続:人体模型に花束を

 一歩踏み出すたび、ぶかぶかのスリッパが廊下の床へとぶつかる。ぱた、とも、ぺそ、とも表現できそうな音が、静かすぎる校舎の中で虚しく響いていた。明かりのない廊下は真っ暗。どうにも日頃通っている学校と一致してくれない。まるで別世界。ぽつんと落ちた懐中電灯の明かりは、地に落ちたお月さまを思わせた。

 部長からもらった眼鏡越し、頼りない何かが浮かび上がっては消えていく。

 夜の学校というのはお化けや妖怪といった類のものがよく現れる。その一つ一つに気を取られるほど僕は暇じゃあない。何より、そんなモノを視ることにももうだいぶ慣れてしまっていた。

 胸ポケットから取り出した懐中時計が鈍く輝く。時刻は午前三時過ぎ。これなら余裕を持って事を進められそうだ。

 白い明かりはふいと空気を滑って一つの扉を照らす。ぴたりと閉じられた戸は薄汚れたクリーム色。視線を上げれば、壁から伸びた札が目に入る。

 

 ──生物準備室。


 ごくりと喉が鳴ったけれど、飲み込むほどの唾液が口の中にはなかった。

 扉に手をかけてみる。かたりと音を立てたそれは、希望通り、滑らかに横へとスライドしていく。


「……まったく、不用心じゃないか」


 なんて責めるような言葉を吐いてみるけれど、これが先生方のせいではないことくらいわかっているとも。

 僕が来たから、鍵が開いたのだ。

 説明するのが難しいけれど……要するに、来客のために本来かけられていたはずの鍵を開けてくれた、ってことだ。何が、って? もちろん、何かがね。


「……なーんてね。全く僕も、誰と話しているのやら」


 心の中で誰かと会話してみる、なんて。そんなに弱っているつもりもないのだけれどね。

 開けた扉の向こう、広がる景色に思わずおっと、なんて声が出た。無遠慮に積まれた本や段ボール。そこかしこに散らばる実験器具。鼻腔をくすぐるのは慣れた埃の匂いと奇妙な薬品臭。一歩踏み出してみれば、ぱきりと何かが割れたような音がした。空気は夜のせいにするには冷たすぎて、まるで真冬の海の底。ぞくりと背筋を撫でられたような感覚に、思わず笑みがこぼれる。


 ──どうやらこの部屋に潜む何かは、僕をお客様として認めてくれたらしい。


 部屋の中央。そこに、件の人体模型が立っていた。

 安っぽいプラスチックの皮膚の上を懐中電灯の光が舐める。てらてらとした輝きがいやに艶かしい。

 内部に嵌め込まれていたはずのパーツたちはどこだろうかと目を動かす。


「はは、これはこれはご丁寧にどうも、っと」


 職員室にあるのと同じようなデスクが壁際に置かれていた。その上にはずらりと並べられた作り物の臓器たち。手に取ってみても、やっぱりそれはただの人体模型のパーツ。とてもじゃないけど、これが生身の人間のモノに変わるとは思えない。

 それでも、今は試してみるしかなかった。

 懐中時計を片手に、臓器たちを人体模型に嵌め込んでいく。懐中時計の針と足並みを揃えるように気をつけながら、ゆっくりと。

 

「……よし」


 時計の針が、三時三十分を指した。それと同時に最後のパーツ……冷たく硬いプラスチックの心臓……を模型に嵌め込む。


「────」


 不可思議なことに遭遇するのは、何もこれが初めてのことじゃない。それでも思わず息を呑んでしまった。

 模型の中へと収まった心臓が、どくりと大きく脈打つ。柔らかさも温度もなかったはずのそれが温もりを得ていく。ぬらりとした液体が、触れていた手にまとわりついた。

 ゆっくりと手を離す。丸見えだった臓器たちは皮膚の下へと消えていく。落ちる影さえも人工的であった身体が、自然に、本物の人間らしくなっていく。どくどくと鳴る鼓動の音が僕のものなのか、今目の前で刻一刻と人へと近づいていく目の前のソレのものなのかわからなくなっていく。

 一度、大きく息を吸い込んで、吐き出して。

 そっと、顔を上げた。


「は──」


 その顔は、見覚えのある誰かのものに。

 吊り目がちで少し悲しげな目が、僕をじっと見つめていた。

 ぐ、と。唇を噛み締める。もうどうにもしようのない気持ちが胸の中を渦巻いて、込み上げてきた涙を堪えるなんてとてもできそうになくって。

 わかってる。

 馬鹿なものに縋っていることくらい。

 わかってる。

 こんなことして、部長に怒られるってことくらい。

 本当に、わかってるんだ。

 これがただの、悪霊の類による幻なんだってことくらい。

 それでも。


「それでも、自分の目で確かめたかったんだ」


 誰に言い訳するでもなく口にした。多分、自分に言い聞かせるためだったんだろう。

 だって、知りたいじゃないか。

 本当に幻なのか。本当に、会いたい人間の姿を見せてくれるのか。

 ゆっくりと、彼女の手が持ち上げられる。ハッとして口を動かしかけて、でも気がついた。身体が動かせない。意識はある。でも手も足も、視線さえも動かせないんだ。金縛りにかけられてしまったみたいに。

 ひんやりとした手が僕の首に触れた。なんだか懐かしくって、笑えないのに笑ってしまいそうだ。君の手は冬になると随分と冷たくって、みんなを驚かせていたっけ。

 ぐ、と。僕の首にかけられた手に力が、込められ始めて──。


「おい、なに馬鹿なことしてやがる」


 背後から飛び込んできたのは、苛立ちとも焦りともとれる声だった。


「────あ」


 直後、彼女の顔が真っ二つに切り裂かれる。顔から血が、出ない、何も出ない、それどころかソレはもうあの子の顔をしていなかった。床に転がるのはただの人体模型。ごん、と。鈍い音が、理科準備室の中で虚しく響いた。

 ぐいと身体を引っ張られる。振り向かされたそこに、僕を睨みつける檸檬色の瞳が在った。


「……はは、そんなに睨まないでくださいよ。死ぬ気なんてありませんってば。ちょっと確かめに来ただけですよ、部長」


 僕の言葉に、部長の視線はますます鋭くなっていく。この様子じゃあ、どうやら言い訳は聞いてもらえそうにない。


「調査がしたいならアタシを連れて行けって何回も言ってるだろうが。いいか、アンタにあるのはその眼鏡だけ。アンタはただ視えるだけ! 何かが起こったって何もできやしないんだよ」


 わかってますよと返せば、部長は小さくため息を吐き出す。やれやれなんて頭を掻くその姿はいつもの制服じゃない。懐かしいセーラー服の上にはだぼだぼの水色猫耳ジャージ。きっと業務外の仕事をさせてしまったからお怒りなのだろう。


「お前の目的はわかるけどな、浅倉。だったら尚更、危険なところに自ら飛び込んでくのはやめろ。……生きてなきゃ、お前が会いたいって望んでるやつには会えないんだから」


 そうですねぇ、なんて頷く声は自分でもわかるほど曖昧。だって、生きてたって会えないだろ。死んだ人間には、もう。

 それでも事情を詳しく知っている部長が言うんだったら、それを信じるしかない。


「……僕も別に、死ぬつもりはないですよ。今日はちょっと、うん、魔がさしただけです。ええ、次からはちゃんと部長も呼びますから」


 そうしてくれとため息混じりに呟いて、部長は僕に背を向けた。


「それで、アンタにはアレがどう見えた」


 床へと倒れ込んだ人体模型に目を向ける。それはもうただの模型でしかなくって、さっきまでの幻なんて跡形もなくって。

 痛んだ胸を誤魔化すように、はは、なんて笑みをこぼしてみせた。


「そりゃあもちろん、僕の大事な友人に……なんて、見えませんでしたよ」


 僕に視えたのは、結局あの子の姿じゃなかった。いや、その姿が彼女に全く見えなかったわけじゃない。でも、視えてはいなかった。あの子に似た顔が浮かび上がっては消え──けれどその顔も、写真を貼り付けただけのものにしか思えず。時折人体模型を覆い隠していた黒いモヤは、必死に彼女の姿をこの世に描き出していたっけ。

 ……要するに、どこからどう見ても偽物でしかなかったのだ。


「ま、眼鏡を外せば見えたかもしれませんがね。でもそれは結局偽物というわけで。……僕が会いたいのは本物だけですよ。幻に会っても満足なんてするもんか。それで埋まる程度の穴なわけないじゃないですか」

「じゃあなんでここに来たんだよ」


 不思議そうに問いかけてきた部長に、僕は至って当たり前の回答を返した。


「だって校内に悪霊が居るんだったら、退治してもらわなくちゃ困るじゃないですか。ね、部長?」


 大きく吐き出されたため息が空気を震わせる。振り向いた彼女はずかずかと人体模型へと歩いて行って──そうして、銀のナイフが躊躇なく振り下ろされる。偽物の心臓へと。直後、それからは黒い霧がぶわりと吐き出された。

 これで、人体模型に取り憑いていたらしい何かは綺麗さっぱり祓われた、のだろう。


「いやあ、ありがとうございます。さっすが部長!」

「っるせえ! はあ、心配して損した。いや、損はしてないけど浅倉、頼むから自分を囮にするのはもうやめろ。ほんとに」


 ぐちぐちとこぼしながら、部長は僕の元へとやってくる。それから小さくため息を吐いて。


「いたっ」


 僕の頭を軽く叩いて、生物準備室から出て行ってしまったのであった。

 それに続いて部屋を出ようとして、振り返る。

 床に転がっているのはやっぱりただの人体模型。うつ伏せになったその姿はちっとも彼女に似ていない。

 でも、重ねてしまった。

 あの日路上で心臓を刺され、そうして人としての人生を全て奪われてしまった──僕の大切な友人に。

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