時間の果て

@aikatuji

君、時間を持っているか?

彼女が僕の前に現れたのは、あの日、突然だった。


駅のホームで立ち尽くしていた僕は、電車が来る音をぼんやりと聞いていた。外は薄暗く、日が沈みかけていた。そのとき、彼女が目の前に現れたのだ。黒いコートを着て、髪をひとつにまとめているその女性は、どこか遠くから来たような、空気の薄さを感じさせる存在だった。


「君、時間を持っているか?」


突然、彼女が話しかけてきた。最初は耳を疑ったが、彼女の目が僕をじっと見つめていたので、言葉を返すしかなかった。


「え?」


「時間だよ、君が持っている時間。」


どういうことだろうかと、僕は頭を整理した。周りの人々は、何も変わった様子もなく、電車を待っている。しかし、彼女だけが異次元から来たような雰囲気を漂わせていた。


「時間?」僕は彼女を見つめ返した。


彼女は少し微笑んだ。その微笑みは、まるで遠い記憶の中の懐かしい人のように感じられた。


「君の時間。今、君が持っているその時間を、少しだけ貸してくれないか?」


僕は困惑し、言葉を選んだ。


「貸す? 時間を?」


彼女は頷いた。すぐに彼女が説明を始めた。


「君が持っている時間は、誰にでも借りることができる。例えば、過去に戻りたいと思った時、君の時間を少し借りてその時を体験することができる。でも、その代わり、君の未来のどこかでその時間を返さなければならない。つまり、君が使った時間は必ず戻ってくるんだ。」


僕はその言葉に言葉を失った。彼女の目の前で、現実がゆっくりと崩れていくのを感じた。時間。それは確かに、僕たちが日々感じるものだったが、こんなふうに物理的な存在として語られるとは思わなかった。


「君が本当に借りたい時間は、どこだ?」


その問いに、僕は一瞬躊躇した。もし過去に戻れるのなら、僕は何を選ぶだろうか。あの時、もし違う決断をしていたら、今の僕の人生はどうなっていたのだろう。あの瞬間、あの人との別れがなかったら…。思い出が浮かんで、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。


「僕は、あの時をやり直したい。」そう呟いた瞬間、彼女は静かに頷いた。


「それでいい。君の時間を少し借りる。だが、必ず返すことを忘れないで。」


そう言うと、彼女は手を差し伸べてきた。その手を取ると、僕の目の前の世界がゆっくりと溶けていくように感じた。周囲の音が遠のき、ただ僕の心臓の鼓動だけが響く。そして、ふと気づくと、僕はあの時、あの場所に立っていた。あの大切な瞬間。僕がもう二度と戻りたくないと思っていた過去に。


目の前には、まだあの人が笑っている。僕はその瞬間を、精一杯見つめ、心の中で何度も言葉をかけた。しかし、僕がしたいことはただひとつだった。それは、あの時、もっと優しくしておけばよかったという後悔を、少しでも軽くすること。


その時、ふと気づくと、僕の背後に誰かが立っていた。振り向くと、そこには彼女が立っていた。


「もう時間が来た。君の未来へ戻らなくては。」


彼女の言葉に、僕は何も言えなかった。ただ、目の前の人に最後に一度だけ微笑みかけることができた。


そして、すぐに時間が戻り、駅のホームに立っていた。周りの人々が普通に行き交い、電車が静かに到着した。彼女はもういなかった。ただ、僕の手のひらに温かな感覚だけが残っていた。


時間は、やはり戻すことができなかった。でも、過去に戻ることはできないからこそ、今を大切にしようと、僕は心に誓った。


彼女が言った通り、時間は返すべきものだ。だから、僕は今日から一歩踏み出して、今という時間を大切にしようと思った。


そして、時間が流れる中で、また一つ新しい決断をしていくことを、心に決めたのだった。





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