第34話 自称ロミオに執着されてます。(8)後輩君編
晴樹はその後も放った矢を全て的中させた。
彼ほどの実力者であると中るのはほぼ確実で、より図星に近づけるか、ということが課題になる。
晴樹と入れ替わり、今度は朱里が矢を放つ番になった。
静かに歩み、足踏みをし足を開く。的を見据え、弓を掲げる。
射法八節の一連の動作を、丁重に滞りなくこなす。朱里はその所作の的確さと美しさで、度々、技能優秀賞を受賞している。
だからかなのか、晴樹は本当によく朱里の射法を見ている。今だってそうだ。彼がこちらを凝視しているのを、背中で感じていた。彼には確立された自らの射法がある。だから、自分から学ぶことは何もないのではないか、と朱里は思う。晴樹は今や学生弓道会のレジェンドのような人物だ。そういう人に参考にされるという事に、未だ慣れずにいた。
正射必中の言葉の元、“会”をしっかり保って放たれた矢は、的を貫いた。
「よっしゃー」
的中させた時の、部員達の掛け声が背後から上がる。放ち切った“残心”の姿勢で静止する。その後の二射目も的中した。道場内に的紙が破ける爽快な音が響く。
三射目になり、弓を掲げ弾く段階になり、朱里の頭にはある事が浮かんでいた。明日の、家族での食事のことだ。
この間のお正月の時も気まずかった。兄は目に見えて不機嫌だったし、母は母でずっと兄の顔色を窺っているようで、嫌だった。父だけが全く気にする様子もなく、食事を続けていた。そしてこの他にも、朱里には家族で集まりたくない理由があった。
それにしても、話したい事って何だろう──。父の言葉を思い返していた。そうして口元に矢を下ろしていく段階で、悟った。
これは外す。
そう確信を持って放った矢は的を、射ることはなかった。弓道で最後に必要とされるのは、体力でも、技術力でもない。精神力だ。
四射目になり気を立て直さなくては、と思っても、朱里の頭の中はぐちゃぐちゃと色んなことがうるさかった。
食事のこと、雪の彼氏のこと。
新学期のこと、そして就職のこと。
4月から朱里は大学3年生だ。就職活動を控えていた。といっても、今の段階で入りたい企業、ましてや、その業種も全く決まってはいなかった。
朱里がなぜ、国際日本学部を選んだかといえば、英語をより深く学ぶためである。将来の仕事のためかといえば、違っていた。一応面接の際は、国際貢献活動を将来行うためであるとかそれらしいことは言ったが、理由はもっと小さなことだった。
もしまた”彼”に出会うことがあったなら。
今度は、もっといろんな話がしたいからだ。
もう10年近く前の話になる。父親の友人であるイギリス人の親子が、夏休みの間ホームステイをすることになった。朱里は当時小学5年生だった。丁度それは家族揃っての夕食の最中だったと思う。父が例のごとく、唐突にそのことを告げた。
その父親は日系イギリス人であるため日本語を喋れるそうだが、13歳の息子は聞き取りが少しできる程度とのことだった。
朱里は不安だった。英会話教室に通っているとはいえ、日本語の喋れない外国人の少年とコミュニケーションが取れるのか、まったく自信がなかった。どんな子なのか、父に尋ねる。父は隣で母が”琉斗は受験なんですよ”と目くじらを立てるのをよそに、飄々と答えた。
「名前はミオ君だな。元々明るい子なんだそうだが。去年母親が出て行って、それ以来ずっと落ち込んでるんだと。今回来日するのは、まぁ父親の仕事の付き添いでって名目だが、気分転換させたいらしい」
「……そっか」
お母さん、いないんだ。そうか、その子は”かわいそうな子“なんだ──。浮かんでいる感情とは裏腹に、朱里の口角は上がっていた。隣で不満そうに話を聞いていた兄の琉斗が、そんな妹の顔を訝し気に見ていた。
ミオ親子が来日する当日、朝からの香道の集いが行われた。朱里も朱色の着物に身を包み、集いに参加していた。
朱里は着物を着るのは好きではない。窮屈だし、着物特有の樟脳の匂いが苦手だったからだ。多少の反抗期も相まって、始終不機嫌だった。
集いが終わって、ようやく脱げると思ったら、父親がこのままで親子を出迎えろと言ってきた。そう言われて、口を尖らせたが、父には逆らえない。
ほどなくして、親子がタクシーでやってきた。
朱里は頭の中で英語での挨拶を繰り返していた。緊張した面持ちで父の後について玄関へと向かうと、親子がすでに母屋の前で待っていた。最初に見えたイギリス人の父親の顔は、日本人そのものだった。しゃべっているのも、すこし癖があるが流暢な日本語だった。そして、その傍らに立っている人物を見て、朱里は目を瞬かせた。
それは綺麗なブロンドの髪の少年だった。その柔らかな髪の1本1本が、夕日に照らされて、金糸のように光って見える。なによりもその瞳が印象的だった。まるで宝石のような緑の目。絵本の中の王子様みたいだ、と思った。
「ほら、朱里。固まってないで、ミオ君に挨拶しなさい」
「あ、はい」
そう父に促されて、草履でぎこちなく彼の前に立つ。ミオの背丈は少し朱里より高いくらいで、そんなに変わらなかった。
「My name's Julie Eto. Nice meet you」
おずおずと、手を差し出す。
「ジュリ、エット……」
口の中で反芻するように、彼は朱里の名前を呼んだ。
呼びかけられたその瞬間、鼓動が速くなっていくのを感じた。
「ボク、ミオです。ヨロシク……ジュリエット」
柔らかな微笑みと共に、彼は日本語で挨拶をしてくれた。手を握られる。彼の手は冷たかった。
「よろしく。……ミオ、くん」
朱里はミオを見上げて、同じく微笑んだ。そうすると、一瞬、その瞳に暗く影が落ちた気がした。
辺りが暗くなってきたせいだろうか。
笑っているのに、泣き出しそうな顔を、彼はしていた。
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