
川での一件以来、ミーナは以前にも増して優しく接してくれる。
しかし、その分、周囲の目が気になっていた。
「ルカ、西の区画の草取りを頼む」
畑の管理を任されているマルコおじさんが声をかけてきた。
表情は柔らかいものの、どこか警戒するような目つきをルカへと向けていた。
「うん」
黙々と作業に取り掛かるルカ。
――しかし、その手が突然止まった。
背筋が凍るような寒気が走る。
振り返ると、納屋の陰に黒い影が見えた。
その影が、ゆっくりと――
ミーナの方へと近づいていっていた。
「危ない!」
咄嗟にミーナの腕を掴んで引っ張る。
同時に、彼女が立っていた場所に重い木の枝が落下した。
古い木の枝が突然折れたのだ。
「きゃっ!」
「大丈夫か!?」
「ミーナ!」
村人たちが駆け寄ってくる。
ミーナは驚いた表情を浮かべながらも、怪我はなかった。
「ルカ……どうしていつもわかるの……?」
困惑したように問いかけるミーナ。
ただ、黒い影が見えた、なんて説明できるはずもない。
「な、なんとなく……」
その曖昧な返事に、周囲の視線が一層厳しさを増す。
昔から気難しい性格だったマルコおじさんは、眉をひそめながら呟いた。
「まるで予知でもしたかのような……不気味な……」
その言葉は、作業をしていた村人たちの間に確実に広がっていった。
***
それから数週間が過ぎ、似たような出来事が度々起こるようになった。
井戸に落ちそうになった子供を引き戻したり。
崩れかけた塀の前から人々を退かせたり。
橋や屋根が落ちる瞬間を指摘したり。
ルカの不思議な予知は、確かに村人たちの命を救っていた。
しかし、人々の反応は複雑だった。
「ありがとう」という言葉の裏に、恐れの色が見えるようになっていく。
道で出会っても、以前のように気さくに話しかけてくる村人は減っていった。
特に痛かったのは、親友だったトビアスの反応だった。
「悪いけど、しばらく距離を置かせてくれないか?」
ある日、トビアスがルカに告げた。
「親が、お前と一緒にいるのは良くないって…」
ルカは黙って頷くしかなかった。
反論する言葉が見つからなかった。
確かに、最近は自分でも自分が怖くなることがある。
(もし僕がトビアスでも、きっと同じ対応をするだろうし……)
夜、部屋で一人になると、より多くの"気配"を感じるようになっていた。
時には、はっきりとした人の形をした影が部屋の中を歩き回ることもある。
そんな時、ルカは布団に潜り込んで、朝が来るのを待った。
唯一の救いは、ミーナの存在だった。
彼女だけは変わらず、ルカに寄り添ってくれた。
「私、ルカのことを信じてる」
ミーナはいつもそう言って、ルカに優しく微笑んだ。
しかし、その優しさが、逆にルカを苦しめることもあった。
村での評判は日に日に悪化していく。
ミーナの両親までもが、娘に対してルカと距離を置くよう諭すようになった。
***
夕食の時間。
いつもなら家族の団らんの時だが、最近は重い沈黙が食卓を支配していた。
「ルカ」
父のトーマスが、重い口を開いた。
「村で……変な噂が立っているようだが」
スプーンを持つルカの手が止まる。
「父さん……」
「お前に何か特別な力があるって話だ。本当なのか?」
母のマリーが心配そうにルカを見つめている。
「……わからない」
ルカは正直に答えた。
「でも、時々、危険を察知できるような気がする」
父は深くため息をついた。
「ルカ、お前は俺たちの大切な息子だ。それは変わらない」
「でも、村の人たちには理解してもらえないかもしれないわね」
母が悲しそうに続けた。
「人は、理解できないものを恐れるの」
両親の愛情を感じながらも、ルカは自分が家族にも重荷をかけていることを理解していた。
父の工房に来る客が減り、母への薬草の依頼も少なくなってきている。
村での一家の立場が、息子のせいで悪化しているのだ。
「お前のせいじゃない」
父が言った。
「でも……」
そのまま、言葉が続かなかった。
家族でさえ、この問題にどう向き合えばいいのかわからずにいる。
***
そして、事態が決定的に変わった事件が起きた。
それは収穫祭の前日のことだった。
村の広場に祭りの準備のため、多くの村人が集まっていた。
ルカも手伝いに加わり、提灯を吊るす作業を行っていた。
「!!?」
その時、ルカの背筋に突然の寒気が走った。
今までで最も強い"気配"。
振り返ると、広場の中央にポツンと巨大な影が立っていた。
それは人の形をしているものの、顔の部分が歪だった。
枯れ木のように細い胴と人にはありえない数の腕。
異様に大きい頭部には、縦に走る亀裂のような口と、無数の目が蠢いていた。
【影】は次第にその腕を伸ばし、広場全体を覆いそうになっていく。
伸びた腕から見下ろしてくる蠢く瞳から、ボタボタと血の滴が滴り落ちてくる。
同時に、設置したばかりの提灯が不自然に揺れ始めた。
「みんな、逃げて!」
ルカは思わず叫んでいた。
しかし、村人たちは困惑した表情を浮かべるだけだ。
彼らには、迫り来る危険が見えていない。
「また始まった……」
「あいつ、何を騒いでいるんだ?」
「気味が悪い……」
囁きが広場に広がる。
その時、大きな音を立てて提灯の支柱が折れた。
重たい木の柱が村人たちめがけて倒れかかる。
「危ない!」
ルカは反射的に、近くにいた人々を突き飛ばした。
柱は地面に激突し、提灯が砕け散る。
幸い、大きな怪我人は出なかった。
しかし――
「お前が呪いをかけたんだろう!」
年配の村人が叫んだ。
その声に、他の村人たちも同調し始める。
「あいつが何か言うようになって、変なことばかり起きている!」
「不吉なことが多すぎる!」
「厄病神だ!」
怒号が飛び交う中、ルカの父親が人垣を掻き分けて進み出てきた。
その後ろに、顔を青くした母の姿も見える。
「息子を侮辱するのはやめろ!」
父が声を荒げる。
「トーマス、あんたも災難だな」
「息子があんなだと、商売にも響くだろう」
村人たちの心ない言葉に、母が涙を浮かべた。
「やめてください……ルカは何も悪いことはしていません」
母が震え声で抗議する。
しかし、村人たちの怒りは収まらない。
そこに村の長老が現れた。
長老は険しい表情でルカを見つめ、重々しく口を開いた。
「トーマス、息子を連れて帰れ」
「長老……」
「当分の間、祭りや集まりには参加させるな」
実質的な村八分宣言だった。
父の拳が震え、母が嗚咽を押し殺している。
「父さん……母さん……」
ルカが小さく呟いた時、父がついに口を開いた。
「ルカ……今後は納屋で過ごしてくれ」
その言葉に、ルカの心が凍りついた。
自分の息子を、家から追い出す。
それほどまでに、事態は深刻になっていたのだ。
「……わかった」
強く拳を握りながら、そう短く答えて、ルカは群衆の中から抜け出した。
背後で「そうだ、隔離しろ!」という声がルカの背を容赦なく叩く。
ミーナの呼び止める叫びが聞こえた。
それでも、ルカは振り返らなかった。
***
その夜、納屋に移ったルカのもとに、両親がそっと食事を運んできた。
「ルカ……」
母が涙声で呼びかける。
「済まない」
父が頭を下げた。
「俺が……俺がもっとしっかりしていれば……」
「父さんのせいじゃない」
ルカは首を振った。
「僕が、変だから」
「あなたは何も悪くない」
母が優しく言った。
「でも……このままじゃ、この村にはいられないかもしれない」
三人とも、その現実を受け入れるしかなかった。
家族の絆は変わらないが、村という共同体からの排斥は現実として進行している。
「もう少し様子を見よう」
父が言った。
「それで駄目なら……」
言葉は途中で途切れた。
しかし、その先にある選択肢を、三人とも理解していた。
夜、納屋で一人横たわりながら、ルカは天井を見つめていた。
暗がりの中で、いつもの"気配"がより強く感じられる。
しかし、今のルカにとってそれすら慰めのように思えた。
(少なくとも"彼ら"は、僕を怖がったり、忌み嫌ったりしない……)
窓の外では、満月が静かに輝いている。
その光の中で、ルカは決意を固めていた。
もうこの村に居続けることはできないと、ルカは悟った。
結局、何をやっても無駄だった。
自分の存在が周囲の人々を苦しめてしまう現実に、ルカは涙を浮かべた。
そして遠くない未来、自分に向けられるミーナの怯えた目を、ルカは恐れた。
(明日になったら、荷物をまとめて旅に出よう……)
どこかに、自分のような者を受け入れてくれる場所があるはずだ。
そう考えていた矢先――
ルカの全身に悪寒が走った。
今までに感じたことのない、底知れない恐怖。
冷めた月光を浴びて、それは村の広場に蠢いていた――
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