第48話 自称ロミオに執着されてます。(20)兄編
「ここら辺でいいのか」
「うん」
「わかった」
消毒液を染み込ませたコットンで、耳たぶを拭われる。肌にスースーした感覚が残ると、朱里はにわかに緊張してきた。琉斗の真剣な顔が近づく。ピアッサーが耳にセットされたところで、目をぎゅっと強くつぶった。
「朱里、力抜け」
「う、うん」
「抜けてない、逆に肩が上がってやりにくい」
「ちょっと、怖い」
「お前毎回注射で泣いてたもんな。ならやめるか?」
「ヤダ」
琉斗は呆れた顔をしたかと思うと、さっきまで読んでいた本を朱里の前に広げた。古今和歌集だ。香道には和歌の知識も不可欠となる。
「これでも読んでろ」
「え、ちょっと」
髪を垂らして本を覗き込む朱里の後ろに回り込むと、その体を抱えるようにてピアッサーを耳に構えた。
「ほら、父さんに昔よく読まされただろ。いくらか落ち着くかもしれない」
耳の近くで琉斗の低い声が響くと、なんだかくすぐったかった。気恥ずかしさもあって、それを紛らわすようにページをめくる。適当な和歌を口に出す。
「玉の緒よ……」
「読むだけでいいんだよ、言わなくて」
「だって、父さんからこうやって覚えろって言われたから」
「そうか。ならいい」
──玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
忍ぶることの よわりもぞする
「いッ」
「大丈夫か」
言い終えた直後で針を刺され、肩が跳ねる。朱里は耳を押さえながらも、琉斗を振り返って頷いた。
「片方、今度にするか?」
「ううん、思ってたより痛くなかったから。今、して」
琉斗は目を細めた。そうは言いつつ、朱里は若干涙目だった。その顔が妙に、色っぽい。
「わかった」
息を吐くと、今度は左耳にピアッサーを構える。朱里は前を向くと、今度は意訳を朗読した。
──命よ、絶えるなら早く絶えろ。このまま生き永らえようと、あなたを思う心が弱ってしまうなら。
「式子内親王の和歌だな」
「さすが。なんだか切ない和歌だね」
「……そうだな」
報われない恋を謳っているのに、切なさだけではなくて、力強さも感じた。
こんな風に自分は、強く誰かを想ったりする時が、訪れるんだろうか。
「いっ!」
「よし、終わった。もうお弟子さんたち来るから、出てけ」
「……はーい」
琉斗は本を回収すると、胡座をかいてまた本を読み始めた。
「お兄ちゃん」
「ん?」
朱里は両耳を触って口をもごもごさせると、立ち上がる。そしてしゃがみ込んで琉、斗の顔を覗き込んだ。
「ありがとう」
「あぁ」
満面な笑みでお礼を言えば、琉斗も薄く微笑んだ。部屋を出て廊下を歩く彼女の足取りは軽かった。
朱里の足音が遠ざかると、琉斗は本を投げて畳に仰向けになった。
「……かわいすぎんだろが」
指先に耳たぶの柔らかな感触が蘇る。
長いため息が出た。
「あー、俺も3月からこっちもどる」
「え?離れで暮らすの?」
「いや、母屋の方で。ミオもあっちだし」
「そっか……」
朱里は少し寂しそうな顔をした。戸を叩けばすぐ兄に会えるわけではないのか。
「何だ、寂しいのか。久しぶりに添い寝でもするか?」
意地悪そうに顔を覗き込まれ、朱里は琉斗を睨んだ。小学校に上がる前まで、ずっと彼女は琉斗に添い寝してもらっていた。
「からかうのやめてよ。……んー、ただこの家1人で住むには、広いから。母さんも、たまにしか帰ってこないし」
「まぁ、そうだな」
母は月の半分も家にはいない。朱里は琉斗が寮に入った時からずっと、この家で1人だ。
「でも琉兄とミオくん来たら、賑やかになるね」
「……そうだな」
頷きながらも兄は心底嫌そうな顔をしていた。2人が喧嘩しないか心配だ。
琉斗からお土産でもらった、ほうとうケモナンのぬいぐるみを抱きながら、ベッドに寝そべる。少し、疲れていた。
ミオ君か──。ふと思い立って、鍵のかかった机の引き出しを開け箱を取り出す。そこには、あの夏の写真が入った封筒がしまわれていた。
蓋を開けようとして、止める。
心のさざなみが立つ。頭が重くなる。
朱里は箱を戻すと、再び、鍵をかけた。
ミオが来日する当日、朱里は琉斗と父の3人で空港まで出迎えに行った。いつもよりも丁重に化粧をして玄関を出れば、すでに兄待っていた。じっと見られたかと思うと「もっとラフな格好でよかっただろ」となぜか難癖をつけられた。「似合ってない?」としゅんとして朱里が尋ねれば、「似合い過ぎてるから、問題なんだよ」と訳のわからない事を言われた。父はその傍で「琉斗の方が父親みたいだな」と笑っていた。
「……お、来たみたいだ。ミオ君、こっちだ!」
到着ロビーで待っていると、父が手を振った。いつかのように緊張した面持ちで見れば、キャリーケースを引いた彼が立っていた。
あの頃の彼に比べて、背が高い。ゆうに180cmはある。前はどちらかと言えば、かわいい印象があったが、今の彼は茶色のトレンチコートがよく似合う男前だ。けれど、サイドで分けられたプラチナブロンド髪に、くっきりとした青緑色の瞳は、ミオ・須藤・ロッソ、その人だった。
ミオは、驚いているようだった。じっとこちらを見つめている。朱里ははにかんだ。少し気恥ずかしかった。9年ぶりの再会だ。
すると彼は感極まったように顔を歪め、彼女の元へ駆けよってきた。
『会いたかった。──ジュリエット』
古書の、蔵の香りがする──。
いきなり抱き締められ、朱里は目を見開いた。
驚いたのはその行動だけではなく、とても懐かしい匂いがして、戸惑っていた。前もこうして、抱きしめられた事があるような気がしていた。
だけれど、いつ、どこで。
何も、思い出せずに、胸の中にぽっかりと穴が開く。
私を、抱きしめるあなたは、誰?
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