四辻の駐在さん
尾花
道
〈病院にて〉
病院の廊下を歩く刑事二人の足取りは、呼び出しを食らい職員室に向かう小学生男子のように気怠げだった。二人ともスーツを着込み、体格がよく四十代くらいに見える刑事は強面で、長身痩躯で二十代くらいに見える刑事は細面だった。
「はぁ」と細面の刑事──鈴木がため息を吐く。
「シャキッとしろ」と言いながら強面の刑事──佐藤が鈴木の背中を強めに叩く。
「相手に舐められたら終わりだぞ」
「わかってますよ。でも……」
「楽しい面会には、ならないだろうな。そもそもまともに話せるかどうか……」
佐藤の言葉に鈴木は「あ~~~」と頭を抱えた。
それから程なく、二人の刑事は、とある病室の前で足を止めた。
すると鈴木がおもむろにスーツのポケットから小さなチャック袋を取り出した。
薄く透明な袋の中には、白い粉が入っている。
鈴木は、その白い粉を摘まむとパッパッと両肩の辺りに振りかけた。
「なんだ、それ」
「塩です。先輩もどうですか?」
怪訝そうに問いかけてくる佐藤に、鈴木はお菓子でも進めるようなノリで袋を差し出した。佐藤は、得体の知れないものを見るような目で袋と鈴木を見ていたが、病室の方を一瞥し、「まぁ念のためな」と言って塩を摘まみ、頭にパパッと振りかけた。
「ありがとうよ。──行くか」
「はいっ!」
〈駐在所にて〉
七月後半の、とある蒸し暑い金曜日の夜。
山田夫婦は、クーラーの効いた居間のソファに並んで座り、まったりテレビを見ていた。
夕食も入浴も済ませているので睡魔が襲ってきたら無抵抗で降伏する腹づもりだった。
夫の
藍色の浴衣を緩く身につけている。
妻の
黄色の浴衣をきっちり着込んでいる。
「あっ」と唐突に声を上げたのは、妻の愛染だった。
「どうしました? 愛さん」
「月くん、誰か来たみたいです」
「えっ?」
夫の月島は突然のことに目を丸くしたものの、妻の言葉を微塵も疑ってはいなかった。
肩越しに玄関の方に視線を向ける──と、
「あぁそっちじゃありません。こっちです」
妻は夫の頭を両手で掴み、首の位置を微調整した。
妻の言わんとすることを理解した月島は、愛染の方を振り返った。すると愛染は、心得たと言わんばかりの表情で頷いた。
「私が様子を見てくるので、その間に着替えてください」
「ありがとうございます。助かります」
月島は立ち上がり居間から出て行こうとした。しかし何故か途中で踵を返し、まだソファに座っている愛染の元まで戻ってきた。
「どうしました、月くん」
「わかっているとは思いますが、危なそうなら逃げてくださいね、愛先輩」
と言って、夫は不思議そうに見上げてくる妻の額に、ちゅっ、と軽い口づけを落とした。
愛染は「ふふっ」とくすぐったそうに身を捩ってから、「善処しますね」と言って月島の頬に、ちゅっ、とお返しをした。
束の間、見つめ合ってから、「では」と月島は回れ右をして今度こそ居間を後にした。
月島の背中にヒラヒラと手を振ってから愛染も立ち上がり、髪と浴衣の乱れを確認してから玄関ではなく、すぐ隣の和室に向かった。
和室と居間を隔てる襖は、昼間は閉じていることが多いが、夜間は大抵開けっぱなしにしていた。冬はこたつにもなる卓袱台の横を通り抜け、襖の向かいの壁に設けられた木製の引き戸の前に立つ。音を立てないよう気をつけて鍵を開け、そっと引き戸を横に滑らせると、あまり生活感のない部屋が現れた。
モルタルの床に、愛染から見て正面にロッカーとデスク、左手にソファとローテーブルが置かれている他、折りたたみのパイプ椅子が数脚、壁の隅に立てかけられている。
ソファの背面の壁には掲示板が填め込まれ、子供が描いた飲酒運転撲滅や詐欺注意のポスター、不審者情報、指名手配被疑者ポスターなどが整然と貼られている。
それらに異変がないことを夜目で確認してから、愛染は外へと続く硝子張りの引き戸に視線を移した。案の定、見慣れない若い女性が一人、床に座り込んでいた。身体を丸め、荒い呼吸を繰り返している。額や髪からは汗が滴り、足や床にポツポツと小さな染みを作っている。
愛染は一度引き戸を閉じ、しっかり鍵をかけ、和室の隣にある台所に移動した。冷蔵庫から未開封のペットボトルを取り出し再び引き戸を開けると、女性はまだ座り込んでいた。
年の頃は、二十代半ばから後半くらい。常磐色の長袖Tシャツに鳩羽鼠色のピタリとしたロングパンツ。小ぶりのウエストポーチを袈裟懸けにし、セミロングの髪をヘアゴムで一つに束ねている。うっすらと化粧をした顔は整っているが、今は恐怖と焦燥に歪んでいた。
愛染は引き戸の前に置かれた下駄を履き、引き戸横の壁にあるスイッチを押した。
夜の闇に包まれていた室内に、パッ──と照明が灯った。
※
「はぁ……はぁ……」
背を丸め、胸元を掴み、廉子はなんとか呼吸を整えようとした。
不意に、パッ──と周囲が明るくなった。驚いて顔を上げると、見知らぬ女性がカラコロと小気味のいい音を立てながら近づいてくるところだった。
「えっ?」
訝しげな声が祈里の口から突いて出た。女性が立ち止まる。
黄色い浴衣を身につけた若い女性で、無骨な下駄を履いている。綺麗と言うより可愛らしい顔立ちをしているのだが、左目の下にある泣きぼくろが妙に婀娜っぽく、廉子は同性にも拘わらず思わずドキッとしてしまった。
しかし声を上げてしまったのは、別の理由からだった。
ボブに切りそろえられた女性の艶やかな髪が、真っ白だったのだ。
すると視線に気付いた女性が、ちょいっと毛先を摘まみ、
「綺麗に色が抜けているでしょう。お気に入りなんです」と言って微笑んだ。
「すっ、すみません……ごほっぐぅ……」
「いえいえ。それより、お水をどうぞ。私が開けてしまっていいですか?」
「お願い、します」
女性は廉子の傍らで膝を折り、ペットボトルの蓋を開けた。パキッ──と未開封だったことを告げるように硬質な音が響く。「はい」と渡されたペットボトルはよく冷えていた。
三分の一ほど飲んだところで心身共に落ち着いた廉子は「はぁ」と息を吐いた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。動けるようならソファに移動しましょう。夏とはいえ、床に座っていたら身体が冷えてしまいます」
女性の手を借りながら、廉子は硝子張りの引き戸の正面にあるソファに移動した。
廉子がローテーブルにペットボトルを置いている間に、女性は隅からパイプ椅子を持ってきてローテーブルを挟んで向かい合うように座った。
「もう少ししたら主人が来ますので、そうしたら何があったか話していただけますか?」
「しゅじん?」
「私の伴侶で、ここの責任者です」
「ここ……」
廉子は、辺りを見回した。土足で出入りすることを前提とした床。ソファにローテーブル。少し離れたところには、使い込まれたデスクがあり、その向こうにロッカーも見える。視線を前に戻すと、女性の向こう──硝子張りの引き戸に自分たちと背後の壁が映っていた。そこではじめて、自分の頭上に掲示板があり、色々ポスターが貼られていることを知った。
ポスターの内容は、詐欺や飲酒運転を諫めるものや、指名手配犯の顔写真と名前がでかでかと印刷された物騒なものばかり。それを見て、廉子はピンときた。
「ここって、交番ですか?」
「いいえ。ここは、駐在所です」
不意に横手から聞こえてきた男の声に、廉子はビクッと肩を竦ませた。
女性が声の聞こえてきた方に顔を向け、唇を尖らせる。
「月島くん、細かいですよ」
「しかし愛染さん。物事は正しく伝えるべきです」
廉子が振り返ると、そこには夏用の制服を着た警察官の男性が立っていた。
髪は短く、長身痩躯で凜々しい顔立ちに柔和な笑みを浮かべている。背筋がピシッとしているので弱々しさはないが強そうでもなく、如何にも「お巡りさん」と言った風情だ。
廉子と目が合うと、警察官は帽子を取り、デスクに置いた。
「はじめまして。この駐在所を任されている巡査の山田月島です」
「妻の山田愛染です」
「差し障りなければ、お名前と、何があったのか教えてください」
警察官──月島の要望に、廉子は浅く頷いた。
〈山中にて〉
私、
趣味はドライブで、街中より山道の方が好きで、コンビニとかで好きなお弁当やおにぎりを買って、山道の途中に駐車場とか休憩できるところがあるでしょう? そこに車を駐めて食べるんです。食べ終わったら散歩をして帰ります。
今日も、仕事終わりにコンビニでおにぎりを買って、山に向かいました。何度か行ったことがある山でお気に入りなんです。いつもの場所に車を駐めて、おにぎりを食べ終えた頃だったと思います。悲鳴が聞こえたんです。
私が使っている駐車場は、実は廃墟の駐車場で、元はリゾートホテルだったんですが、評判がよくなくて数年で潰れてしまったそうです。悲鳴は……そう、ホテルの本館の方から聞こえてきました。ここで逃げるべきだったんです。でも、怖さよりも好奇心が勝ってしまって……私、悲鳴が聞こえたホテルの本館に、入ってしまったんです。元から散歩をするつもりだったから、懐中電灯も持っていました。格好も、動きやすさを重視していたので、大丈夫だろうと思ってしまって……。本当に、後悔しています。
……えっと、それで、ホテルの本館に入ったんです。でも、誰もいませんでした。おかしいなと思いながら進んでいくと、壁が硝子張りになっていてその向こうに中庭があって……そこに、人影が見えたんです。うずくまっているように見えたので、何かあったんだと思って中庭に続く扉を開けたんです。そうしたら……。
「人じゃ、なかったんです。いえ、人だったけど……身体が、なくて……」
「無数の……数え切れない数の、生首が、転がっていたんです」
真っ白な血の気のない肌に、目も濁っていました。男も、女も、老人も、子供もいて……それらが、生い茂った草花の間から、こっちを見ているんです。
私、扉を開けた体勢のまま動けなくなりました。
そうしたら、生首がパクパクと口を動かしはじめたんです。しかも、
レンコ……レンコ……
と、私の名前を呼ぶんです。わけがわからなくて、でも、動けなくて……。
逃げなきゃ、逃げなきゃと思っていたら、いつの間にか生首の中心辺りに、人が立っていたんです。髪が長かったから、多分、女性だと思います。その人が、一歩、こっちに近づいてきたんです。生首も、コロコロと転がり出して……。
「気がついたら、私、山の中を走っていました。背後から、ずっと、何かが転がる音と、私を呼ぶ声が聞こえて……意味が、わからなくて……でも、捕まったら駄目だと思ったんです。どうしよう、どうすれば……そんなことばかり考えていたら、目の前に光が見えて、よく見たら、家があって……私、引き戸を開けたんです」
〈駐在所にて〉
話を終えると、廉子は真っ青な顔で震えだした。
愛染は廉子の隣に移動し、その肩や背中を撫でさすった。
デスクの椅子で話を聞いていた月島は、立ち上がり硝子張りの引き戸に近づき外を見た。
「……何も、見えませんね」
「──っ‼ 私、嘘吐いてません!」
廉子は、カッと目を見開き叫んだ。
その肩を撫でながら愛染が「落ち着いてください」と言う。
「本当なんです! 私、嘘なんか吐いてません!」
「大丈夫です。わかっています。──月島くん」
廉子に優しく声をかけてから、愛染は咎めるように夫を睨みつけた。
月島はばつが悪そうに「すみませんでした」と頭を下げた。
「あなたを疑ったわけではありません。ただ、現状を告げただけのつもりだったのですが、不安にさせてしまいましたね」
「……信じて、くれるんですか?」
目に涙を溜め、不安そうに確認してくる廉子に、月島は力強く頷いた。
「信じます。ただいくつか問題があります」
「問題、ですか?」
「根本的な解決を望めない──つまり、平さんを追ってきた怪異を今、この場で祓うことは、できないということです。私も妻も、こういったことに耐性はありますが、お祓いやお清めとなると素人に毛が生えた程度なので、下手に手を出すと事態を悪化させるかもしれません。なのでこの場では、何もできないのです」
「じゃ、じゃあ、私は、どうしたら……ずっと、あれに追われ続けるんですか?」
おろおろする廉子の肩に、愛染がそっと手を置く。
「月島くん、少し言葉が足りませんよ」
夫を窘めてから愛染は、廉子を安心させるよう微笑みながら続けた。
「落ち着いてください。そもそも、こういった怪異は、一先ず、夜が明けるのを待つのが定石です。夜が明けたら平さんの車までお送りします。その後、僧侶や神主を訪ねてください。祓うか清めるかして、悪縁を絶ってくれるはずです」
「夜が、明けるまで……」
廉子は、硝子張りの引き戸を見た。外はまだ暗く朝の気配は感じられない。──と、硝子張りの引き戸の向こうで何かが動いた。廉子は、「ひぃっ!」と引きつった声を上げ、ソファにのめり込む勢いで身を引いた。しかし、その直後、
「廉子?」
「……えっ」
馴染みのある声に名前を呼ばれ、廉子は目を瞬かせた。
「廉子……やっぱり、廉子だ。よかった、こんな所にいたのね」
硝子張りの引き戸に手を添え、ほっと胸を撫で下ろすのは、廉子の友人だった。
「
「どうしたの? 家にもいないし、メッセージ送っても返事がないから心配したんだよ」
「あっ、ごめん……でも、よくここがわかったね」
「前にこの山が気に入ったって言ってたじゃない」
「そっか……そう、だっけ?」
「そうだよ。何、もうぼけたの? ほら、そんなことよりこっちに来て。早く帰ろう」
「…………」
「廉子? どうしたの?」
「愛美は、どうして入ってこないの?」
「だって意味がないでしょ。もう帰るんだから」
「そうだけど……」
廉子が渋っていると、隣でパンッ──と手を叩くような音がした。
はっとして振り返ると、愛染が両手を合わせていた。
「大丈夫ですか、平さん。何か見えましたか? それとも、聞こえましたか?」
「あっ……愛美が……友人が、外に……」
言いながら硝子張りの引き戸に視線を戻すと、そこには誰もいなかった。
「……愛美?」
「お友達は、平さんに出てくるよう言いませんでしたか?」
「帰ろうって、言われました」
「なるほど」と言ったのは月島だった。
「相手は、閉ざされた扉を開けるほどの力はないようです。愛さんが提案したとおり、夜が明けるまでここにいるのが正解ですね」
「えっ……? それって……えっ? さっきの、愛美は……」
「ニセモノです。あなたを追ってきたモノが化けていたのです」
「──っ‼」
廉子は、自身の頭からザーッと血の気が引く音を聞いた。
言われてみれば愛美の言動は、不自然な点が多々あった。しかし、それもこうして愛染と月島から指摘されたからこそ気付けたのであって、あのまま自分一人で対応していたら、違和感を覚えつつも外に出ていただろう。もし、そうなっていたら──……。
「なんで? なんでそこまでして私を殺そうとするの? なんでなんでなんでなんでっ‼」
頭を抱え、廉子は絶叫した。意味もなく足をばたつかせ、身を捩り、髪を振り乱す。
愛染も月島も、何も言わなかった。ただ静かに廉子が落ち着くのを待った。
※
「しつこーいっ‼」
ソファの上で廉子は子供のように膝を抱えて叫んだ。
デスクに向かい、タブレットを使って何やら調べ物をしていた月島が、「ははっ」と苦笑いをこぼす。その隣で、パイプ椅子に座った愛染は、廉子の声が聞こえていないのか、真剣にタブレットを凝視していた。
あれは、どうやらどうしても廉子を外に出したいらしく、愛美を皮切りに、廉子の上司や元彼の姿を借りて現れた。しかし頑なな対応を続けていると、今度は、月島の同僚やよく相談に来るご近所さんの姿になるようになった。なりふり構わないとは、まさにこのことだろう。
いなくなる前にも、硝子張りの引き戸を生首で覆い尽くしたり、駐在所を揺らしたり、不気味な声でひたすら名前を呼んだり──と、手を変え品を変え嫌がらせをしてくるが、その度に、愛染が柏手を打って消してくれるので、廉子も段々慣れてしまい緊張感もすっかりなくなってしまった。
いっそ寝てやろうかとソファに横になってみたが、どうしても眠れなかった。
ならばとスマートフォンで動画を見ようとしたが、砂嵐になったり、真っ黒な画面から不気味な声が聞こえてきたりするので諦めた。因みにこの現象は、廉子にだけ起きているらしく、月島と愛染は、問題なく動画を見たり、インターネットを使ったりしている。
見かねた月島と愛染が、代わる代わる質問をして暇を潰してくれたが、それも長くは続かなかった。
膝を抱えたまま身体を横に倒す。
「……あれは、何なんだろう」
廉子は口の中だけで呟いた。無数の生首も不気味だったが、何より気持ち悪かったのは、生首に囲まれた髪の長い、女と思しき人影だった。ズルズルと引きずるような足音が、今も耳にこびりついている。──と、
「恐らく、亡者だと思います」
タブレットに視線を落としたまま愛染が応えた。
「──っ⁉」
廉子は、思わず立ち上がりデスクに詰め寄った。
「あれのこと、知ってるんですか⁉」
「知りません。平さんの証言から推測しただけです」
「なんでも構いません! 教えてください! 私は一体、何に狙われているんですか?」
そこでようやく愛染はタブレットから顔を上げ、廉子を一瞥してから夫に視線を向けた。
「話してもいいですか? 月島くん」
「よろしくお願いします、愛染先輩」
愛染は「こほん」と咳払いをしてから背筋を正した。
「わかりました。それでは、お話ししましょう」
「平さんは、亡者道という昔話をご存じですか?」
「いいえ」
「日本では昔から、私たちが生きているこの現世に、死者が暮らすあの世と繋がっている場所があると考えられてきました。その最たる場所が山です」
「山って……山、ですよね?」
「はい。あの山です。亡者道も、ある山の麓に亡者が通る道があり、皆が気味悪がって近づかない中、一人の男がそこに罠を仕掛けて猟をしたところ、網に大量の生首がかかった、というものです」
「生首……」
「今回、平さんの身に起きたことと、よく似ていますよね」
「じゃあ、あの廃墟が、その亡者の通る道だった、ということですか?」
「私はそうだと思っています。先ほど場所を教えていただいたので少し調べてみたのですが、ホテルだった頃から怪現象が度々起きていたようですし、廃業してからは、本当にヤバい心霊スポットとして一部では、有名だったようです」
「……昔話の男は、最後、どうなったんですか?」
「病んでしまったそうです」
廉子は真っ青な顔で黙り込んでしまった。それからふらふらとソファに戻り、じっとローテーブルの上を見据えていた。
月島も愛染も、なんと声をかけていいかわからず、一先ずそっとしておくことにした。
十分後──。
「ふあぁ……すみません、月島くん。私、限界のようです。仮眠してきます」
「お休みなさい、愛染さん。仮眠と言わずしっかり寝てください」
「お休みなさい、月島くん。平さんも、すみません」
「あっ、いえ……こちらこそ、なんかすみません。お休みなさい」
ぱっと廉子が顔を上げる。大分、血の気は戻ってきたようだ。
「お休みなさい。鍵は開けておきますね」
安堵の笑みを浮かべながら、愛染は駐在所の奥にある木製の引き戸を開けた。
「どうぞ」
月島がローテーブルに置いたマグカップから、温かな珈琲の香りが薫った。
「ありがとうございます」
廉子が礼を言うと、月島は「どういたしまして」と言ってデスクに戻っていった。
デスクにもマグカップが置かれ、こちらからは緑茶の匂いが漂っていた。
「あの、今更ですが、お巡りさんと奥さんは、どうして大丈夫なんですか? あんまり驚いてないというか……怖がったり、取り乱したりしないですよね」
「私も妻も、こういうことには慣れているんです。平さんも、怖がっていたのは最初だけで、すぐに冷静さを取り戻していましたよね。山道をドライブするのが趣味と仰っていましたし、もしかして以前にも遭遇しましたか?」
「いいえ、こんなこと、今回がはじめてです。でも、先ほど聞いた亡者道の話……私、少しだけ男の気持ちがわかるんです。そこに罠を仕掛ければ確実に獲物が手に入る……そうと知ってしまったら、もう引き返せない……」
廉子は、はっとして口を噤んだ。
そっと月島の様子を窺うと、月島は静かに微笑んでいた。
「すみません。変なことを言いました」
自分でもよくわからないまま廉子は謝罪を口にした。
「あっ、あと、もう一つ、今更なことをお聞きしてもいいですか?」
「平さんの気が紛れるのなら、答えられる範囲でお答えしますよ」
「そんな大層なことではなくて……その、不勉強で恥ずかしいのですが、交番と駐在所の違いってなんですか?」
廉子が恥ずかしそうに問いかけると、月島は目を丸くしてから、「ごほん」と咳払いをして、居住まいを正した。
「すみません。意識していない方もいますよね。簡単に説明しますと、誰も住んでいないのが交番で、警察官とその家族が住んでいるのが駐在所です」
「知りませんでした。じゃああの扉の向こうは……」
言いながら、廉子は先ほど愛染が入っていった木製の引き戸に視線を向けた。
月島は、「はい。我が家です」と応えた。
〈亡者道にて〉
湿った空気の中に甘い香りが広がった。
微かに潮の匂いも混じっている。
寝室のダブルベッドの上で愛染はゆっくりと瞼を上げた。
顔を横に向けると、出窓を覆うカーテンの隙間からうっすらと光が漏れていた。
「……そういうことですか」
何やら得心した様子で愛染はベッドを降りた。
ギィ──と扉が開く音がした。寝室の扉ではない。恐らくトイレの扉だろう。
愛染は寝室の扉に向かった。
ギィ──と扉を開ける。
廊下に出ると明かりがついていた。後ろ手に扉を閉め、トイレの方に身体を向ける。
「……奥さん」
トイレの前に、廉子が立っていた。
振り返ったその顔は、血で真っ赤に染まっていた。
胸と、ウエストポーチと、手も、血に染まっている。
しかし、右手に持った包丁は、汚れていなかった。
見覚えのある包丁だった。数時間前、愛染はその包丁を使い、月島に夕食を振る舞った。
愛染が佇んでいると、廉子は恋人を見つけた乙女のような笑みを浮かべ──包丁を振り上げながら一気に距離を詰めてきた。
「奥さん奥さん奥さぁ~~~~んっ!」
楽しげな声だった。妙な節がただただ不快だった。
包丁を振り下ろす──その瞬間、愛染は廉子に抱きつくような形で体当たりした。
「奥さぁ~ん!」
「うっ!」
仰向けに倒れ込みながら、廉子は愛染の左肩に包丁を突き刺した。
そのまま二人はもつれ合うように廊下に倒れた。
「──っ」
愛染はすぐに立ち上がり、廊下を駆け抜け、和室の卓袱台の横を通り、木製の引き戸に手をかけた。左肩からは絶えず血が流れ落ちていたが、それどころではなかった。
「月島くんっ!」
夫の名を呼びながら引き戸を開け、
「──っ⁉」
立ち込める血の臭いに息を呑んだ。そして──
「月島くんっ⁉」
デスクの傍らに倒れ伏す夫を見つけた。
床にできた血の水たまりの上に、うつ伏せの状態で倒れている。
制服の背中はズタズタに引き裂かれ、ナイフが二本、深々と突き刺さっている。
「月島くんっ‼」
下駄も履かず、愛染は夫の傍らに膝を突いた。
肩に手をかけ揺らすが、血がぴちゃぴちゃと跳ねるだけだった。
「月島くん……」と言って、愛染は夫の背中に縋り付いた。
「奥さん。ほら、見てください。外を」
廉子は愛染の横を通り抜け、愛染の血で汚れた包丁で硝子張りの引き戸の外を指し示した。
愛染は少しだけ顔を上げた。
硝子張りの引き戸から、朝日が淡く差し込んでいる。
「夜が明けたんです。私、助かったんです。ありがとうございます」
「……どうして、月島くんを……」
振り返った廉子を愛染は睨みつけた。
廉子は、ニッコリと微笑んだ。
「まずは、奥さんを殺そうと思ったんです。でも、お巡りさんに止められたから、先にお巡りさんを殺したんです。体調が悪い振りをして、心配してくれたところをこう──」
と言いながら、廉子は包丁で首を切る振りをした。
愛染の眉間に皺が寄る。
廉子は、悲しそうに眉尻を下げた。
「仕方なかったんです。だって私がこの山にいたことを知られたら、私、趣味を続けられなくなってしまうから……それは、嫌だったから……だから、ごめんなさい」
と言いながら、廉子は再び包丁を振り上げ、
「せめて夫婦二人──一緒に殺してあげますね」
愛染の背中目がけて、振り下ろした──。
「あ~汚れちゃった。カッパもなかったし仕方ないんだけど、なんかやだなぁ~」
言葉とは裏腹に、折り重なるように息絶えた夫婦の死体を満足そうに一瞥してから、廉子は足取り軽く硝子張りの引き戸に近づいた。
「ふふふっ、でもお陰で記録更新しちゃった。一晩で四人なんて、私って凄い!」
引手に手をかける。
「生首には驚いたけど、死人は死人。生きてる人が一番怖くて、一番強いんだから!」
引戸を横に引き、上機嫌で一歩踏み出す。
「──えっ?」
廉子は、山の中にいた。
太陽は未だ昇らず、周囲は夜の闇に包まれている。
慌てて振り返るが駐在所はなく、勿論、夫婦の遺体も見当たらない。
「どういう……──っ‼」
顔を前に戻すと、闇の中に無数の生首が転がっていた。
白い肌が淡く輝いているように見え、不気味だった。
ズル、ズル……と、何かを引きずるような音を伴い、人影が生首の向こうから現れた。
女だと思っていたその人影は、よく見ると、髪の長い女を背負った男だった。
男も、女も、足に虎挟みが食い込んでいる。
男も、女も、首や腹、背中から血を流している。
「あっ……」
虎挟みと傷を見て、廉子は気付いた。
「あんたたち、今日、私が殺した……」
男がニィッと笑う。
男の肩に顎を載せ、女もニィッと笑う。
レンコ……レンコ……
生首が呼ぶ。
ズル、ズル……ズル、ズル……
女を背負った男が──亡者が、近づいてくる。
レンコ……レンコ……ズル、ズル……ズル、ズル……
レンコ……ズル、ズル……レンコ……ズル、ズル……
「あっ……あぁ……やだ、来ないで……やめて……止めてよっ! なんで私が──っ‼」
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ」
〈駐在所にて〉
とある県の山中にある営業停止して久しいホテルの中庭で、平廉子は保護された。
匿名の電話で現場に駆けつけた警察官は、中庭で呆然と座り込むと廉子と、男女の遺体を発見した。
男女の遺体は全身を刃物で滅多刺しにされ、足には虎挟みが食い込んでいた。
凶器と思しきナイフは遺体に刺さっていたが指紋は検出されなかった。しかし、すぐ傍に、血まみれのカッパと軍手が遺棄されており、そこから廉子の指紋や髪の毛が検出された。
更に調べを進めていくと、廉子が自宅から少し離れた複数のホームセンターで、カッパやナイフを複数、購入していることがわかった。
廉子は保護された際、外傷はないものの何か大きな精神的ショックを受け、会話もできなかったため病院に収容。その後、徐々に会話が可能になり、犯行を認めるような供述も見られるようになったが、数時間置きに「生首」「亡者」などと言いながら錯乱し、自傷に走ることもあるため、聞き取りはあまり進んでいない。
余談だが、廉子は機嫌がいい時、看護師に交番と駐在所の違いについて語ることがあり、看護師が感心すると意味深に笑いながら「教えてもらったの」と答えるそうだ。
※
「以前から人を殺すことに興味があって、そのためにはどうすればいいかいつも考えていたそうだ。で、親戚の家を取り壊す際、納屋にあった虎挟みを見てピンときたらしい。仕事終わりに心霊スポットに行って虎挟みを仕掛け、数時間後に様子を見に行く──今回のカップル以外にも、過去に三人──カップルと一人で来た男性をこの方法で殺しているそうだ」
「凄いですね」
「おいおい、人殺しを凄いなんて言うな」
「違います。凄いのは
「あぁなんだ、そっちか。何、たまたまだよ。その平廉子に面会した刑事の鈴木さんとは、以前一緒に仕事をしたことがあってな。久しぶりに連絡したら色々話してくれたんだ」
応えながら白守はソファに寄りかかった。
白守は、いわゆる交番のお巡りさんだ。背が高く、癖のある髪と整った顔立ちから、近所のお年を召したお姉さま方からはアイドルのように可愛がられ、子供たちからは、格好良くて話のわかるお巡りさんとして慕われている。
仕事面でも、よく気が利くので、上司からも部下からも頼りにされている。
しかし真面目な警察官とは言いがたく、今もパトロールの途中に、喉が渇いたからと後輩の駐在所でだらだらしていた。
後輩はデスクで書類仕事をしながら、白守の話に耳を傾けていた。
「どうぞ」と後輩の妻が冷たい麦茶を持ってきてくれた。
ブラウスにスカートというシンプルな出で立ちが、とてもよく似合っている。
「ありがとうございます」と麦茶を受け取り、喉を潤す。
「こちらもどうぞ」と後輩の妻が、お茶菓子をローテーブルに置いた。
「そういえば、この駐在所も奇妙なことが起こるらしいな。配属された奴は、半年と保たずみんな逃げ出したって聞いたが、大丈夫か?」
「今のところ出て行くつもりはありませんし、異動届を出す気もありません」
「そうかそうか、何ごともないなら何よりだ。あっ奥さん、お菓子、ありがとうございます。俺、これ好きなんですよ」
「よかったです」と言って微笑み、後輩の妻は駐在所の奥──居住区の方に消えていった。
「ここ、いいよなぁ。街中だけど、そんなに五月蠅くないし……」
「そうですね」
「あっ、でも山が近いから猿が出るんだって? 制服ぼろぼろにされたんだろう?」
「猿というか……まぁ、動物ですね」
そんな取り留めのない話をしばらく続け、お茶菓子を二つほど頂いたところで、「そろそろ行くわ」と言って白守は立ち上がった。
「奥さん、ごちそうさまでした」と奥に向かって声をかけ、硝子張りの引き戸を開ける。
むわっとした空気と行き交う車の音が白守を包み込んだ。
目の前の歩道は閑散としているが、その先の車道は中々の交通量だった。
「白守先輩、お気をつけて」
振り返ると、後輩とその妻が並んで立っていた。
「あぁお前も無理はしないようにな。奥さん、お邪魔しました」
「お気をつけて」と後輩の妻は頭を下げた。
ボブカットの真っ白な髪が、さらさらと絹糸のように揺れていた。
バイクで去って行く白守を見送った夫婦は、硝子張りの引き戸を閉め、顔を見合わせた。
「おやつにしましょうか、月くん」
「お願いします、愛さん」
「新しい包丁で桃を剥きますね」
「楽しみです」
四辻の駐在さん 尾花 @k-obana
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