理性の海、感情の灯
まさか からだ
第1話 静寂を切り裂く悲劇
颯太の朝は、いつもと同じ静寂から始まった。
薄明かりが差し込む部屋の窓越しに、微かに聞こえる鳥のさえずり。ベッドから身を起こし、冷えたフローリングに足をつける。手慣れた手つきでコーヒーを淹れると、颯太はいつものようにノートパソコンを開き、スケジュール表に目を通した。
「午前中はミーティング、午後はクライアントとの打ち合わせか…」
一日の段取りを頭に入れ、時計を見る。まだ朝の7時過ぎ。余裕をもって行動することが颯太の信条だった。論理的で計画的な生活。それが彼の生き方の核だった。
しかし、その日の静寂は、不気味な予感を秘めていた。
コーヒーを飲み干し、着替えを終えた颯太が玄関の靴を履こうとした瞬間、微かな揺れを感じた。
「ん?」
初めは小さな振動だった。それが次第に大きくなる。家具が震え、床が軋む音が耳に響く。瞬時に身を守ろうと咄嗟にテーブルの下に身を隠したが、その直後、轟音と共に家全体が激しく揺れ始めた。
「こんな揺れ、今まで…ない…!」
理性的な颯太の脳内は瞬時に処理を始めた。家具の配置、避難経路、必要な持ち物。しかし、目の前で転倒する本棚や、激しく割れるガラスの音に、計画的な思考は次第に乱されていく。
「落ち着け。まずは家から出るんだ…!」
揺れが収まったタイミングで、颯太はテーブルの下から這い出し、玄関へ向かおうとした。その時、外から聞こえる叫び声に足を止めた。
「助けて!」
「ここが崩れそうだ!」
慌てて窓を開けると、街の景色は一変していた。目の前の道路には亀裂が走り、隣の家の屋根が崩れ落ちている。普段は穏やかに流れる近くの川が濁流と化し、橋の一部が崩壊していた。
颯太の胸に重くのしかかる感情。それは恐怖だった。
彼はすぐにスマートフォンを手に取り、家族の安否を確認しようとした。しかし、通信は繋がらない。画面に「圏外」の文字が映るたび、焦燥感が募る。
「母さん…父さん…!」
彼の両親は、この街から少し離れた郊外に住んでいる。自分よりも被害が大きいかもしれない場所だ。颯太はバッグに最低限の物を詰め込み、外に飛び出した。
街中は混乱の渦だった。倒壊した建物、泣き叫ぶ子どもを抱える母親、血を流しながら助けを求める人々。いつもは整然とした街並みが、まるで見知らぬ戦場のように変わり果てていた。
「こんな時こそ、冷静に対処しないと…」
自分にそう言い聞かせるものの、心の奥底では不安が膨らむ。無事だと思い込みたい家族の姿が、まるで遠くに霞んでいくような気がしてならなかった。
道中で偶然出会った近所の老人が、颯太の手を掴んだ。
「息子さん、助けてくれ…家が潰れて、妻がまだ中に…」
助けるべきか、進むべきか。瞬時の選択が求められる場面に立たされた颯太。迷いの中で、理性的な自分と感情的な自分が激しくぶつかり合う。
「わかりました!でも一緒に探しましょう!」
老いた体で必死に動こうとする老人を支えながら、家屋の瓦礫の中を探す。手のひらは割れた木材で切り傷だらけになり、埃で喉が焼けるように痛んだ。それでも、瓦礫の隙間から微かに聞こえる声に希望を見出し、彼は手を止めることはなかった。
無我夢中で助けたその女性の姿は、泥と血にまみれていたが、意識はあった。彼女の「ありがとう」という言葉に、颯太の胸が僅かに温かくなる。しかしその安堵も束の間、彼の脳裏には再び両親のことが浮かぶ。
「俺は、行かなきゃならないんだ…!」
混乱する街を抜け、颯太は必死に郊外を目指した。だが、道中で見た光景はますます彼を苦しめた。崩壊したビル、燃え盛る建物、泣き崩れる人々。
「これは、現実なのか…?」
その問いに答える者は誰もいない。圧倒的な災害の前では、颯太の理性も無力だった。彼が信じてきた「論理的に行動すれば、すべて解決できる」という信念が、静かに崩れ去ろうとしていた。
その日、彼は初めて、論理では解決できない苦しみの存在に直面した。
大震災の中で何を信じ、何を頼りにすればいいのか。答えのない問いを抱えながら、颯太は新たな一歩を踏み出すしかなかった。
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