第九話「ノート」
先輩が壊れた人形のように笑い始めた。
床に広がる赤黒い血溜まりの上に座り込み、大粒の涙を流しながら、喜劇の観客であるかのように甲高い声を部屋中に響かせる。
僕は茫然となって、その光景を見つめることしかできなかった。
空気は生温かい湿気を帯び、血の匂いが鼻腔をさす。
どれほどの時が流れただろう。いつしか先輩の哄笑は途切れ、時間の止まったように沈黙が流れる。
僕は壁に寄りかかったまま、自分が何者なのかさえ分からなくなっていた。視線は横たわる男の肥大した身体に釘付けで、半開きの瞼が死の不気味さを際立たせていた。
「片付けなくちゃ……」
先輩が虚ろに呟く。
僕には、その言葉の意味を理解することができなかった。
まるで部屋の掃除でも始めようとするかのような、あまりにも平坦な口調だったから。
「へ?」
僕の喉から、間の抜けた声がでる。
「なかったことに、しましょう」
「どうするんですか……」
先輩は立ち上がり、散乱した部屋から音もなく姿を消した。
すぐに戻ってきた彼女の手には、幾冊かの古びたノートが握られている。
その瞬間、僕の意識の底に忘れかけていた記憶が蘇る。僕が先輩に告白をしたとき生徒会室で目にした、完全犯罪を記したノートだった。
殺人の痕跡を消し去る手順や、証拠を闇に葬り去るための方法が、異様なまでに克明に記されていたはずだった。
「先輩……それは……」
震える声で言葉を絞り出すと、彼女はノートを胸に抱きしめ、横たわる死体へと冷たい視線を向ける。
「私をゾンビにしたのは兄なの」
彼女の瞳には、長い間押し殺してきた感情が、腐った水のように淀んでいる。
その表情は、月の光に照らされた吸血鬼のように青ざめていた。
「就職に失敗してから兄は、変わってしまった……。最初は本当に見ているのも辛かった。昼と夜が反転した生活で、ネットとゲームだけが世界の全てみたいになって、この汚れた部屋に閉じこもったまま……。母子家庭なのに、母がどれほど頑張って私たちのために働いているのか、そんなことにはまるで目も向けようとしなかった。私はそれがどうしても許せなくて、何度も注意したの。せめてバイトだけでも探してって……。だけどこいつは『うるせえ』の一言で、自分の世界に籠り続けた」
先輩の拳が白く染まるほど、強く握り締められている。
どれほどの苦しみと悔しさが、その繊細な指の中に閉じ込められているのだろう。
「私は生徒会長という仮面を被って、外ではいつも完璧な優等生を演じていたでしょう? でも家の中では限界だった。どうにかしなければという気持ちが強すぎて、ずっと責め続けていた。あの頃の私はまだ、心の底から『更生してほしい』と願っていたんだと思う。子どもの頃の、なんでもできた憧れの存在に戻って欲しかった……。けれど、こいつは……! 何を言っても馬鹿にして笑って……。部屋中に広がるゴミも、家に広がり浸食していった……」
先輩は横たわる兄の死体に、蹴りを入れた。
最初は小さく、そのうち大きく、何度も何度も何度も。
このっ、死ねっ、くそっ。そのうち落ち着いたのか飽きたのか、静かに語りだした。
「母は疲労でいっぱいで、私も学校との狭間で息が詰まりそうだった。けれど 『家族』という呪いが、見捨てることを許さない。嫌でも顔を合わせるたびに、厳しい言葉を投げかけるようになっていた。『就活して』『部屋を片づけて』『いい加減にして』。だって私が言わないと、母はこいつの言いなりだったから……」
声は一瞬途切れるが、それでも語り続けようとする強い意志が感じられた。
「そして……あの夜、こいつは、私を押し倒した……」
それは言葉という刃で、自らの身体を切り刻むようだった。
「でも、最後まではさせなかった……。気持ち悪い……。どれくらいの時間だったのかも分からないけど私は必死で暴れて、どうにか振り解いて逃げ出した。するとこいつ、薄気味悪く笑いながら『やっぱり無理だ』と言った……。あの夜に、私は汚れた。今も消えることがない。どれだけシャワーを浴びても落ちない。気持ち悪い感触だけがまとわりついて、もう耐えられない。そこから心が少しずつ壊れていった。あれ以来、私はゾンビのように、生きているのか、死んでいるのかも分からない……」
再び彼女は、兄の死体を蹴りだした。
僕は彼女が落ち着くまで、静かに待つしかなかった。
「私をゾンビへと変えたのは兄。クズのくせに、私を踏みにじって壊した。そのことに気づいた瞬間から、私は『あいつを消し去りたい』という思いに取り憑かれた。どうやって殺すのか、その後の証拠隠滅はどうするのか、ずっと頭の中で組み立て続けていた。……ねえ、恐ろしいと思うでしょう? 周りは生徒会長という仮面の完璧さを褒め称えるのに、中の私はとっくに壊れていたの」
言葉を絞り出し終えた先輩は、長い重荷から解放されたかのように大きなため息をついた。
「でも結局、私ではなくあなたが兄を殺したのね……。ありがとう、そして、ごめんなさい」
なんと言えばいいのか僕には分からなかった。
感謝されることも謝罪されることも、なにもかも全部間違っているように思えた。
「あなたを犯罪者になんてさせたくない。だから私と、共犯者になって。あなたは私を守ってくれて、もう引き返せない場所まで来てしまったのだから……。兄を一緒に切り刻んで、すべてを無かったことにしましょう」
混乱する思考が現実に追いつかず、額からは汗が滲みでる。
「これは悪夢だ」と心の中で何度呟いても、横たわる男の死体が放つ生々しい存在感が、その願いを打ち砕く。
先輩はまた部屋から出ていった。取り残された死体と僕は、なにを話せばいいのだろうか。
再び彼女が戻ってきたとき、その手に握られていたのは、ノコギリ。錆に蝕まれた刃が、不吉な光を放っている。
彼女はその刃先で、冷たくなった男の肉塊を指し示した。
「これで、切るのよ」
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