第35話 自称ロミオに執着されてます。(9)後輩君編
ミオは日本へは初めて来たそうで、とても緊張していた。日本語に関してはうまくしゃべれないものの、聞くのはそこそこ分かるようだった。朱里はというと、ミオの言っている英語はまったくと言っていいほど分からなかった。なので、来日したその日の夕食は、主に父親同士が思い出話に花を咲かせるのを、聞くだけだった。
母はあれだけ不満を言っていたが、そういう態度は彼らに一切見せず、始終張り付いたような微笑みを浮かべていた。
一方、兄の琉斗は、今だ不満なのか、冷めた目をして黙々と食事をしていた。彼は大体家族でそろって食事をする、というより、母がいる時は大体不機嫌そうなので、これが通常とも言えた。
日本食はあまり慣れないんじゃないか、などと気になってミオを見ると、彼と目が合った。最初から、朱里を見ていたようだった。それを不思議に思いつつ、ぎこちなく微笑むと、彼は満面の笑みを浮かべた。
年上ではあるけれど、笑うと頬にえくぼができるのが、少しかわいい。
「あ、琉兄!それ私のお刺身」
つられて笑うと、目の前を遮るようにして皿から琉斗が鮪を取っていった。
「……早く食わない奴が悪いんだよ」
そう平然と言う兄を、朱里は睨んだ。
なんでそんな意地悪するんだろう──。いつも朱里に対しては優しい兄だが、時々理由もなく機嫌を損ねる時がある。朱里も琉斗の皿に手を伸ばすと、代わりに彼の好きな鯛を取った。
「あ、こら」
「こらじゃないよ。先にやってきたの琉兄だもん」
そう言って一口で食べると、舌を出す。そうすると兄はため息をついて、笑った。
「そうだな。……俺が悪かった」
そうやって朱里の顔を覗き込みながら、謝ってきた。
「もう。そう言うなら最初からやらないで」
兄からそっぽを向く。そうしてまた、ミオと視線があった。先ほどとは違い、彼は真顔だった。それから目を細めて微笑んだ。
笑っているのに、少し、圧のようなものを朱里は感じていた
朱里は普段であれば、どちらかというと内向的な性格だ。友達を作ろうと思っても、恥ずかしさが立って自分からはあまり話しかけにはいけない。ましてや男の子になんて、なおさらのことだった。
だけれど、その翌日から朱里は積極的にミオに話しかけていった。なぜなら事前に、ミオが母親がいなくなって、落ち込んでいるという話を聞いていたからだ。
突然出て行っちゃうなんて、なんてひどいお母さんだろう。
ミオ君は、私より、かわいそう──。
そう思うと、彼をどうにか元気付けたいという思いが、朱里の中で沸き立った。単語で発せられる日本語と、イラスト付きの英会話の本を指さしながら、2人はコミュニケーションを取っていった。
ミオが家に来てすぐの頃だったと思う。朱里の部屋に招いた際、部屋のピアノを見て彼は目を輝かせた。
なにか弾いてほしい──、とミオにジェスチャーでせがまれた。けれども、人に聞かせるほどピアノは得意ではなかった。手を振って断ってから、代わりにミオに弾いてほしいとお願いした。そうすると、彼は大きくうなずいた。
ピアノの椅子に腰かけると、彼から笑顔が消えた。そうかと思うと、傍らに立つ朱里を見上げて、少し熱に浮かされたような顔をした。それが大人びていて、朱里は心臓が、どきりとした。ピアノに向き直ると、彼が弾き始めたのは、朱里が聞いたことのない曲だった。
それは、とても切なくて。悲しくて。それでいて、懐かしい曲。
初めて聞いたはずなのに、ずっと前から、知っているような──。
ミオが曲を弾き終わると、朱里は少し呆けた心地になりながら、拍手をした。
「ミオ君すごく上手だね、ピアノ!……さっきのはなんて曲?」
ミオは少し照れたようにはにかんでから、「ロミオとジュリエット」だと英語で答えた。それを、朱里は聞き取ることができた。
「ロミオとジュリエット。……聞いたことある。イギリスのお話だよね?」
「Yes,Umm. ……ボク、ロミオ。ジュリ、ジュリエット」
「え?」
ミオは自分自身と朱里を交互に指さしながら、爽やかにそう言った。少し考えた後、自分たちの名前がその登場人物に、とても似ていることに気が付いた。
「あ、そっか。ミオ君はロミオで、私がジュリエット。確かに名前、似てるね」
声を上げて笑った後、少し困った顔をする。
「……でも、あのお話、悲しい話だよね?どちらも最後は死んじゃうんでしょ?」
そうだ、読んだことはないけれど、ロミオとジュリエットは悲劇の物語だと知っていた。
『そうだね。ボクたちが例え2人の生まれ変わりだとしても。
……今度はきっと、ボクが悲劇になんかさせないよ』
一語一句単語を切るように英語を言われても、朱里にはまるでその意味が分からなかった。
ただ、そのエメラルドのような瞳がやたらに輝いて見えて。思わず見入ってしまっていた。
「んー、っと?」
『あ、ごめんね。日本語じゃうまくしゃべれなくて。ボク、日本語しゃべれるようにがんばるから。そうしたらまた伝えるね?』
顔を傾けて手を取ると、そう英語で何かを熱心に伝えてきた。その姿に、朱里は気圧されて分からないながらも頷いた。
そこで、心底思った。
私がもし英語がもっとしゃべれたら。
彼が言ったこと、伝えたいことが、分かるのに──。
残念なような口惜しさが、胸の中に広がっていく。それから手を取られるままに、庭に出て2人で散歩に出かけたように思う。
その日以来のミオとの記憶を、朱里は、すべて無くしていた。
彼が帰る日の前日、彼女は蔵の中で倒れ意識を失った。
1日昏睡して目覚めると、きれいにその間の記憶が思い出せなくなっていた。
今でもそうだ。思い出そうとすると、途端も靄がかかってしまう。あの蔵も、あれ以来鍵が掛けられている。
それでも、彼と話がしたいと心の底から思った記憶だけは、しっかりと残っていた。
それが、今の学部を選んだ理由だった。
的を見据え、矢を放つ。
放たれた矢は、爽快な音を上げることはなく。
安土にぐしゃりと、刺さった。
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