灯火

 陽が沈む間際、空は淡い橙色と薄紫が混ざり合って柔らかなグラデーションを描いている。


 虎道らが住む冠帯かんたい区は、横浜の外れにある。

 広々とした区画や自然が多く、どこか田舎の雰囲気を感じさせる。そんなのどかな街だ。

 虎道たち兄妹が通う阿賀野中学校を初め中学だけでもいくつかの学校があり、そこから広がる人間模様がこの土地をゆるやかに彩っている。

 

 虎道は坂道を軽快に駆け上がっていた。ランニングシューズがアスファルトに小気味よいリズムを刻むたび、身体が自然と前へ進んで行く。

 リハビリも兼ねたこのジョギングは、彼にとって心身を整える貴重な時間だ。元々ほとんど毎朝、また夕方時間があるときもこうして体を動かしていたという。まだ少し足が重いが、運動部に所属しているわけでもないのにペースを崩さずに走れるのもそのお陰だろう。


 上り坂を終えるとまた少し余裕が出てくる。ふと目を向けると、花壇の縁にタンポポが顔を出していた。

 周囲の家々からは、夕飯の準備を思わせる匂いが漂ってくる。甘辛い肉じゃがや焼き魚の香りが鼻をくすぐる。


 ━━今日の晩御飯は何だろうか。


 卯衣の料理なら何でも美味しいのだろう。

 そんなことを考えるだけで幸せな気分になる。


 途中、同年代ぐらいの少年の姿があった。

 虎道より小柄の眼鏡をかけた少年。色素のやや薄い髪が日の光を帯びている。

 どこかで見たような気がする。すぐ近くにあるという夕張ゆうばり中か、もしかすれば自分と同じ阿賀野中の生徒かもしれない。だが、考えたところで思い出すことはなかった。

 少年は軽く会釈をし、虎道も反射的に頷き返す。

 それだけの短いやり取りで、二人はそれぞれの道を進んでいった。



 玄関のドアが静かに開き、虎道が足を踏み入れる。


「ただいま」


 反射的に口にしたその言葉に、リビングやキッチンのあるほうから絵馬の明るい声が飛んできた。


「おかえりー!」


 誰もいない空間に響くはずの挨拶。

 だが、それを返してくれる声があることに胸が温かくなる。


 靴を脱ぎ、リビングへと足を進める。

 ソファーで灯未がテレビを観ていた。彼女はちらりと一目虎道を確認すると、控えめに「おかえり」とつぶやく。

 虎道が「ああ」と短く返事をすると、キッチンから卯衣が顔を出した。


「おかえりなさい。体、大丈夫だった?」


 卯衣の声には心配の色が滲んでいる。虎道は肩を軽く回しながら答えた。


「全然平気だ。走ってみたけど、特に問題ない」


 それを聞いた卯衣の表情がふっと和らぐ。


「ならよかった。すぐご飯の準備するから、ちょっと待っててね」

「何か手伝おうか?」

「大丈夫だよ、お兄ちゃんは座って待っててね」


 ふわりと微笑むと、卯衣は再びキッチンへと向かった。

 調理台のまな板の前では絵馬がまだ少しぎこちない手つきで包丁を使っていた。


「絵馬ちゃん、添える手は猫の手だよ」


 卯衣が「にゃ」と微笑みながらポーズをとると、絵馬も「にゃー」と返す。

 二人をのやりとりを見ていると、思わず口元が緩みそうになってしまう。


「ふふっ……」


 しかし、笑い声が漏れたのは灯未の方から。彼女の視線はいつのまにか姉たちのほうへ向けられている。

 そんな灯未とパチリと目が合った。


「……何さ」


 灯未のそっけない言葉に、虎道は苦笑いしながらリビングのソファに腰を下ろす。

 その瞬間、予想通りの動きで灯未が隣に腰掛け、彼の肩に頭を預けてきた。口ではそっけなく言いながら、こうやって自然に甘えてくるのがこの妹らしい。


「絵馬も料理なんてするんだな」

「ん。最近なんか練習してるね」

「お前はしないのか?」

「女だから料理しないといけないなんて考え、時代錯誤だよ」


 灯未がわざとらしくため息をつく。


「まあ、今の時代だと男が家で料理するのもめずらしくないもんな」

「兄ちゃんもたまにつくってたもんね」

「俺が?」

「ん。兄ちゃん、うどんとかおかゆつくれるんだよ」


 灯未がさらりと答える。

 虎道は少しだけ間を置いて考えた。確かに調理の手順が頭の片隅にある気がする。


「なんでうどんとおかゆなんだ?」

「確か雑炊もつくれるよ」

「消化によさそうなメニューばかりだな……」


 虎道がぼそっと呟いた言葉に、灯未は肩をすくめて軽く返す。


「兄ちゃんだからでしょ」


 適当な返答だが、虎道は特に深く追及することなくそれ以上は何も言わなかった。


 テレビの中の会話に混じって、リズミカルな包丁の音や卯衣と絵馬の明るい声が聴こえてくる。その細部まですべては聴き取れなかったが、絶え間なく続く二人の声は部屋の雰囲気を穏やかに彩っていた。

 ほどなくして、カレーのスパイシーな香りがふわりと鼻先をくすぐり始めた。


 ソファに座る虎道の肩には、相変わらず灯未の小さな頭がそっと寄り添っている。

 彼女は何も言わず、ただテレビを見ているようだったが、その存在感は確かな温かさを伴っていた。


 記憶はまだ欠けたまま。それでも、ここにあるすべてがまるで時を遡るように胸の奥へと染み込んでいく。

 何かを思い出すというより、当たり前の事実に触れるような感覚。


 ━━自分はここで、彼女たちとずっと共に過ごしてきた。


 曖昧な夢のような世界に、揺るぎないものが確かにあった。



  ☆



 遠ざかる足音が響いて

 滲む景色に君を浮かべた

 触れることさえ許されぬまま

 夜の風に心を揺らした


 叶わぬ願望ゆめと知りながら

 ひとつの想いが消えなくて

 夜空そらに浮かぶあの星のように

 君だけを胸に描いてる


 微笑みは届かない場所で

 君の視線に触れぬようそっと隠した

 胸に宿る灯火が夜を焦がす

 胸に宿る灯火が道を照らす



「ふう……」

 

 ベッドに腰掛けながら弾き語りをしていた虎道。

 アコースティックギターを布団の上に置くと、深く息をついた。指先で弦を軽く弾き、かすかな音色を確かめる。


 部屋の窓の外には夜の闇が広がり、窓を開けるとカーテンを揺らす夜風がかすかに冷たさを帯びていた。

 歌い終わった後の静けさが部屋を満たす。虎道はギターの弦をもう一度軽く弾き、余韻を確かめるように耳を傾けた。その音は、まるで彼の胸の中に渦巻く感情を掬い取っているかのようだった。


 ━━ギターなんて弾けたんだな、俺……。それにこの歌……フォークソングだよな……。


 部屋にギターがあるのにはずっと気づいていたが、手に取って弦を弾いていると不思議と指が自然に動き出した。最初はぎこちなかったが、次第にコードが形を成してメロディが記憶の奥底から浮かび上がるようだった。


「…………」


 コードを押さえる指の角度、弦を弾くタイミング、音の余韻の長さ。

 馴染みのある感覚が、手の中に蘇る。


 懐かしい旋律が、虎道の胸に遠い日の情景を映し出す。



  ☆



 まだ新城の家に引き取られる前、虎道は実父方の祖母の家に預けられることが多かった。

 祖母は古い価値観の持ち主ではあった。

 幼い頃の虎道には理不尽と思えることも、決して少なくなかった。


 物心ついたばかりの頃には、既にもうたくさんのことを強要されていた。

 男は強くなければいけないと、体を鍛えさせられた。ケンカのやり方まで教わった。

 頭が良くなければいい学校や会社にいけないと、文字の読み書きや算数の課題を与えられた。少しずつでいいから毎日勉強をしろと言われた。

 常識がなければ苦労するだろうと、箸や鉛筆の使い方を徹底的に扱かれた。今はまだ理解が及ばなくても、その事態に直面したときに役に立つこともあるだろうと小難しい話をたくさん聞かされた。

 その一つ一つが幼い虎道には理不尽にも思えたが、今になって思えば祖母なりの愛情だったのだろう。


 厳しくも、どこか温かみのある人だった。



『小僧』


 不意に呼びかけられた幼い日の虎道は、思いっきり顔をしかめながら応じる。


『……こぞうじゃない。虎道だ』

『そうだったね。虎道』

『なんだよ、ババア』


 虎道の頭に鉄拳が振り落とされる。

 頭を押さえてうずくまる虎道に『言葉遣いには気をつけな』と言いながら、祖母は腕を組んでじろりと睨みつける。

 けれど、その口元はわずかに綻んでいた。


『虎道、お父さんやお母さんは嫌いかい?』

『……よくわかんない』

『馬鹿な息子を庇うわけではないけどね……人間は必ずどこかで間違う生き物だ』

『間違うのが普通ってことか?』

『そうじゃない。間違わないのが一番いいさ。その為に、普段アンタがブツクサ文句言ってるような、小難しい話を聞かせてやってるんだよ。けれど長い人生、たくさんある選択を何ひとつ間違わずに生きていけやしないさ。それだけは断言出来る』

『……じゃあ、間違ったらどうすればいいんだよ?』


 虎道が少しムキになったように問い返すと、祖母はふっと笑った。


『知らん』

『は?』

『アタシはアンタじゃないからね。アンタが間違えたらどうすればいいか、それはアンタが考えるんだ』

『なんだそりゃ……』

『アタシが思うに、人生ってのは鍋みたいなもんさ』

『鍋?』


 虎道は面食らったように言葉を繰り返した。


『そうさ。鍋にはいろんな具材が入るだろう? いい肉や新鮮な野菜だけじゃなくて、時にはクセの強いものも混ざる。でもね、それが鍋を煮込んでいくうちに、全部が合わさって複雑な味になるんだよ』


 虎道は首を傾げ、額に皺を寄せながら祖母を見上げた。


『人生って、ひとが生きている間のこととかそんなやつだろ。それが鍋となんの関係があるんだよ?』

『簡単な話さ。いい人間もいれば、悪い人間もいる。楽しいこともあれば、苦しいこともあるだろう。それらが全部、アンタという人間を形作っていく』


 祖母は窓の外に目を向けながら、静かに続けた。


『だからさ、出会いや経験が多ければ多いほど、人生ってやつの味は深くなる。鍋だって簡単な具材だけじゃ、いい鍋にはならないんだよ』

『じゃあ、苦いものや嫌なものも入れるのがいいってことか?』


 虎道が不満そうに問いかけると、祖母は笑って首を振った。


『さぁてね。そりゃあ、食べたくもない具材なら入れないに越したことはないと思うけど、避けられないことだってあるだろう。案外いい出汁が出るかもしれないしね。それに結局、最後に味を整えるのはアンタ自身さ。だいぶ味のある人生になってきたら、自分が何をすべきかは自然と見えてくるはずだ』

『俺次第……』


 虎道は少し考え込みながら、小さく呟いた。

 祖母はくしゃりと笑うと、虎道の頭に皺々の手を乗せた。



  ☆



 幼い彼にはほとんど理解出来なかった言葉だった。

 けど、今になったら祖母が伝えんとしていたことがわかる気がする。


 物思いにふけていると、ドアを控えめにノックする音が響く。


「……ちょっとだけ待ってくれ」


 そう返事をすると、虎道はなんとなくギターをケースに仕舞ってベッドの下に隠した。

 元の位置に戻ると「どうぞ」と再び声をかける。


 すると少しだけ扉が開き、卯衣がひょこっと顔をのぞかせた。

 扉の隙間から静かに部屋に入ると「おじゃまします」と虎道の横に腰を下ろした。


「……聴こえたか?」

「何が?」

「いや……ならいいんだ」

「いい歌だよね」

「聴いてるじゃないか……」


 不貞腐れる虎道を前に、卯衣は「ふふ」と小さく笑った。

 

「お兄ちゃん、その歌好きだよね」

「歌の名前も歌手名も思い出せないけどな」


 記憶喪失について調べていると、感情と密接に結びついているものほど記憶として残りやすい、ということを知った。

 音楽もそのひとつらしい。メロディやリズムは、脳が繰り返しやパターンを通して自然に覚えやすい構造をしている。さらに、特定の感情や出来事と結びつくことで、深く刻まれることが多いのだという。

 一方で、曲名や歌手の名前は、言葉や文字としての記憶に分類されるため、感情との結びつきが少ない限り、忘れやすい情報になるらしい。

 もちろん、これは個人差もあるだろうが、虎道の場合、音楽に触れることでぼんやりとした感情や記憶の欠片が蘇るのに対し、具体的な名前や情報は欠けてしまっていた。


「牡丹百合っていうグループの、微笑みは届かない場所でっていうちょっと古い歌だね。最近でもCMで流れたりしてたよ」

「ああ、そういえばそれが曲名だったっけ……」

「おばあちゃんが大好きだったんだって。だからお兄ちゃん、よく練習してたんだよ。お兄ちゃん、おばあちゃんのこと本当に大好きだったんだね」


 祖母の家では、何度もこの曲が流れていた。

『いい歌だろう?』と何度も言われたけれど、小さい頃の自分は適当に頷くだけだった。

 それでも彼女が亡くなった後も、虎道はその曲をずっと聴き続けていた。

 彼の机の棚にある牡丹百合のCDアルバムは、そんな祖母の形見だった。


「鍋……」

「うん?  明日のご飯、お鍋にする?」

「ちが……まあ、それもいいな」


 虎道がぼそりと呟いた言葉を、隣に座る卯衣がしっかり拾った。

 彼女の言葉を否定しようとしたが、晩御飯を食べた後だというのに何だか鍋が食べたくなってくる。


「うん、じゃあ決まりね。野菜たっぷりにしようね」


 卯衣は笑顔で頷きながら、すでに頭の中で献立を組み立てているようだった。


 どんな具材も、煮込み方次第で味が変わる。

 それが鍋の本質であり、祖母の考えだと人生の在り方でもある。


 ━━今、自分の人生はどんな味になっているだろうか。



「そういえば、うちじゃカレーって二日連続になることなかったな……」

「たくさんつくっても灯未ちゃんが全部食べてくれるからねぇ」

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