薔薇色屋敷の人

がらなが

第1話

 ここはあの世の手前で現世の最後。三途の川よりも手前の貴方だけの空間、貴方だけの告解の場所。私は聞き手ですが、いないようなもの。だからご安心してお話し下さい。貴方が今生で誰にも話せなかった強い記憶。あの世は案外賑やかで、貴方以外の者も当然いる。ここには貴方しかいません。私はいないようなものです。聞き手は欲しいが誰にも知られたくない、そんな話をする絶好の場です。

 誰にも話せなかった、話したくなかった。そんな墓場まで持ってきた話を、どうぞここでお話し下さい。


 +++


 口に出して話さねばそのうち記憶は薄れると思っていましたが、五十年経っても忘れられない人がいます。初恋にも勝るあの鮮烈で生々しい記憶が、今も脳にこびり付いて離れないのです。

 新聞を配る小学生がいた頃の話です。少しでも稼ぎを出さないと家族全員が食っていけないので、私も新聞少年と歌われるような、配達の手伝いをしていました。私が配っていたのは朝刊です。日が昇るか昇らないか微妙な時間に起き、家々を巡って郵便受けに新聞を投函します。頑丈だけが取り柄の私でも大変な仕事でした。特に冬は喉が痛くなり頬を突き刺すような冷気が酷くて一段と大変でした。特に路面の上で細かい雪が踊るような風が強い日は前もまともに向けず、まつげが凍り付くほどです。ですが、冬の日でも、夜と見紛うような暗い朝の中、大きな雪の粒がゆっくり降りてくるような時間は私のお気に入りでした。


 それともう一つ、あの仕事をしていて好きだった時間がありまして、近所で評判の『薔薇色屋敷』を人目を気にすることなくまじまじと眺められた時間です。朝は昼間と比べて随分と人が少ないですから。

 薔薇屋敷ではなく薔薇屋敷です。西洋風の大きなお屋敷で、真っ白いフェンスに小洒落た蔦が絡まっている立派なお屋敷でした。庭には薔薇の花が植えられていて、開花の季節は門扉の向こう側から甘い匂いがしてきました。そんな立派なお屋敷でもやはり朝方はしんと静まりかえり、そこに雪が降り積もると華やかだとか絢爛だとか、そういうものとは別の一面が見られるようで、あまり良い趣味とは言えないかも知れませんが、新聞を配達する最中その屋敷をぼんやりと眺めるのが好きでした。


 薔薇色屋敷の特徴は薔薇が植えられてる立派なお屋敷ということだけではありません。そのお屋敷に住んでいる方々は皆、惚けてしまうほど容姿が整っていたのです。透き通った白い肌、薔薇の花びらを使って染めたような頬、少しの濁りも無い瞳。何かのご加護を受けたのかと思うほど老若男女の全員が美しかったのです。

 それに、そのお屋敷の一族は製薬会社を営んでいて貧しさとは真反対にいる方々でした。人生薔薇色の一族が住んでいるお屋敷。そういう意味を込めて、薔薇色屋敷と呼ばれていました。


 ですがまあ、そういう華麗なる一族には真偽が分からない黒い噂が付きまとうのが常で、薔薇色屋敷の方々にもそういう話はありました。世襲制を重んじるせいで血が濃くなっているとか、家から逃げた実の息子を無理矢理連れ戻したとか、その息子の妻と子は行方不明だとか。私は当時子供でしたからそういう噂話は分からないし興味がなかったんですが、なんとなく恐ろしいという印象が薔薇色屋敷にはありました。


 あの日は、服の袖についた雪の粒の結晶の形を眺める余裕があるほど風の少ない日でした。私はいつものようにぼんやりと薔薇色屋敷を眺め、そして次の配達先に行こうと歩き始めた時、近くの民家の屋根から落ちた雪が後頭部をかすり、気を失ってしまいました。


 目を覚ますと、私は薔薇色屋敷の門扉の内側にいました。庭にあるベンチに寝かせられていて、誰かの上着が下に敷いてありました。掛けられていた毛布をどかし起き上がると隣には二、三十代と思わしき男が座っていました。

「起きたか」と問いかけてきた男の声は、薔薇色屋敷に住むにしては随分と疲れ切ったような声をしていて、また男自体も屋敷の方々と雰囲気が随分違いました。色白というよりかは不健康的な肌の色で、目の下には濃いくまがあり頬は寒さの中でもあまり染まっておらず血の巡りが悪そうな印象を受けました。


こう言っては失礼かもしれませんが、薔薇色とはかけ離れたような人でした。当時の私の表情にその疑念が分かりやすく表れていたのか、その人は苦々しく笑いながら詳しい経緯を話してくれました。

 門扉の前で雪まみれの倒れた私を見つけたこと。門扉の中に運び込んだものの、男の屋敷内の立場が良くないものなので屋敷の中までは入れられなかったこと。あともう少しの時間起きなければ医者まで連れていってたということ。男がこの屋敷の人間の遠縁の者だと言うこと。

 最後の話はなんとなく感情のこもってない声で話していましたが、全て話し終えると私が起きて安心したということを僅かに口角を上げながら話してくれました。私はお礼を言った後、なにも考えずに不躾に、最初から医者に運び込んだ方が良かったのではないかと言うと、頭を掻きながら「そうだったな」とだけ呟きました。やはり薔薇色屋敷の方らしくないな、と思ったものです。


「新聞配達をしているのか」

 男の問いに頷くと、男はなにも言わずに頭を撫でてきました。大きな掌に、私は一瞬幼い頃に肺炎で亡くなった父を思い出していました。

 間もなくして屋敷の二階の窓が開き、誰かがこちらを見下げ始めました。屋敷の誰なのかはいまいち良く分かりませんでしたが、舌打ちのような音が聞こえた気がしました。隣にいた男はため息を吐くと、「気分が悪いようでなければもう屋敷から出た方が良い」と告げてきました。気分も悪くなく、新聞の配達も残っていたので頷きベンチから降りると、男は私が尻に敷いていた上着を着始めました。男の上着だったことに気付いた私は慌てて謝りましたが、男は気にしなくていいと言うように頭を横に振るだけでした。

 それから私があの門扉の向こう側に入ることは二度とありませんでした。なんとなく日課にしていた薔薇色屋敷を眺めることも、あんな親切な人がいる場所をひっそりと眺めるということがなんだか悪いような気がしてきてやらなくなりました。


 男に介抱された日からしばらく経ったある日、いつも通り新聞を薔薇色屋敷に投函した後、門扉のすぐ向こう側であの男が屋敷を眺めるようにして立っているのに気がつきました。雪がただただ降りしきるだけで他に音は無いような朝でした。

私は介抱してくれたことのお礼を改めて伝えようとして声を掛けて、振り返った男の姿に息を呑みました。

 僅かに上がった口角に、頬は高揚したように赤く染まり瞳は黒々と輝いていて、相変わらず目の下のクマはそのままでしたが以前会った時とはまるで様子が違っていました。


「ああ、新聞配達の子か」

 その声も何か大事を成し遂げた後の事のように興奮が滲んでいて、私は呆気にとられて立ちすくみました。頭の傍らで、この間会った時よりも薔薇色屋敷の人間らしいなと思いました。恐ろしいと思うと同時に、美しいと思っていたんです。

「いいか、いつも通り新聞を投函したら、ここには長居せずにすぐに立ち去るんだよ。もうすぐここは騒がしくなるから。あとできれば俺を見かけたことは誰にも話さないで欲しい。君はいつも通り新聞を配達しただけだ」


 私が頷き新聞を投函すると、男はゆっくりと頷いてから門扉を開け、私の頭上に手をかざしました。また頭を撫でられるかと思いましたが、男は動きを止め手を下げると、再び門扉の向こう側に行ってしまいました。一瞬、私の頭上にかざされていた掌が赤く汚れていた気がしましたが、日が昇りきっていない暗がりで見間違えたのか、本当に汚れていたのかは定かではありません。




 その日以降、私の配達先から薔薇色屋敷が無くなりました。屋敷で新聞を受け取り読む人間がいなくなったのです。警察と近所のお寺の住職は、しばらくの間忙しそうでした。

 私は警察から少しだけ話を聞きたいと言われましたが、あの屋敷にはいつも通り新聞配達をしただけだとと答えました。脳裏にあの男の姿が思い浮かび惚けるような感覚を覚えましたが、そのことを警察にも家族にも話す気にはなれませんでした。警察からもそれ以上事情聴取を受けることはありませんでした。


 介抱された日と最後に薔薇色屋敷に配達をした日きり、私があの男の姿を見かけることは二度とありませんでした。ですが、薔薇の花を湿らせたような濃い赤を見る度に思い出すのです。あの男の掌の温かさの記憶を霞ませるような、高揚したように笑う男の美しさを。

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