第十二話「暗転」
ようやく家に帰りベッドに寝転ぶと、いつもの現実へと戻れた気がした。
ーーあの家で何が起きたのか……。
今こうして思い出そうとしても、歪んだパズルの断片のように記憶が噛み合わない。まるで自分が別の何かになってしまったようだ。
そのまま眠ってしまい、夜の闇が深く沈み込んだ頃だった。スマートフォンの震えに気づいて画面を開くと、朱嶋先輩からのメッセージが届いた。
母親にすべてを打ち明け、涙ながらの謝罪を受けたという。
苦いような甘いような安堵が広がっていく。これまで彼女が一人で背負い続けてきた重圧を、母親という存在が受け止めてくれたのだろうか。
続くメッセージには「母の知り合いの紹介で見つけた、空き部屋に引っ越します」とあった。
彼女はあの呪われた家から、ようやく解放されようとしていた。それからも何度もやりとりをした。兄は家を追われるという。しかしあれから家には帰らず連絡もないらしい。
この週末に引っ越しを手伝ってほしいと言われたとき、僕は何の迷いもなく「行きます!」と返した。
彼女が掴もうとしている「新しい生活」を、僕は少しでも支えていたかった。
――そして、土曜日。
指定された住所を訪ねると、まだ家具の少ないワンルームに彼女の姿があった。
わずかに開かれた窓から差し込む風が、白いカーテンを優しく揺らしている。壁紙は色褪せたベージュだが、あの重苦しい家の空気とは別世界のようだった。
先輩は柔らかな微笑みを浮かべ、僕を迎え入れてくれた。
かつての沈んだ表情が嘘のように和らいでいて、その変化に胸が熱くなった。
「ごめんね、色々と……」
彼女は瞳を伏せ、照れ笑いをする。
その一言で、僕は全てが救われたような気がした。
「片付け、お願いできるかな? 荷物は多いように見えても、そんなに量はないんだけど」
「大丈夫ですよ」
僕は軽く微笑みながらそう返して、段ボールの運搬に取り掛かった。部屋の奥には、無秩序に積み重ねられた箱がいくつも積んである。手に取ると意外なほど軽いものもあれば、重くて一人では持ち上がらないものまである。
それらの一つ一つが、彼女の生きてきた時間を内包しているのだろう。汗が滲み出でてきた頃、彼女が冷たい飲み物を用意してくれた。
仮設のテーブルで一息つきながら、何気なく段ボールを開けると、そこには整然と並べられたDVDが目に飛び込んできた。
パッケージには血痕や内臓、あるいは白骨のような、気味の悪い写真やイラスト。
すべてがゾンビをテーマにした作品のようで、その数の多さに呆気にとられる。これほど執着的にゾンビ映画を集めていたとは、想像すら及ばなかった。
「ゾ、ゾンビものの映画、すごい数ですね……」
思わず言葉を漏らすと、彼女は恥じらうように視線をそらした。
もじもじと照れているようだ。
なにか話題を変えようと思って、続けて開けた別の箱にも、同じように不気味なジャケットが隙間なく詰め込まれている。
まるでゾンビ映画研究者の蒐集品のようだった。
つい先日まで自らを「ゾンビ」と名乗っていた彼女の姿が脳裏をよぎり、言いようのない不安がこみ上げてくる。
「あの、先輩……。ゾンビは……治りましたか?」
そう言った瞬間、不適切な質問だったかもしれないと後悔が押し寄せる。
彼女は何かを飲み込むように一瞬だけ唇を結び、それからかすかに微笑んで、ささやいた。
「……ひみつ」
その仕草に見とれてしまい、思わずジュースをこぼした。
先輩は笑いながら、僕の服についた染みを拭きながら言った。
「ありがとう。あなたのおかげで、ここまで来られたの」
その声は小さいながらも、彼女らしい透明感のある声だった。あの夏、僕が炎天下で死にかけているときにかけてくれた音色だった。
荷解きを一通り終え、段ボールの山を部屋の隅へと寄せた頃、終電の時刻が迫っていることに気がついた。
急いで短い別れを告げると、彼女は「また学校で」と静かな声を返してくれた。
ようやく彼女が日常を取り戻しはじめたようで、僕は帰りの電車の中でも浮足立っていた。
その夜、心地よい疲労に満ちた体をベッドに沈めると、意識はすぐさま眠りへと誘われていった。何者かに手を引かれるように、現実から遠ざかっていく感覚。
――しんとした闇の中で、懐かしい景色が、ぼんやりと輪郭を現す。
そこは先輩とはじめてのデートで訪れた公園の光景だった。淡い街灯に照らし出されるブランコが、静かに揺れている。
夢の中だと分かっているはずなのに、足元の砂が混ざった地面の感触が生々しい。風が運ぶ草の香りが鼻腔をくすぐり、遠くから虫たちの奏でる歌が響いてくる。
なぜこのような場所に立っているのかという疑問が湧き上がるものの、意識は靄がかかったようにおぼろげだ。
ふと視界の果てに、一人の男の姿が浮かび上がる。
見覚えがある……。あれは……先輩の兄だ。
ベンチにどっしりと腰を下ろし、コーラを無意味に握りしめながら、コンビニの総菜パンを頬張っている。飲み込むたびに大仰な唇の動きを見せ、独り言のように汚い言葉を吐き散らしていた。
「くそっ……、酷い目に遭った。あいつら、絶対に許せない。殺してやる……」
どうしようもない不快感が、胸の奥で渦を巻く。
すると体が、意思とは無関係に動き出す。
いつの間にか僕の手に握られていた石が目に入った。
それは……先輩が猫を襲おうとした時の、あの石だった。石なんかその辺に転がっているはずなのに、僕にはそれが理解できてしまった……。
混乱する思考を抱えたまま、身体は彼の背後へと忍び寄っていく。
止めようとする意志さえ働かない。
心が遠い場所に置き去りにされたまま、僕はその石を兄の頭めがけて振り落とす。
ーーごつん。
濁りきった衝撃音と共に、兄が小さな悲鳴をあげる。
彼は前のめりにベンチから崩れ落ち、巨体を土埃の上にうずくまらせた。
「う……う……」
とどめを刺そうと一歩を踏み出すと、彼は血に濡れた手で頭を押さえながら、充血した瞳で振り返った。
「お、おまえは……」
再び石を宙に掲げる。幾度も幾度も打ち下ろした。
ぐちゃ。ぐちゃ。ぐちゃ。
彼は「あ、あ……」という断末魔をだして、最期の抵抗のように手を伸ばしてくる。その指が一瞬、僕の首筋に触れたが、力なく滑り落ちた。
打ち砕かれた頭部が、潰れた粘土細工のように形を失っている。
やがて、兄の身体は永遠の沈黙に包まれた。手足をばたつかせることもなく、砂塵の地面に横たわっている。
僕はその死体をズルズルと引きずり始めた。無意識に行き先がどこかを理解していた。
先輩があの時、猫を襲おうとした場所だ。この公園の裏手にある、木々の影が深く重なる空間へ。
現実なら到底動かせない巨体も、夢の中では軽々と引き寄せることができた。
僕は歩みを止めることなく、死体を木々の影へと引きずり込んでいった。
殺人の完全犯罪、証拠隠滅の方法――先輩の言葉が脳裏をよぎる。
その言葉に導かれるように、僕は兄の頭部へと顔を近づけていた。
――むしゃむしゃ、食べる……?
何かに憑依されたように、形を失った頭部へと歯を立てていく。
先輩のノートの記述に導かれているのか、思考が混濁する。
血と肉の生々しい味が、夢であるはずなのに鮮明で、吐き気を催すのに、新鮮で美味しくて止めることができない。
――ほら、これで証拠は消えていく。
先輩の声が頭の中に響いてくる。
僕は、嫌悪感さえも飲み込んだ深い闇の中で、兄の頭部を貪り続けるという悪夢に更けていく。
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