第46話 自称ロミオに執着されてます。(18)兄編
もうそろそろ皆食べ終わるという頃合いで、朱里がキッチンに立った。食後のコーヒーを淹れるためだ。果物を用意する家政婦の傍で、やかんを沸かす。その間に冷蔵庫の密閉容器にラベリングされた、コーヒー豆を眺めた。
マチュピチュと迷って、今日はハワイのファンシーにした。母は苦味の少ないコーヒーの方が好みだ。
木製のコーヒーミルで、豆を挽く。朱里はコーヒーを飲む時よりも、1番コーヒーの香りを感じる、この瞬間の方が好きだった。
ゆっくりと把っ手を回せば、豆を砕く乾いた音と共に、鮮やかな香りが立ち込める。甘さや酸味に、ファンシー特有のスパイシーさが混じっていた。
ドリッパーへゆっくりと、でも確実に湯を注ぎ始める。円を描くように、中心から外側へ、そしてまた中心に戻る動きで、均等に湯を流す。湯の温度と注ぐ速度に気を配りながら、香り豊かなコーヒーが一滴ずつ抽出されていく様子を眺めた。
彼女に取ってこの作業は、1日の終わりの儀式に近い。他の香りも、雑念も。全てをリセットしてくれるような、気がするからだ。
朱里はドリッパーを外し、香り立つコーヒーをそれぞれのカップに注いだ。3人のコーヒーカップはバラの描かれたヘレントだが、朱里のカップは違う。
金彩の装飾が施された薄紫の、ベネチアングラス。母がイタリアへ出張に行った際、18の誕生日祝いにと朱里に買ってきてくれた物だった。それまで父から「両親から」と誕生日プレゼントを渡されることはあっても、母からもらうことはなかった。
彼女にとってこのカップは、同時に送られたマキネッタと共に、唯一無二の宝物だ。
「お待たせ。……お母さんは砂糖1つでよかったよね」
「えぇ、そう。ありがとう」
「父さんと琉兄は、そのままね」
「あぁ」
「⋯⋯ん」
皆はそれぞれのコーヒーカップを受け取り、口に運んだ。コーヒーの香りが、部屋全体を穏やかな雰囲気で包む。家族はいつも、皆バラバラだ。けれど少なくともこの瞬間だけは、同じものを共有している。
コーヒーの深い味わいと共に、普段息の詰まる家族の距離感を、少しだけ忘れることができる。
──やっぱり、朱里のコーヒーは美味しいわね。
そうやって母に微笑まれると、朱里ははにかんだ。
唇の端が震える。胸にひしめいたのは、強烈な幸福感だった。思わず俯いた彼女を、兄が怪訝な顔で見ていた。
普段母は朱里の成績が良かろうと、弓道の大会で成績を残そうと、薄く口角を上げて「良かったわね」と言うだけだった。その母が、唯一手放しで褒めてくれたのが、コーヒーだった。
それもあって、朱里はコーヒーが、大好きだった。
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