腕枕と母のしくじり
よだみきはきみだよ
上から読んでも下から読んでもよだみきはきみだよ ep.2
腕枕と母のしくじり
「あ~、やってしまった・・・」
鈴子は取り返しのつかない事をしてしまったと青ざめた。
今日は雲一つない晴天で、桜はまだ咲いていないけど、日向は温かさを感じられる良き日で、彼女の息子の静馬が小学校生活最後の日、卒業式だった。静馬の通っていた小学校は、1学年に1クラスの小さな学校なので、6年間1度もクラス替えが無かった。その為、仲良しの友達が多く、平穏な小学校生活を送ることが出来た。鈴子も卒業式に出席して、この6年間を振り返り、1年生になって初めて一人で登校する時はとても心配だった事や、静馬がお友達に怪我をさせてしまい、それを携帯の留守電で知り、慌ててお友達のお家へ謝りに行った事、それから静馬自身が事故に遭って肝をつぶした事、等、色々あったなぁと思い、それにしても6年間の成長は大きいなぁと感心していた。卒業式では、校長先生が一人一人の名前を読み上げて、壇上に上がった子で知らない子はいないので、鈴子は、それぞれのお友達のエピソードを思い浮かべながら見守っていた。全員へ卒業証書が渡されると、卒業生の子供達の歌の後、在校生の子供達の歌、その後、保護者達も1か月位、何回か皆で集まって練習した歌を披露した。皆で卒業の喜びを共有する感動的なお式だった。
その日の夜の事、私は先生と保護者達で開いた大人達だけの謝恩会から帰ってきたばかりで、浮かれていた。謝恩会は卒業式のすぐ後ではなく、夜19時から駅前のおしゃれなイタリアンレストランで行われた。想像以上にとても楽しい謝恩会だった。同じクラスのママ友が歌って踊って楽しい余興を用意してくれていて、大いに笑って騒いで、忘れられない夜になった。クラス替えが無くて学年で1クラスは、子供達だけでなく親同士も仲良しだった。そんな親達も別れがたい謝恩会の余韻に浸るのも束の間、何やら息子が布団の中でしくしく泣いていた。
私は、息子は今まで1学年に1クラスの小学校から、1学年6クラスもあるマンモス中学校に入学する不安と、仲の良かったお友達と離れてしまうかもしれない事が悲しいのだと勝手に解釈し、そっとしておいた。ところがいつまで経っても泣き止む気配がない。これは息子が母親に向けて発信した涙なのだと気付き、静馬に何があったのか問い質した。
「どうしたの?何かあったの?」
「卒業式が終わってから、みんなは親子で校庭に出て、写真を撮ってたんだよ。」
「静馬も、穂香ちゃんママに撮ってもらったでしょ。」
「写真を撮って欲しいって意味じゃないよ。みんな親子で写真を撮ったり、他の親子と一緒に写真を撮りあっていたんだよ。だから、あそこにそのまま居て良いのか、この後どうしたら良いのかわからなかったんだ。」
そう言って、しくしく泣いた。
「あ~、やってしまった」と思った。
お友達に呼び止められて写真を一緒に撮ってもらった後、息子はみんなが親子でわいわい校庭で楽しく話している中を一人寂しく家に帰ったのだと知って、私は胸が張り裂けそうな位、苦しくなった。もしかしたらお友達親子と一緒に帰ったとしても、胸の内はきっと物凄く寂しかったに違いない。どうして親一人子一人なのに、たった一人の親が息子の気持ちを気遣ってあげられなかったのか。
私は今日、卒業式が終わるとすぐ、「母さん、仕事してくるから一人で帰ってね。」と息子に言いおいて、出社する為に学校を後にした。
卒業式の日程は仕事の繁忙期の真っ只中で、昨夜も会社を出たのは24時を過ぎていた。普段、そこまで残業はしないが、どうしても、今日の卒業式と、夜に行われる謝恩会に出席したくて、卒業式の後、急いで今日やらなければならない仕事を終わらせる為に会社へ戻りたくて、こんな変則的なやりくりをした。その結果、主役であるはずの息子をあろうことか、母親の私が蔑ろにしてしまった。私は自分を責めた。せめて、学校から家まで一緒に帰れば良かった。あぁ、どうして子供を置いて先に帰ってしまったのか。悔やんでも悔やみきれない。
振り返れば、息子には淋しい思いばかりさせてきた。彼が産まれて7か月の時に私は離婚した。彼の父親はそれ以来、一度も逢いには来なかった。
私は一人で子供を育てる為に無我夢中で働いた。そのうち、今の仕事では生活はできても、子供を大学には通わせられないだろうと考え、より高給を目指して何度も転職を重ねた。やっと満足のいくお給料を貰える会社に辿り着いたが、平日は朝から晩まで働き詰めで、子供が起きている時間には家に居ることは出来なかった。だからお休みの日はなるべく外へ遊びに連れて行くようにした。
でも、彼が傍に居て欲しいと願った時に傍に居てあげたかと問われれば、首を振るしかない。だからこそ、一緒にいられる時間は大切にしなければならなかったのに、小学校最後の晴れやかな日を私は台無しにしてしまった。息子よりも、自分のしたい事を優先させてしまっていた。私は、静馬が眠りにつけるまで、頭を撫でながら謝り続けるしかなかった。
私は既に一度、息子に対して、取り返しのつかない事をしてしまっていた。あれは息子が3歳位になっていた頃だったと思う。保育園からの帰り道、「お父さんに逢いたい。」と言ってきた。離婚する際に、「逢いたい時はいつでも逢わせる」という約束をしていたのに、元夫は一度も逢いたいとは言ってこなかった。私にはそれが信じられなくて、こちらから逢いに行くなんて絶対に嫌だと思っていた。だから、息子が父親に逢いたいと願った時に「あなたが18歳になった時、お父さんがどこにいるのか探してあげるからそれまで待ってね。お母さんもお父さんがどこにいるのか知らないの。」とおあずけにしてしまった。そして、離婚して7年が経ち、息子が小学校1年生になった年の10月、満足のいくお給料をもらえる会社に転職して3ヵ月程が経った頃、お義母さんから、元夫のお通夜に出席して欲しいと連絡があった。私は頭をハンマーで殴られたような衝撃を覚えた。元夫が病気だった事も知らなかったし、ましてや亡くなってしまうなんて。
でもその後、元夫が亡くなった事よりも、死ぬ前に何故、元夫は息子に一度も逢いに来なかったのかと思うと、急に腹が立った。私には逢わなくても、息子には逢うべきだろう。「なんで、逢わないうちに勝手に死ぬの!」と、思った。でも本当は、そう、自分でも解っていた。息子が父親に逢いたいと言った時に、私が逢わせてあげていれば良かった。
お通夜には、私の母と私と息子の三人で出席した。小学校一年生の息子にはただ「お葬式に行く」とだけ、伝えて、お父さんのお葬式とは言わなかった。だから、息子は早く帰りたがった。それを、「もう少しだけ。」と何度も引き延ばして、お通夜の最後まで息子を座らせていたが、全ての人のお焼香や読経が終わるまでは、子供には長すぎた。途中で私の膝に横になって寝てしまった。私は元夫の事を思い出しながら、祭壇に目をやった。35歳と若いせいか、供花は少なかった。彼の親戚の名前以外は、会社名の供花があったので、きっとその会社で元夫は働いていたのだろうと思った。遺影を見ると、短い髪に少し髭をたくわえて、無理やり男っぽくしているような写真だった。元夫はどちらかというと顔の小さい可愛い顔の人だった。学生の頃、夏の海の家で二人とも水着でいたにもかかわらず、「女の子二人」に間違えられた事がある位だった。だから、可愛い顔に髭はとても違和感があった。
元夫は再婚していた。喪主は二度目の奥さんで、お義父さんとお義母さんはその隣に座っていた。私はお通夜が始まる前に息子を連れて義父母に挨拶に行ったが、奥さんには声を掛けなかった。義父母も私を新しい奥さんに紹介しなかったし、あちらも私には声を掛けて来なかったのでお互い様である。お通夜が終わって、私達もお棺の傍まで行き、息子に元夫の顔を見せた。息子はだいたい誰のことかもわからず、連れて来られて、亡くなった人の顔まで見せられたが、不思議と文句は言わなかった。子供なりに何かを感じ取っていたのかも知れない。お通夜の後の精進落としの席では、共通の友人も出席していたので、どうして病気だった事を教えてくれなかったのか、問い詰めた。
彼が言うには、二度目の奥さんが献身的に看病をしてくれていたので、元夫は息子に逢いたいとは言えなかったらしい。本当は元夫はとても息子に逢いたがっていたと言っていた。それを聞いて、「それなら何故」と言いかけたが、今更何を言っても思っても何にもならない。あぁ、もう取り返しがつかない事なのだから。
私は子供を育てる為に、元気で働かなければならなかった。その為に自分の健康にはとても気を付けていた。私は子供を育て上げる前に死ぬわけにはいかなかったから。会社の健康診断では婦人病のオプションも自費で必ず付けていた。自分が子供を置いて死なないように、そして、子供にも怪我をさせないように、死なないように気を付けていた。命は失ったら取り返しがつかないからだ。でも、逢いたい人が逢う前に亡くなる事も取り返しがつかない事だった。だから、今は逢いたい人には逢いたいと思った時に逢うようにしている。もう、逢えなかったと悔みたくないから。
静馬も小学校を卒業してからあっという間に十年が経ち、今年の誕生日で22才になる。大学を卒業する年だ。念願通り、大学に通わせる事ができ、仕送りもして、4年間一人暮らしをさせる事もできた。一昨年、大学資金に目処がついたので、私は9時から5時迄の勤務時間の会社に5度目の転職を果たした。年収は約半分になってしまったが、目標を達成した自分にご褒美のつもりだった。
今は時間がたっぷりあるので、会社から帰ると5年前に拾ってきた猫を次ニャン(次男)と思って、追いかけっこやかくれんぼをして、家の中を一緒に走り回っている。次ニャンは、元野良猫のせいか、人にだっこされたり、撫でられるのは嫌いだ。でも、追いかけっこやかくれんぼは大好きで、「母ちゃん、さぁ、早く追いかけろ!」と言わんばかりに、私の前をダッシュしていく。そうして机や椅子の陰に隠れて、私を驚かそうと待ち構えている。私はそれに気付かないフリをして、「どこかな~、どこにいるのかな~。」とわざと次ニャンが居ない方向を探しに行くと、「ニャー」と、飛び出してくる。毎日、それが楽しくて、同じことの繰り返しを楽しんでいる。
冬になると次ニャンは私の布団の中に入ってきて、私の腕枕で寝る。それはそれは私にとって、幸せの時間だ。そんな幸せの時間に私はいつも思い出す事があった。静馬には小さい頃、寝る時の癖があった。私はその当時、1分1秒も惜しい位、仕事を掛け持ちしていて、静馬を寝かし付けた後にそっと布団を抜け出して自宅でデータ入力の仕事をしていた。隣に母親が居る事を確認したくて、静馬は無意識のうちに隣に居るはずの母親の温もりをまさぐっていた。それは母親が居ないとシーツを掬うような仕草なので、実際に寝ている時は、身体とシーツの間をグリグリするのでとても痛いのだ。彼は寝ていて無意識なので、痛ければ痛い程、彼の寂しさが伝わってきて悲しくなった。次ニャンが私の布団の中に入ってくると、その背中を撫でながら、「あなたのお兄ちゃんはね、いつも母さんの背中をグリグリして、とっても痛かったんだ。」
次ニャンの名前はサチ。幸と書いてサチと読む。自分がこの元野良猫でだっこも嫌い、撫でられるのも嫌いなにゃんこをこんなに愛おしいと思うようになるとは思わなかった。今では私は、次ニャンの完全な下僕だ。「母ちゃん、このドアを開けろ」と言われれば、ドアを開けてやり、次ニャンの日課の家中の見回りのお手伝いをしている。「母ちゃん、トイレに行くから着いて来い」と言われれば、「おトイレ行くの~、偉いねぇ」と、言って、着いて行き、トイレの後始末をする。そんな下僕の私の腕枕に次ニャンが頭を載せて眠る時はこの上無い幸せを感じる。その度に、長男の寂しそうにしていた小学校低学年の頃を思い出す。転職なんて意味もわからないくせに、「母さん、もっと早く帰れる会社にてんしょくして」と何度も言っていた。私は、当時は息子の将来の為にやっと高給の会社に転職できたので、ここからまた転職するわけにはいかないと思っていた。
もしも出来ることなら、その当時の私に戻って、学校から帰る息子を家で迎えてあげたい。もっと私に話したい事もあっただろう、一緒にしたい事もあっただろう、きっと忙しい私を気遣いそれらを我慢しただろうと思うと涙が溢れる。サチが腕枕で眠ると自然とその事を思い出し、あの頃の静馬に謝っている。
最近、テレビで小さい動物を見ると、全てサチに見えて目を細めてしまう。どんな仕草をしてもサチは可愛い。噛まれている時でさえそう思う。寝ている時は天使だ。
先日、友人と三崎港から遊覧船に乗った時、かもめに餌をあげる体験をした。餌を貰おうと必死に船を追いかけて飛ぶ姿を見せるカモメは可愛らしくて、不思議とサチに見えて仕方無かった。三月で海風が冷たいけど、陽射しは段々暖かみを纏っていた。
静馬が一人暮らしのアパートから急に家に帰ってきた。いつも、今から行くとか、事前に連絡があったのに、何かあったのか突然の帰省だった。
「あら、どうしたの。お帰りなさい、サチ。」
あ~、またやっちゃった。
腕枕と母のしくじり よだみきはきみだよ @ya32847
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