第20話 私をジュリエットと呼ぶ、自称ロミオの留学生。(8)

「私には、ミオだけが必要」


 そう言って微笑む朱里の顔は、ひたすらに美しかった。まさに彼女はミオにとっての、乙女のマリアだった。


「ジュリ……!」


 思わず彼は朱里を抱きしめた。温かくて柔らかい。首元に顔を寄せると、またあの香りがした。なんだろう、なにか、花のような──。


“琉斗!どういうことなの!”


 突然、1階から怒号が聞こえてきた。2人は弾かれるように離れると、頷きあって、座った状態でそっと2階の床の吹き抜け格子から下の階を覗いた。1階の電気がつけられる。見るとそこに琉斗とその母親の幸子がいた。何か揉めている。


“どうして?あなたは紀平の人間なんだから紀平を継ぐべきでしょう!?”


「きひらの人間……?」


 ミオは2人の会話が全くと言っていいほど聞き取れなかった。隣の朱里が眉を顰めながら2人の会話を聞くのを、そわそわした心地で見守っていた。


“そっちはあなたの本当の娘の、朱里に継がせてください。もう、決めた事なので”


「本当の娘って……。琉兄は違うの?」


 朱里のその呟きが、とても引っかかった。琉斗は違うとは、どういう意味だろう。


“……琉斗、あんたまさか、朱里のこと“


 そう言われて、琉斗が顔を青くしたのが分かった。そこで細かいニュアンスは分からなかったにしろ、ミオは彼のその反応を見て確信した。


 琉斗は朱里が好きなんだ。妹と、としてではなく。

 兄なのに。血が繋がっているのに。なんて汚いんだろう。

 

 ミオは顔を歪ませた瞬間、母親が絶叫した。

 

“あぁまた汚れた女が私の大切なものを奪ってく!汚ない汚ないきたない!”

 

 汚いって朱里の事だろうか。こんな綺麗な彼女に、なんて事をいうんだ──。母親のその言葉に、ミオは怒りが湧いた。


“おい!朱里は汚くなんてない……!あんたよくも実の娘にそんな”

“実の、……娘?あははははは!”


 母親の高笑いを聞いて、朱里の肩がびくりと跳ねた。顔色が悪い。


“あの子はね、あの女はね、私の娘なんか、じゃない。血なんてこれっぽっちも繋がってない!”


 それを聞いた瞬間、朱里が目を大きく見開いた。


「ほんとうの、……娘じゃない?お母さんの娘じゃ。そんな……そんなの」

「……ジュリ?大丈夫?」


 朱里はがたがたと震え出した。いつもは薄桃色の唇が真っ青だ。

 大粒の涙が、その瞳から溢れていた。そうして彼女は天井を見上げてこう言った。


「ほんとうに、私……いらないこども、だった」


 彼女は、微笑んでいた。悲壮であるのに、満ち足りたような表情をしていた。


「ジュリ……?」


“でも安心して!あなたとあの子は、ちゃんと血が繋がっている。良かったわね?”

“おまえ、なんかに。お前なんかに何がわかる!”


 遠くで彼らの声を聞きながらも、朱里から目を離せずにいた。

 悲しいはずなのに、どうしてそんな顔をするの──。 


 ミオは短剣で胸を突いた時の、ジュリエットを思い出していた。


 朱里の瞳が閉じられたかと思うと、後ろに大きくのけぞって倒れた。


『ジュリ?……ジュリ、ジュリ!ジュリエット……!!』


 ミオは朱里のそばへ駆け寄った。倒れた彼女の顔から、見る見る血の気が失せていく。ミオはパニックを起こしていた。


『死なないで……!ジュリエット!僕を置いてかないで……!!』


 彼女に縋り付くと泣きながらそう訴える。その手はとても冷たかった。さっきまであんなに温かかったのに。


「朱里!」

「あぁ朱里!」


 騒ぎを聞きつけて、琉斗と母親が、朱里に駆け寄った。


『ジュリエット……!』

「……ッ!動かすな!お前朱里に何をした……!」


 琉斗がミオの肩を掴んで正面を向かせた。


『何もしてない!君たちの会話を聞いていたら、ジュリエットが、急に震えだし、て……』


 苦しい、眩暈がする──。そう話していて、ミオは急に息ができないような感覚に陥った。首の奥が詰まる。息を吸うばかりで、すごく苦しい。


『たお、れ……』


 うまく吐き出せない。苦しい、嫌だ、苦しい──。

 そこでミオは、意識を失った。


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