第3話 アイス

彼女の家では何かと不便だということで、彼女が生活をするのは僕のアパートになった。実家からの仕送りのおかげで、スペースにはやや余裕があった。しかし男子大学生の一人暮らしということもあり、僕は同居早々片づけに追われることになった。


「わ~アキ頑張れ~」


慌ただしく動き回る僕に、アイスを食べながら彼女が言った。ぼたぼたと、溶けたアイスが床に落ちている。……なんだか腹が立つ。


「そんなこと言ってないで、サナも手伝ってくれよ」


彼女が「アキ」と僕のことを呼ぶので、僕もつられて彼女のことを呼び捨てするようになった。以前は僕も彼女のことを「サナさん」と呼んでいた。会話における距離感は皮肉なことに今の方が近く感じる。


「アイス、おいしい?」

「うん!」


満面の笑みでほほ笑む彼女は、事故前と何も変わっていないように見えた。まあ、口の周りがチョコで汚れている以外は。


「ふふふ、くすぐったい」

「こんなに汚したら、洗濯もしなきゃだめだな」


口を拭いてあげながら、僕はやや奇妙な感覚に襲われていた。内臓の内側を誰かがくすぐっているみたいだった。原因は何かと考えた。しかし、その時はその正体を結局突き止めることはできなかった。


「どう?」

「ん?」

「何か思い出した?」


僕の部屋には彼女も幾度となく訪れたことがあった。家具や窓から見える景色、それらは彼女が記憶をなくす前と何も変わらない。何か手がかりになるかとも思ったのだが、彼女はかぶりを振った。


「そうか……」

「でも、アイスはおいしかったよ」

「そうか……」


そうすぐに記憶が戻るわけないだろう、と自分に言い聞かせる。医者はとにかく、少しずつ現状に慣れていくのが大切だと言っていた。


『記憶というのは言い換えれば大量の情報の渦です。数日の間でそれを失い、再度それを取り戻すというのは彼女にかなり負担をかけることになるでしょう』


大事なのは手がかりを少しずつ提示すること。記憶を失くす前の彼女が好きだったもの、思い入れのあるものを少しずつ触れさせていくべきなのだ。


そう決意を固める横で、サナは何かをじっと見つめている。


「何これ!」


びゅんっと窓際まで飛んで行った彼女が手に取ったのは、招き猫の形をした小さな置物だった。


「かわいい~」


キラキラと日光を反射して輝くそれを、彼女はいとおしそうに見つめている。僕はそれを見ながら、好みというものはやはり変わらないのか、と実感していた。それは他ならない彼女が、何度目かにうちに訪れてきた時に置いて行った手土産だった。


『アキくんの部屋に似合うと思ったんだ』


そう言った彼女のうれしそうな顔を見てなにも言えなくなってしまったのだが、僕にはあまりにかわいらしすぎるそれがこの不格好な部屋には不釣り合いな気がしてどうも落ち着かなかった。

そんなことも知らずに、彼女は感想を口にする


「いばら姫みたい!」


いばら姫?僕はやや戸惑った。招き猫と姫という単語が結びつかなかったのだ。


「どうして?」


質問されると、だって、と彼女はくるりと部屋を見渡してから言った。


「アキの部屋はかっこいいけど、ちょっと怖いの。でも、お姫様みたいなこの子がいると、なんだかメルヘンな世界に迷いこんだみたい」


だから、いばら姫。彼女の言うことをゆっくりと咀嚼し、僕はなるほどなと首を縦に振った。そう思うと、無骨なこの部屋が少しだけやわらかく見える気がした。かわいらしい招き猫が雰囲気を中和してくれいているのだ。


彼女もそう考えたのだろうか、とふと思った。


『アキくんはかっこよすぎて、周りが委縮しちゃうんだよ。だから話しかけられないの。まずは雰囲気からでも柔らかくしないとね』


そう言っていたサナさんの顔が頭に浮かんだ。まったく…


「これ、アキがおいたの?」

「いや、贈り物だよ」

「その人、良いセンスしてるね」

「うん」


まさか、記憶を失った彼女のおかげで彼女の一面を知れるとは思わなかった。


「サナ」

「なに?」

「ありがとう」

「?……ふふん、感謝してよね」


何も分かっていないのに、何故だか彼女は満足げだった。

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