人生で一度きりの

竜花

人生で一度きりの

 寒い朝だった。淡い空に、少し太った月がぽつりと白く浮かんでいた。その見つめる先には、オレンジ色のまん丸い朝日。視界の中央に映せば、空気中の水滴たちがきらきらと、埃みたいに光って舞った。スマホのカメラじゃ映らないような、ささやかな煌めき。


 私は一人歩く。ストレスに蝕まれた身体と、何度も折れかけてひん曲がった心を抱えて。

 でもね、どうにか生きているよ。頑張れ、応援してると手向けられた言葉たちが、昨日まで独り闇にいた私の今日を呼び起こしたから。


 家を出てからずっと、震えが止まらない。心の臓の奥がガチガチに固まってしまったかのような。肺が縮こまったまま、辛うじて息を吸って吐いているみたいな。そんな感覚。

 こころなしか胃まで窮屈に感じてくるけれど、見て見ぬ振り。寒さのせいにして、歩みを進める。


 浅い呼吸を繰り返していたせいか、不意に、吸った息が肺に留まって出てこなくなった。

 過呼吸になったらこんな感覚なのだろうか。比べものにならないか。経験したことがないからわからないな。

 そんなことを考えるくらいには、脳は冷静だった。着けていたマスクを右手でむしり取って、横隔膜を下げる。途端に白い息が空気中に放たれ、後方に流れていった。口から酸素を吸い直すと喉に張り付いて、軽く咽せる。


 「焦らず、気負わず、落ち着いて、深呼吸」。今日のモットー。昨夜、大切な人に贈られた言葉のひとつだ。覚えやすくて良い。

 簡単に心をコントロール出来るなら苦労はしないが、今日に関しては、このモットーを思い出すだけで大丈夫になれた。大丈夫だと思えた。独りでは決して辿り着けなかった境地。

 身体の震えは止まらないけれど。精神は波一つない水面のような静けさの中にいた。


 行ける。行け。戦場へ。

 あとはもう、なるようになるさ。

 

 

 

 ――十八歳、高校三年生。

 共通テスト一日目、午前八時。

 私は一人歩く。

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