歯をみがく

歩夢

 歯磨きをしている時、私は言葉を選んでいない。


 他の人がどうしているか知らないが、私の頭の中は歯磨きの時、あり得ないくらい忙しく立ち働いている。あっちへ荷物を運び、検品をして、どこかの誰かが謝っている。ペコペコ謝る誰かの折れた背中を横目に、私は考え事に耽るのだった。


 ねえ、この目の前の美人さんは誰? 最近買ったミント風味の歯磨き粉が、どうにもしつこい味で、おまけにうざいくらいに泡が立つ。おかげで口の中は唾液と泡まみれだ。曇った鏡の向こうに映る美人さんも、不思議とそのせいで不機嫌にも見える。


 口をゆすいで、水と一緒に吐く。人生で一番鏡を見ている時間。化粧をしない私は、多分今が一番自分自身と向き合っている。目と目が合って、透明な膜を通した向こうの世界の私は、何かを私にずっと訴えかけてきている。


 後ろを見ちゃダメよ、君。


 私は、タオルで口を拭った後、後ろを振り返らずに、自分の部屋へと戻っていった。特に何かが起こる訳でもない、自分の部屋へ。若さと好奇心とを持て余した、想像と一過性の快楽とが去来する秘密の場所へと。


 学校鞄はいつ持っても重い。私は既に知っている。学校なんて、本当はもう行かなくてもいいのだと。禿げ頭の小さなおじさんの話も、友達のフリしたどこかの誰かさんのする話なんて、別に聞かなくてもいいのだと。


 それでも行く気になってしまうのは、私が人生に、歯磨きによって、何かを促されている気がするからだろう。


 ねえ、君。外で魔法を作ってはいけないよ。


 あの時、青に支配された教室の中で、そう言った青年は、今はどうしているのだろう? 青い空が緻密に美しく描かれたキャンバスが、彼の背中を優しく照らし出していた。私は彼にそう言われ、黙って教室を去り、トイレへと逃げ込んでいた。


 それ以来あの青年とは会ってはいない。


 そういえば、私はあの時から、辛い時に歯磨きをするようになったのかもしれない。


 あの青年と再び会えるかもしれないと、信じていて。

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歯をみがく 歩夢 @pallahaxi

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