第21話 私をジュリエットと呼ぶ、自称ロミオの留学生。(9)
服が水分を含んで重くなっていく。徐々に体が水の中に沈んでいく。先ほど彼女から香った、花の香りがする。そこから泥まみれの死の底へ、沈んでいった。
泥の底で君に会いたくて、手を伸ばす。
どうしてこんな運命を選んで、僕らは生まれて来たのだろう。
いいや、これは決めて生まれた宿命だ。それが望まない運命ならば、今度こそすべて変えてみせる。
君の、君だけのために。
生まれ変わっても必ず君に巡り会える。
それが僕の、宿命だから──。
遠くでサイレンの音が聞こえる。
そこで、ロミオは目覚めた。
「あ、起きたのか!……大丈夫かミオ」
「……Dov'è la mia Giulietta?
(ボクのジュリエットはどこ?)」
「お前...大丈夫か、ミオ」
「Mio? Sono Romeo
(ミオ?僕はロミオだよ)」
「……本当に何言ってるんだお前。あ、すみません!こいつもです!」
「意識は」
「今さっき戻りました」
目覚めたばかりの時ミオは混乱していたが、救急隊の質問を受けているうち、意識がはっきりとした。最後は日本語で答えられた。彼は本人の意思と、救急隊の判断で搬送はされなかった。しかし朱里はそのまま救急車で病院へ運ばれ、その日は目覚める事がなかった。
その夜、ミオは1人で母屋の縁側に座っていた。
このままジュリエットが目覚めなかったらどうしよう──。そう思うと胸が張り裂けそうだった。ついこの間、印刷してもらった朱里の写真を見つめていた。笑顔の朱里。倒れた時の彼女の青白い顔を思い出す。泣きそうだった。
彼はおもむろに、母の写真が入った皮の写真入れを取り出した。そしてその写真を取り出すと、彼女が綺麗だと言ってくれた蔦唐草のライターを付けた。するとその火で母の写真を炙って、庭に投げた。笑顔の母は、あっという間に黒い灰になって、風にさらわれて行った。彼はその時、蛇を見捨てたあの時と同じ目をしていた。それから少しだけ微笑んで、朱里の写真を皮のケースの中へとしまい、胸元に抱いた。
その時から朱里はミオにとって、ジュリエットであり、聖母マリアになった。自分と結ばれる運命の人であり、他の誰も汚す事のできない清らかな存在。
ミオは伏せた目を見開く。その清らかさを脅かす存在を思うと腹が立った。朱里の兄、琉斗の事だ。彼は妹である朱里に、恋している。とても汚らわしい。だけれど琉斗とその母親との会話を聞くに、理解できない点が多々あった。
──キヒラ。──本当の娘って、琉兄は違うの?
──あなたとあの子は、ちゃんと血が繋がっている。
ミオは部屋に戻ると、ローマ字であの時の会話を覚えているだけ書き出した。
翌日、帰国の日になっても朱里は目覚める事なく入院したままだった。ミオと琉斗は一言も会話する事なく、互いを睨みつけながら別れた。イギリスへ帰国し、くたくたの状態で自宅に着いた時、父の携帯電話が鳴った。朱里の父からの連絡だ。固唾を飲んで電話する父をミオは見ていた。電話を切った後、父は明るく朱里が目覚めた、とミオに告げた。その言葉に、ミオは顔を明るくさせた。しかし、次に父から発せられた言葉に、顔の色を彼は失った。
朱里はあの蔵での、というよりミオと過ごした数週間の記憶を、失っていた。
にわかには信じられなかった。あの永遠の誓いを、彼女が忘れてしまうなんて。しかしそれをミオが確かめる手立てはなかった。
それからミオは父に頼んで、日本語の家庭教師をつけるなどして必死に日本語を勉強した。あの時の会話を、正確に理解するためである。そして、香道の家元である栄藤家の家系図や、彼らの母が経営している紀平香堂のことも調べた。幸いにも、朱里の両親は著名人であったため、日本語で検索すれば簡単に知る事ができた。そして、彼が朱里と琉斗の関係性について、ある仮定に至ったのは、それから4年後の17歳の時だった。
おそらく彼らは実の兄妹ではなく、従兄妹であるらしかった。その事に気づいた時、ミオはなおのこと顔を歪ませて失笑した。琉斗は、ロミオとジュリエットのディボルトそのものだったからだ。人の恋路を邪魔し、あまつさえロミオの親友を死に至らしめた憎き敵。実際、蔵の中で琉斗達があんな話さえしなければ、朱里が記憶を失う事はなかっただろう。
あの夏から9年経った。その間あの男は彼女が美しく成長する様を、ずっと近くで見ていたのだろう。ミオは朱里を思うのと同じぐらい、そんな琉斗の事を、恨めしく思った。
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