第28話 自称ロミオに執着されてます。(2)
その夜、朱里はひどく疲れて自分の部屋で布団を被るとすぐに眠ってしまった。
しかし、まどろんだ意識の中、何かの物音と、誰かの叫び声が聞こえて、目が覚めた。カーテンの隙間から溢れる月の光を頼りに、目を凝らして時計を見る。時刻は0時を過ぎていた。
明かりをつけるのはなんだかはばかられ、暗い階段を半ば夢見心地で降りて行った。すると、廊下の先に、兄らしき人影を見つけた。
「……琉兄?」
意識がまだ覚醒せず、視界もおぼつかないままで、朱里はそう呼びかけた。琉斗らしき人影が近づいてきた。その顔は、よく見えなかった。
朱里は違和感を覚えた。その人影の香りは、いつもの兄の、琉斗の香りではなかったからだ。
酒と、煙草と、あの母の香り。そこに、辛いような、苦いような匂いが混じっていた。
その端正な顔が歪む。
「……なんか、くさい」
思わずそう言ってしまった。自然と、言葉に出てしまった。その人影は、歩みを止めた。そうしてよたよたと朱里の隣をすり抜けて言った。すれ違う時彼からは微かに、しょっぱい香りがしていた。
朱里は自分が発した言葉の残酷さを理解しないまま、居間から聞こえてくる声に気を取られていた。誰かがすすり泣いている。
お母さんの声だ──。そう認識すると、途端彼女の頭は冴えてきた。微かに綻んだ口の端をきゅっと結んで、居間に向かう。
居間に入るなり、ひどい匂いがした。先ほどくさいと言った匂いの元が、そこにいた。やはり母だった。母である幸子は床に突っ伏しながら、泣いていた。
「母さん、彰斗さん……みんな、みんな、どうして置いて行っちゃうの……」
うわ言のように何かを言っている。朱里は意を決して、幸子に近づいた。その匂いに思わず、胃液が上がりそうになったが、我慢した。
「……お母さん、辛い?」
そっとその背に手を置いて、そう呼びかけた。正直言えば、怖かった。
なぜだが、幸子は朱里に対して、敢えて興味を持たないようにしているようだった。話をすれば、話してくれるし、ちょっと困ったような顔で微笑むこともある。けれども、兄である琉斗に向ける笑顔とそれは、雲泥の差があった。
幼心に、朱里は自分が母に愛されていないことを知っていた。
そのことを知っていても、母を嫌いになどなれなかった。
朱里は母が、大好きだった。
そう呼びかけられて、幸子は顔を上げると、驚いた顔をしていた。
「……朋子?」
知らない名前で呼びかけられても、朱里は冷静だった。幸子が時折自分に違う人のことを重ねて、妬ましいような、哀れなような、愛しいような視線を向けることを、朱里はこの齢で感じてしまっていたからだ。
それが、誰なのかということは、あまり問題にはならなった。無関心でいられるよりも、どんな感情であれ母が視線を向けてくれることが、嬉しかった。
「あぁ……、違う、朱里。ごめんなさい、起こしちゃった?」
申し訳なさがあるのか、名前を呼ぶ声はいつもよりずっと優しかった。
お母さんが、私を、見てくれている──。
朱里は顔を横に振りながら、微笑んだ。その顔を幸子は、少し呆けたように見つめていた。その様子に、なおも朱里は口角を上げると、幸子を抱きしめた。
「じゅ、り?」
──お母さん、大丈夫。いつも、私がそばにいるから。
「あぁ……朱里、じゅりごめんなさい、朱里。ごめんなさい、ともこぉ……!」
その言葉を聞いて、幸子は朱里を強く抱きしめ返すと、また堰を切ったように泣き始めた。
抱きしめられて、ひどい悪臭に吐き気がした。それでも朱里は、笑っていた。
可哀想なお母さんには、私だけ。そう、私だけが必要──。
その灰色のつぶらな瞳は、煌々と輝いていた。
それが栄藤朱里にとって、1番昔に心の底から、満足した記憶だった。
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