第6話 優しいけれど、過保護な兄(3)

「おぉそうかそうか。良かったなミオ君!」


 思わず、琉斗は父の方を振り返った。父がいきなり大声を出したからではない。ある人物の名、を口にしたからだ。

 冬なのに、冷たい汗が背を伝った。


「あぁ、その件は大丈夫だ。また決まったら詳細は、あぁ。メールで。うん、それじゃぁまた」


 父は上機嫌で、電話を切った。


「琉斗、お前ミオ君覚えているか?ほら、10年前だったか。うちで夏の間ホームステイしてたろ?」

「忘れる……わけないじゃないですか」


 あぁ、やっぱりあいつのことだった──。明るく言う父に反して、琉斗の顔は影を落としていた。


「そうか。うん、来週の金曜日、なにか用事あるか?」

「金曜?……確か、なかったかな」

「うん、久しぶりに家でみんなで食事しよう。話がある。確か、幸子もその日帰ってくるはずだ。朱里にも伝えておくな。松江さんに何用意してもらうかな」


 松江さんとは、栄藤家の家政婦の事だ。


「……すき焼きがいいと思いますよ。この間朱里に奢れってせがまれた」

「そうか、じゃぁそうしよう」


 そう答えながら、琉斗は再び池を見つめた。廊下に落ちていた小石を投げ入れる。池の鯉が一斉に餌でもないそれを奪い合っていた。その様がひどく醜いな、と思う。心が、とても重くなるのを感じた。


 迎えた約束の金曜日。朝から琉斗は憂鬱だった。シャワーを浴びて出ると、2週間前に知り合った女がすでに着替えと化粧を終えて携帯を見ていた。

 この状況で何の説得力もないが、琉斗はこれまで付き合ったことが無い。好きだと言ったこともなければ、付き合ってほしいと言われて頷いたこともない。ただ、目が合って何の気無しに微笑んだら、相手から言い寄られて、それを拒まなかっただけである。ひどい男だが、寄ってくるのも大概ひどい女だった。ただ、そういう関係になる前に、必ず確認することがあった。

 その女の、片手に握られていた物を見て、琉斗は眉をひそめる。


「おい。煙草は吸わない、って言ってたよな」


 それは、煙草を吸ってるか、否か。

 琉斗は女の名前が何だったかひどく曖昧だったので、そう呼びかけた。女は悪びれずに笑った。


「うん。これ、電子だから」


 琉斗はため息をつくと、女のバッグを掴んで玄関の外に投げた。女は血相をかえて外に出ると、何すんの、と叫んだ。

 彼はひどく冷たい顔をした。


 「俺、煙草吸ってる女と嘘つきは嫌いだから」


 そう言って扉を閉めて鍵をかけた。戸を叩く音とチャイムが何度か聞こえ、最後にそれを蹴る大きな音がした後、靴音が遠ざかっていった。再びため息をつくと、濡れ髪のままベッドに横になった。


 ──彰斗さん。


 嫌な記憶が呼び起こされて、思わず目を強くつぶる。

 電子であれ何であれ、琉斗は煙草が嫌いだった。もっと正確に言えば、煙草を吸っている女を憎んでいた。


 元々、琉斗は伯母である幸子の事が好きだった。自分に会うといつもおもちゃを買ってくれたし、かわいいと頭を撫でて甘やかしてくれた。けれど、そんな叔母が“母”になってから、琉斗は幸子の事を嫌いになっていった。

 幸子は基本優しかったし、むしろ実の娘である朱里以上に琉斗を溺愛していた。

 ただ、言い間違えたり、幼な心の反抗心で彼が“お母さん”ではなく“おばさん”と呼んだ時は、豹変した。

 「何でお母さんと呼ばないの」と激昂した後に、さめざめと泣くのだ。琉斗はそんな彼女の様子に、幼くも引いた。反抗して頑なに呼ばない事もあったが、埒が開かないので、6歳にして、諦める、という事を彼は学んだ。

 「お母さんごめんね」と、仕方がなく呼びかける。

 「ううん、いいのよ」と、すると幸子は笑顔になって、決まって彼の頬にキスをする。朱里に対しては頭は撫でたりはすれど、そんな事は決してしないのに。その生暖かい感触に、毎度悪寒がした。たけれど耐えるしかなかった。拒めば“母”はまた泣く。それがひどく面倒くさかった。この頃から、琉斗はあまり笑わなくなった。

 

 それでも、彼は朱里といる時だけは、心の底から安らいでいた。一緒に絵を描いたり、本を読んだり、公園で走り回ったり。名前を呼ばれるだけでも、自然と笑うことができた。琉斗の中で、朱里の存在は日増しに大きくなっていった。無意識に閉じて結んだはずの、心のお絵かき帳の紐が、ゆっくりと解かれていくのだった。

 


 決定的な事が起こったのは、琉斗が13歳の時だった。その年、紀平の祖母、幸子の母が亡くなった。

 祖母の葬儀を終えた日の真夜中、琉斗が喉が渇いて居間に行くと、灯りが付いていた。部屋でしか吸わない幸子が、酒を煽りながら煙草を吸っていた。

 「どうして、みんな、置いてっちゃうの」と、呟きながら、机に突っ伏して母が泣いていた。その頃、反抗期もあり、あまり母とは話さなくなっていた琉斗だが、流石に哀れだった。

 「母さん、風邪ひいちゃうよ」そう、呼びかけた。その声に幸子は振り向いて琉斗を見ると唖然とした顔をした。そして、立ち上がっていきなり琉斗の顔を両手で包んだ。琉斗は突然の母の行動に、固まってしまった。そして彼女は笑ってこう呼びかけた。

「彰斗さん……」

 それは琉斗が忘れかけていた、実の父の名前だった。

 そして唇を重ねられた。

 琉斗にとって初めての口付けは、どうしようもなく苦く、臭く、生暖かいものだった。


 気持ち悪い──。


 母の、伯母の、この女の事を、心の底からそう思った。

 琉斗は女の肩を突き飛ばして廊下に出た。過呼吸を起こしそうだった。居間からは、また咽び泣く声が聞こえた。必死で呼吸を整える。すると廊下の先に、朱里がいるのが見えた。


「……琉兄?」


 騒ぎで目を覚ましてしまったのだろう。眠いのか、目を擦った後、灰色がかった大きな瞳で琉斗を見つめる。


 あぁなんてきれいなんだろう──。

 僕の朱里、じゅり、ジュリ──。


 その姿に、琉斗は泣き笑いしそうな顔になった。その顔が先ほどの女の顔と、よく似ていた事に、彼は気づかなかった。その温もりが欲しくて、駆け寄った。朱里を抱きしめようとしたところで、彼女の顔が曇った。


「……なんか、くさい」


 彼女は一言そう言った。


 朱里に嫌われた──。

 こんなにも、大好きなのに。愛しているのに。


 途轍もなく、絶望的な気分になった。それと同時に、琉斗はずっと心の奥で閉じていたお絵かき帳が、開くのを感じた。


 今度手渡されたのは、赤黒いクレヨンだった。

 そこへぐるぐると、何度も、何度も、円を描いていた。

 手が、止まらなかった。


 そのまま朱里をすり抜けると、琉斗はよたよたと浴室に向かった。

 必死で口を濯ぐ。吐こうと思っても、うまく吐けなかった。


 母という存在に口付けられた事以上に、自分が朱里を異性として好きなのだと、気づいてしまった事に、失望していた。


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