シャンベルタンの杯
神田 るふ
シャンベルタンの杯
ついに我が友人、否、悪友が狂った。
元から狂っていなかったのが可笑しいくらいだが、とうとう妖怪めいた脳が溶解したらしい。
まあ、この友人、否、悪友のおかげで俺は元カノの真己と寄りを戻し、ラブラブモード第二ラウンドを経験することができたのだから、多少の恩は感じてはいる。
だが、狂人の面倒を死ぬまで見るつもりはない。
さらば友よ、否、悪友よ。
お前のことは、たぶん、三か月くらいは忘れな……。
「何をぶつぶつ言っとるんだ、和多さん」
うお!意識が戻ってきやがった!
黒いシャツに黒いパンツ。
全身真っ黒にコーディネートされた異様な姿の悪友、天津奇常の顔が、いつの間にか目の前にあった。衣服は黒いが男か女か判別しがたい顔の色は死人のように真っ白で、まるで生気を感じさせないくせに、表情は子供のようにころころ変わる。そのギャップが、何時も何かと腹立たしい。
「その表情から察するに、また愚にもつかないことを考えていたな、和多さん。少しは食べた食事と酸素を有効に使いたまえ。君も持続可能な社会の一員として貢献すべきだ」
「やかましいわ!お前こそ、一日の大半を読書に使ってるじゃねえか!しかも、読む本ときたら民俗学だの神話学だのと黴臭い本ばかりだ!お前の方が世の中のお荷物だぜ!」
「悪いが君の発言の修正を要求しよう。僕は一日の大半ではなく一日中、本を読んでいる。そして、最近読んでいるのは記号学とエスペラント語の本だ」
余計に酷いわ!!!
俺は相手をするのも面倒になり、グラスに注がれた赤ワインを一気に飲み干した。
間髪入れず、天津がお代わりを注いでくれる。
本当なら、今夜十二月二十四日は真己と二人きりで過ごすはずだった。清水の舞台から頭で飛び込む勢いで、お高いワインを買ったのだが、彼女に急な仕事が入ってしまい、やむなくボッチのクリスマスを過ごそうとしていたら、こいつが転がり込んできたという次第だ。
「しかし、シャンベルタンとは豪勢なワインを買ったねえ、和多さん」
そう、それだ。
「お前さっき、シャベルで薔薇色とかおかしなことを抜かしてたな。俺はてっきり、いよいよお前が狂ったと思ったぞ」
「和多さん、自分で買ったワインの名前も知らなかったのかい」
「いや、ワインとかよくわからんから、店で高いやつを適当に買ったんだ」
心底あきれ返ったかのように、天津が首をすくめた。
「いいかい。和多さん。僕はさっき、こう言ったんだ。『このシャンベルタンをかざして見れば、この世は全て薔薇色に見える』とね」
はあ、そうっすか。
俺はワイングラスを透かして、周りを眺めてみた。
まあ、確かに赤い色だ。薔薇色といえば、薔薇色だ。
「しゃれたセリフだろう?これは大デュマの傑作、『三銃士』に出てくる言葉だ。和多さんだって、三銃士くらいは知ってるだろ?」
ああ、うん。名前くらいは。
「その表情だと、タイトルだけは知ってますといった感じかな」
「お前は読んだことがあんのかよ」
「あるよ。原著のフランス語で。無駄とは思いつつ、英訳版も読んだ」
無駄と思うなら読むな!つーか俺は英語でも読めんわ!
「ところで、シャンベルタン越しに見た世界は、どうだったかい?和多さん」
「薔薇色……かな。まあ、赤ワインだから当然か」
俺はグラスをくるくる回しながら、そう答えた。
「ところがだね、和多さん。実は和多さんが見ていたワイン越しの世界と、デュマが生きていた時代のとは、見え方が違うんだ」
「どういう意味だ?昔の赤ワインはもっと色が濃かったのか?」
「現代でも色の濃い赤ワインはある。そうじゃなくて、グラスがポイントなんだ。和多さん、グラスの色は、どんな色だい?」
「グラスに色なんかあるか。透明だ」
「でも、デュマの時代のガラスは透明じゃなかったんだ。あの時代のガラスはもっと分厚かった。分厚いグラスは成分と光の都合上、緑色を帯びてくる。つまり、デュマがワイン越しに見ていた世界は……」
赤緑色の、変な色の世界、か。
それはなんとも奇妙な、グロテスクな世界だ。
それでも、デュマの時代ではそれが薔薇色の世界だったわけだ。
「薔薇色の世界とは言うけどね。僕たちの思う薔薇色は万国共通、普遍的な色ではないということさ。和多さんと彼女との薔薇色の恋人生活も、また然りだ」
「ほっとけ。薔薇色の聖夜が漆黒のサバトに変わっちまったじゃねえか」
「それもまた薔薇色かもしれんぞ、和多さん。黒い薔薇だってあるじゃないか」
そう言うと、奇常はあだ名のキツネのとおり、口が耳に届きそうなくらいニンマリと笑みを浮かべた。
「お前みたいな化け物みたいなヤツと薔薇色の夜とか、マジで勘弁してくれ」
「だろうね。やはり、和多さんは真己さんと、ごく普通の薔薇色の夜を過ごすのがふさわしい。特に、今日はクリスマスだ。ホワイトクリスマスよろしく、白薔薇色の夜もいいかもしれんよ」
だから、真己は……。
その時、ドアの鍵が開く音がして、彼女の真己が部屋に入ってきた。
「間に合ったー!待たせてごめん!あら、キツネちゃん。来てたの?」
「お邪魔してまあす」
「邪魔じゃなくて、俺には悪魔そのものだけどな。なんで聖夜に悪魔が跋扈してんだ。なあ、真己。仕事じゃなかったのか」
「うん。まあ、ほら。今日はクリスマスイブだから、早めに切り上げて帰ってきちゃった。ほい、ローストチキン。イブをやり直しましょ!ワイン買ってるんだよね?」
やっちまった。
俺は固い笑いで、残り三分の一ほどになったボトルを見下ろした。
クスクスと天津が笑いをこらえている。
半分はお前が飲んだくせに。
「仕方ねえ。ちょっとコンビニ言ってくるわ。あんまり良いワインは無いかもしれんが」
「その必要はないよ。和多さん」
天津は自分のバックをごそごそと探ると、中からラベルが張っていない、一本の赤ワインを取り出した。
「シャンベルタンだ、和多さん」
ん?
ちょっと待て?
じゃあ、さっきまで俺たちが飲んでたワインは?
「ああ、あれね。僕が自宅で飲もうと思ってた、ワンコインのチリワイン」
「は?」
「どうせ和多さんはワインのワの字も知らないだろう。そんな和多さんに飲まれるなんて、シャンベルタンが可哀そうだ。だから、すり替えておいた」
「待て待て待て。いくら俺でもラベルくらいは覚えてるぞ」
「ラベルじゃなくて、エチケットね。コツさえあれば簡単にはがれるよ。和多さんがトイレに行った隙に貼り換えたのさ」
邪悪な行為を悪魔めいた笑い顔でさらりと言ってくれやがる。
「まあまあ。和多君、キツネちゃんのおかげで良いワインが飲めるんだから…」
いや、真己。元々これは俺が自分の金で買ったワインなんだが。
「さて、と。じゃあ、僕はそろそろお暇するかな。でだ、和多さん」
「んだよ」
「シャンベルタンでは無いワイン越しに見た世界は、どうだったかい?シャンベルタンであろうと無かろうと、世界は薔薇色になるのさ。和多さんと真己さんのような、すてきなカップルには、ね」
そう言い残すと、天津は俺の家を出ていった。
「見送らなくて、いいの?」
「いい。このまま地の果てまで行って海を越えて北極圏まで行ってくれ。もう、帰って来るな」
苦笑しながら、真己は本物のシャンベルタンの栓を抜いた。
「じゃ、和多君。カンパイしましょうか!」
「あと残り一時間だが、メリークリスマス」
「メリークリスマス!」
俺の顔が映ったグラス越しに、真己の顔を見た。
色鮮やかな、深紅の薔薇色だ。
デュマの緑がかった薔薇色でも、魔宴の主の黒薔薇の色でもない。
そうとも。
俺にはこの薔薇色が、ちょうどいい。
シャンベルタンの杯 神田 るふ @nekonoturugi
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