第9話 優しいけれど、過保護な兄(6)

 琉斗は櫛で朱里の髪をすくいながら、丁寧にドライヤーを当てる。自分の癖のある髪とは違い、朱里は直毛で芯のある髪をしている。髪も同じ黒だが、鴉の羽のような青み掛かった黒さとは違い、彼女はやや赤黒い。

 似ているようで、似ていない。鏡に映った自分と、朱里を見ながらそう思う。

 ドライヤーの音だけがする部屋で、琉斗は目の前で飛んでいたのにも関わらず、唯一叩き落とせなかった“虫”の事を思い出していた。


 ──おぉそうかそうか。良かったなミオ君!

 そう、ミオ。

 ミオ・須藤・ロッソのことだ。


 それは中学3年の夏のことだった。当時、琉斗は私立中学に通っていたが、都立の高等専門学校に入学すべく、受験勉強に励んでいた。その高専に学びたい専攻コースがあるから、とは建前で、本音はそこの学生寮に入るためだった。

 母の、自分に向ける目線が耐えられなかった。けれど、1番の理由は違う。その理由は朱里にある。

 当時朱里はまだ小学5年生だった。まだあどけなさが残る彼女だが、これからどんどん綺麗に成長していく事は確約されていた。その姿を間近で見続ける事が、自分にとって毒になっていくのを、琉斗は危惧していた。自分を律する目的で、彼は寮に入る事を希望した。

 当然、母は猛反対するだろうから、秘密だった。先に父を説得した。この栄藤家で、絶対の決定権を持つのは父の寿雄だ。説得するにあたり、琉斗は自分が瀧由流を継ぐ事を父に宣言した。順当にいけば、瀧由流は朱里が継ぎ、琉斗は実の父が代表取締役だった紀平香堂を継ぐはずであった。けれど、紀平香堂は今は幸子のものだ。琉斗はそんな所に入る気も、実の父の”代わり“になる気も、毛頭なかった。香道の厳しい稽古の方が、彼にとっては何倍もましだった。

 これは育ての父である寿雄にとっても、悪い提案ではなかった。朱里は多少の反抗期もあり、この頃の香道の稽古に身が入っていなかった。娘には香りを聞き分けられる天賦の才があるにしろ、所作の細やかさや稽古に対する勤勉さは、琉斗の方が上だった。芸道においては、才能より、努力が重要視されることの方が多い。

 高専入学後、週末は稽古を受ける事を条件に、父は琉斗の寮生活を許可した。

 父が許可したのだから、母が何を言ってこようと、この決定は覆らない。母にばれるのは時間の問題だったが、琉斗は安心して勉強に集中する事ができた。


 少なくとも、あいつが来るまでは。


 夏休みに入る前週、父が突然にイギリスから親友とその子供が来日し、母屋の方で1ヶ月ほど滞在する事を告げてきた。受験を控えた大事な夏だというのに、外部の人間が、それも外国人が母屋であれ滞在するというのは、琉斗にとってはあまり良しとする所ではなかった。しかもその子供は、13歳の息子だという。その時点で嫌な予感はしていた。

 彼らがイギリスから来日するその日、母屋で香道の集いが行われていた。琉斗は勉強があったので参加しなかったが、朱里はその名前に合った朱色の着物に、唐草紋様が施された金色の帯を締めて、集いに参加していた。着物を着ている時の朱里は、多少不機嫌なのもあり、いつもより表情が固い。それが返って大人びた印象を与えて、綺麗に見えた。


 夕方近くだろうか。集いが終わったようで、客人たちが母屋から去っていく足音が聞こえ、それから半刻もしない間に、正門にタクシーが着いた気配があった。琉斗は区切りのいいところで、シャーペンを置くと、靴を履いて母屋に向かった。

 丁度、朱里と父が、イギリスからの客人を出迎えているところだった。イギリス人と聞いていたが、その父の顔は日本人のそれで、話しているのもネイティブの日本語だった。ただその息子の方は違っていた。


 プラチナブロンドの柔らかい髪に、はっきりとした端正な目鼻立ち。エメラルドにも似た緑色の瞳が印象的だった。


 ミオ・須藤・ロッソ──。彼は、その名前からも分かる通り、父が日本人、母はイタリア系イギリス人の、ダブルだった。


 ミオは、固まっていた。その瞳が夕日に照らされてなのか煌々としていた。その視線の先に、朱里がいた。朱里は彼の事を、やや緊張した面持ちで見つめていた。ミオが、息を呑むのが分かった。彼は完全に朱里に見惚れていた。


 あぁ、だから嫌だったんだ──。琉斗はミオのその様子に顔を歪ませた。払い落とさねばならない虫が、増えてしまった、と思った。

 


「終わったぞ」

「ん、ありがと。やっぱり琉兄にやってもらうと違うね。すべすべ。美容師になったら?」


 リスみたいにアイスのコーンの部分を齧って食べ終えた朱里が、そう言って琉斗を振り返った。


「エンジニアなんだよ、もう。……ここ付いてるぞ」


 朱里の口元に、コーンの屑が付いていた。


「え、ここ?」


 朱里は付いているのと反対側の口元を拭った。


「違うこっち」


 琉斗は無骨な親指で朱里の口元を拭うと、おもむろにそれを口に含んだ。

 甘い──。そう、思った。


「もう、子供じゃないから。琉兄いっつもそう」


 朱里はムッとした顔でそう抗議した。少し照れているようで、その姿がかわいかった。


「……髪乾かされてるやつが何言っても、説得力ないな」

「そうだけど、もう!」


 散々振り回したのだから、これぐらいは許してほしい。


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