01:おなかがすいた。

 この世界にはまだ世界地図なるものは存在しないが、もしティガー大陸の地図を広げたならば、縦に長いティガー大陸の中央付近にある”くびれ”が目を引くはずだ。

 その細くくびれた陸地の上には非常に高く険しい山脈が横断しており、その急峻な山々の境にできた渓谷が1000年ほどの時間をかけ、くびれの中央に緩やかな傾斜の扇状地を形成した。

 この地が人類史で初めて脚光を浴びたのは今からおよそ500年前。ティガー大陸の北からアークウィル王国、南からセドラフ王国が競うように領地を広げていた時代のことだ。

 この地に入植したのはアークウィル王国で、扇状地を利用した強固な砦を築いた。砦の名前は、先住していた遊牧民たちが以前からこの地を「クロスヴェイン地方」と呼んでいたことから、「クロスヴェイン砦」となった。

 砦は長きにわたり南方からの侵略を食い止める最前線として活躍してきたが、やがて戦の時代が終焉を迎えると、南北の交易の玄関口として商人たちが集まるようになった。それがやがて村へ、街へと徐々に発展していき、ついにはアークウィル王家が国の重要貿易拠点として王族を領主に据える、現代の「城塞都市クロスヴェイン」へと成長したのである。


 そんな歴史を持つ城塞都市クロスヴェインは扇の要に当たる場所に城が築かれており、その南側は城塞都市、北側は広大な森林地帯になっている。

 この森には日頃から街の住人が薪や収集や山菜の採集、小動物の狩りなどの用途で頻繁に立ち入るため、クロスヴェイン騎士団が定期的に巡回し危険な動物や魔獣は駆除されている。しかし太陽は地平線に沈み、正にこれから夜のとばりが下りようとしている森は近寄りがたい闇を湛えていた。


 その森の入口に、1匹の子犬が姿を現す。

 ”逢魔おうまとき”などという表現がよく似合う森の奥を見据えている子犬の足は、少し震えていた。それが未知の森への恐怖なのか、はたまた別の理由なのか……。


(うぅ。お腹空いた……)


 そう、彼女は空腹だった。逢魔が刻の森なんて自分に牙をむいて向かってくる魔獣に比べたら何も怖くないことを前世の記憶で知っていた。

 何とか火災現場からは遠ざかれたものの、小さな身体は空腹と疲労により余力が尽きかけている。しかしここで腰を落ち着けてしまうと、あとは衰弱していく未来しか見えない。

 彼女は気力を振り絞り、食糧確保のため森へ足を踏み入れた。


 目立つ馬車道を敢えて避け、視界のほとんどない杣道そまみちを鼻を頼りにしばらく歩いていくと、ようやく煙の臭いの範囲から離れられた。

 立ち止まって嗅覚に神経を集中する。最優先で把握したいのは食べ物……といきたいけど、まずは肉食動物てんてきの匂いが先だ。

 森の浅い地域であれば、キツネやオオカミ、ヘビあたりが危険な候補に挙がる。だが付近にそれらの匂いはなく、ネズミやイタチ、ウサギといった”捕食される側”の匂いがする。つまり肉食動物はこの付近にあまり出没しないのだろうと推測できた。

 あとは猛禽類にも注意が必要だけど、杣道を歩いているのはその対策のためのルート選択だし、近くであれだけ煙が出ていれば鳥たちは遠くへ避難しているに違いない。

 慎重に歩いていると、微風に乗って甘酸っぱい香りが鼻先をかすめた。立ち止まって匂いの元を探す。暗くて視認は難しいが、おそらく頭上2メートルほどの枝先に果実が実っているのが匂いから判断できた。

 しかし子犬の身でその場所に届かないのは、考えるまでもない。


(そういえば、ずっと前にもこうして見上げたことがあったっけ……)

 人間だった頃も小柄な体格だったため、高い場所に実った果実を今と同じ気持ちで見上げた遠い日の記憶を思い出す。

 でもあの頃は、手が届かなくても果実を落とせた。


(私には魔法があったから…………ん? ……ま、ほう?)


 そうだった! 私には魔法があった。なぜ今まで忘れていたんだろう。

(でも、この身体でも出せる……?)

 まるでを一瞬覚えたけど、今はそれよりも自分の奥底から湧き上がる記憶に思考を委ねた。

 それはこの身が人間だった頃――幼き日の自分が初めて風切ウインドの魔法を教わった日。

 長らく忘れていた、私に魔法の基礎を教えてくれた先生の静かな声が耳元によみがえる。


「これから教える風切ウインドは正式な弟子にのみ伝承される秘訣があるので、これをみだりに他人へ教えることを禁じます。分かったね?」


 そんな前置きで、先生から最初の魔法を教えてもらったのは生前の彼女が4歳の頃だった。魔法教本で説明されている通常の疾風ウインドとは異なり、手元で作った風の刃を飛ばす魔法ではなかった。

 風系の攻撃魔法は目に見えないため有効に思えるが、強い横風には流されやすく、また速度を増すほど大きな風切り音が出るという欠点がある。

 つまり後出しの強風魔法で簡単に方向を逸らされてしまうし、野生動物や魔獣にも音で回避されやすい。

 しかし彼女が伝承された特別な風切ウインドはどんな相手でもほぼ命中した。そのため彼女が生前に最も研究した魔法のひとつだった。


 覚えたての頃の感覚を辿るように、私は視線の先の一点へ集中力を高める。

 大気が円運動を起こして糸を紡ぐように集まり、中空の円盤を形成し始める。それは例えるなら糸のこを円にしたような形で、習得時は大雑把に、上達と共に徐々に薄く、細く、それでいて硬度を保ちつつ、高速で回転させる。

 この魔法は飛ばすのではなく狙った場所で発生させるため、回避は不可能。ただしとんでもなく難易度は高いため、この魔法ひとつに数年の熟練を必要とした。


 発動した風切ウインドは暗がりで座標は若干定まらなかったが、円周に巻き込んだ周囲の枝葉と一緒に、赤く熟した果実を落とすことに成功した。


(わはー♪ いただきまーす)

 私は地面に転がる果実の香りを胸いっぱいに吸い込んでから、その果実をシャリッとひと口かじる。

 いつか食べたことのある、みずみずしい甘味と酸味が口の中に広がった瞬間――。 


 私の意識の中で何かが解放された。

 フィードバックの瞬間は長い時間のようにも、ほんの一瞬だったようにも感じた。

 脳裏を駆け巡る情報量に、私はまるで酩酊したかのような感覚に陥りきつく目を閉じた。数えきれないほどの研究と実験、その試行錯誤の集大成が私の中で再構築されていく……。


 閉じていた目を開けたときには、私の魔法の大部分を取り戻していた。

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