はじまり

 雨の音が軒先の瓦に淡く響きながら、庭の砂利を静かに湿らせている。

 離れの部屋は、広々としているのにどこか冷たかった。畳の香りは新しいのに、壁にかけられた古い掛け軸や低い木の天井が、年月を重ねた家そのものの歴史を感じさせる。


 幼い日の虎道が、そこにいた。


 部屋の隅で膝を抱えて、ただぼんやりと雨音に耳を傾けていた。障子の向こうには、手入れの行き届いた日本庭園が広がっている。白い灯籠や、雨に濡れて艶やかに光る苔むした石畳。庭の奥には母屋が見えたが、そこからの声はほとんど届かない。


 虎道は障子越しに庭を見つめながら、つい先程の出来事を思い返していた。



 葬儀に集まった大人たちの低い囁き声が、雨音に混じって俯く虎道の耳に入る。


『あの子があの二人の……。血筋もそうだし、あの無愛想さじゃ……』

『自分の両親が死んだというのに、あの子は涙のひとつも流さないのか』

『あんな子の貰い手なんているのかしら……』


 虎道は顔を上げ、鋭い目つきで囁き声の主をじっと睨みつける。

 彼の瞳には、ただ氷のように冷たい光が宿っていた。


 その瞬間、大人たちの声はぴたりと止まった。

 一人の女性が目を伏せ、もう一人の男性は『ひっ』と喉を鳴らしながらそっぽを向く。

 彼らの反応が、まるで自分の存在を否定する言葉よりも強く虎道を刺した。


 ━━うるさい、うるさい、うるさい……。


 心の中で唸るような声が響き続ける。


 雨に染み込んで地面を汚す泥水のように、負の感情がじわじわと心の奥に広がっていく。


 自分を遠巻きにして陰口を叩くばかりの、頼るべきはずの大人たち。

 祝われることなく消えていった両親も、自分という存在さえも。

 虎道にとって、この世界のほとんどすべてが憎しみの対象でしかなかった。


 自分をよく理解してくれていた祖母ももうこの世にはいない。

 唯一信じられるのは、同じ幼稚園のひとつ年下の女の子だけ。

 けれど彼女ひとりに、自分の抱えるすべてを押しつけられるはずもなかった。



 扉が静かに開かれたのは、そんな思考に囚われていたときだった。

 振り返ると、そこには小さな少女が立っていた。彼女は身を縮めるようにして、一歩ずつ部屋の中に足を踏み入れる。

 ちらちらと虎道の様子を窺うような視線。その瞳には怯えと戸惑いの色が混じっている。


『あの……お父さんが、ここにいろって……』


 か細い声が部屋に響く。

 その顔には見覚えがあった。葬儀の席で父親らしき男性の背後に隠れていた少女だ。あのときも同じように、不安そうな瞳でこちらを見ていたのを思い出す。


『うい……』


 彼女の口から何かが漏れた。虎道は眉をひそめ、少し首を傾げる。


『あの、わたしの名前…………新城、卯衣です……』


 言葉を絞り出すように、少女は震える声でそう告げた。

 その名前を聞いた瞬間、虎道の胸の奥が微かに揺れるのを感じた。

 ━━うい。聞き慣れない名前だ。

 それ故に、何か引っかかるものを感じた。

 いつか、どこかで、その名前を聞いたことがあるような気がした。  


『あの……あの、あなたは?』


 彼女の問いかけに、虎道はほんの少しためらって答えた。


『……虎道だ。天海あまみ、虎道』

『こどう……くん?』

『……ん』


 ぶっきらぼうな返事に、卯衣はきょとんとした表情を浮かべた後、小さく首をかしげた。


『か、変わった名前だね……』

『お前も、まあまあ変わった名前だぞ』

『そう、かな……?』


 彼女は一瞬考え込むように目を伏せたが、次にはっとしたように顔を上げて笑った。


『……そう、かも。わたしたち、変わった名前どうしだね……』


 そのぎこちない笑みに、虎道は気づかれないように小さく息をつく。口元が自然と緩むのを感じながら、ぽつりと呟いた。


『……へんなやつ』


 卯衣はまたしばらくすると、まるで笑ったことを咎められるのではないかと怯えるように、また小さく俯く。


『俺が怖いか?』


 虎道が低く問うと、卯衣は一瞬怯えたように目を見開いたが、すぐに小さく首を振った。


『あの……こどうくんが、じゃなくて、わたし、なんにでも怖がりなんです……』


 彼女の声は細く、まるで雨音に吸い込まれてしまいそうだった。


『昔から、親戚とか、大人のひとに、あまりよく思われてないみたい……。お父さんや、お友達の翠鳥ちゃん以外に、お話しができる人もいません……』


 卯衣の視線はまた足元に落ちる。その肩は小さく震えていた。


『…………』


 虎道は何も言わなかった。じっと彼女を見つめるだけだったが、その視線は少しずつ冷たさを失っていく。


『でも……こどうくんは、あんまり、ぜんぜん、怖くない、です』


 卯衣が恐る恐る顔を上げて笑った。その笑顔は弱々しく、けれどどこか真っ直ぐだった。



 二人は他愛のない話を始めた。

 雨が嫌いなことや、葬儀の料理が美味しくないこと。

 生きていても楽しいと思えるようなことがあまりないこと。

 それは幼いながらに精一杯の言葉だった。


『わ、わたしと虎道くん、誕生日、一日しか違わないんだね。ほとんど同じなんて、なんだか不思議だね……』

『そうかな……。そう……かもな』


 虎道にとって、誰かとこんな風に会話をするのは久しぶりのことだった。


 やがて燃料が切れてしまったストーブの代わりに、二人は一枚のブランケットを分け合い、身を寄せた。

 壊れたストーブの音、雨が打つ音、二人の微かな呼吸。

 どれもが心の中で、鼓動を打つように響き渡っていた。


 話し疲れたのだろう。いつしか卯衣はすうすうと寝息を立て始めた。

 寄り添った肩越しに伝わるその温もりが、雨音に溶けるように静かな安らぎをもたらす。それは物心ついて以来の初めての感情だった。

 虎道はそっとブランケットを引き寄せると、甘い微睡みに身を委ねるのだった。



  ☆



 虎道が眠りから覚めたとき、扉の向こうから微かな足音が聞こえてきた。

 やがて部屋の中に入ってきたのは卯衣の父親である悠亀ゆうき


 彼は少し困惑したような表情で二人を見つめていた。

 その視線が一瞬だけ戸惑いを宿したまま止まる。次の瞬間、ふっと小さく息をつくと、困惑を払うように柔らかく微笑んだ。

 静かに包み込むような穏やかさを纏った笑みだった。


『僕は、運命なんてものはないと思っていたよ』


 穏やかな声だったが、その言葉には力強さがあった。


『……けれど、君たちがこうして二人で共にいる姿を見ていると、それを他の言葉で表現するのは難しいように思えてね」


 その真意はわからない。独り言とも取れる囁きだった。

 しかし、虎道は黙って耳を傾けていた。

 自分をまっすぐに見据える幼い眼差しに、悠亀は『虎道』と語りかける。


『……これから話す言葉は、僕の感情任せの整理されてない言葉だ。内容だってまだ小さい君には難しいものになるとに思う。ただ、何となくでも理解してくれたら、僕はうれしい』


 そう前置きをした後で、一呼吸置いて言葉を紡いだ。


『人生はきっとね、平等にはできてないと思うんだ』


 その声には静かな重みがあった。

 悠亀はしばらく天井を見上げるようにしながら、ゆっくりと続きを語り始めた。


『つらいことや悲しいことがあった分、きっといいことが後からやってくる、なんて言葉を聞いたことがあるかもしれないけど……』


 一拍言葉を切る。どこか遠い記憶を思い返すように目を伏せ、微かに笑みを浮かべた。


『そんな保証だって、どこにもないように思うんだ』


 虎道はその言葉に目を伏せる。子供ながらに彼自身もそう感じていたからだ。今の自分に何か報われる未来が訪れるとは、到底思えなかった。


『むしろ、不平等で不条理なことばかりが続くかもしれない。……それでも幸せも存在している。悪いことの大きさに見合ったものかはわからないけど、確かにね。それにこの広い世界のどこかには必ず自分を理解してくれる人だっていると僕は思っている』


 その声はどこまでも穏やかだったが、そこに宿るのは妥協ではなく受容の色。

 悠亀は視線を眠る卯衣に向けた後、再び虎道に戻した。


『誰もが大きさは違っていても、重い荷物を背負いながら生きている。同じぐらいの重さだったとしても、運ぶ人次第では重さの感じ方も違うかもしれない。抱えることが出来ない人だっているだろう。それだけは幸せそうに見える誰でも、君の隣で眠っている卯衣も同じなんだよ』


 その目はどこか遠くを見つめるようでありながら、確かな温かみを持っていたように思えた。


『……僕もね、自分の荷物をどうにかしなければならないと思いながら、くじけそうになることが今だってまだ少なくない。それでも誰かと一緒にいることで、荷物が少し軽く感じられることがある。君たちがそうやって自分の荷物を少しでも軽く出来る瞬間があるなら、それがたったひとときだとしても、僕はその時間を守りたい』


 彼の声には優しさだけでなく、自身の経験に裏打ちされた実感が滲んでいた。


『だから、僕が勝手なことを言うのはわかっているけど……君の荷物を運ぶ手伝いをする代わりに、ほんの少しでいいから僕や卯衣の荷物を軽くするのに手を貸して欲しい。━━君さえよければ、僕の息子になってくれないか』


 虎道はその言葉を聞きながら、胸の奥が不思議と熱くなるのを感じた。

 それはこれまでの憎しみや孤独の感情とは異なるもので、どこか温かな光が差し込むような感覚だった。悠亀の言葉が、静かに、けれど確かに虎道の中に響き渡っていった。



  ☆



 舗装された地面の窪みのあちこちに小さな水たまりができている。

 雨上がりの歩道を、悠亀は虎道と卯衣を連れて歩いていた。

 虎道は何も言わず、彼の背中についていく。

 卯衣は父の手を握りながら、時折振り返って虎道にぎこちなく笑顔を見せた。

 その笑顔にどう返せばいいのかわからなくて、虎道はただ黙って頷くことしかできなかった。


 やがて見えてきたのは、立派な洋風の家だった。

 白い壁に黒い屋根、玄関の上には小さなベランダがついている。

 古びた鉄製の門が控えめに開かれ、庭には雨に濡れた花々が静かに佇んでいた。

 玄関の窓からは、暖かな灯りがこぼれている。


『ここが、これから君の家だよ』


 悠亀が振り返り、柔らかく微笑む。

 虎道はその言葉を頭の中で何度も反芻した。

 嬉しいのか、怖いのか、自分でもよくわからなかった。


 卯衣が手を差し出してきた。

 小さな手のひらが、先程とは違う温かさを持っているように思える。


『……行こう?』


 虎道はその手を少しだけ迷いながら掴んだ。


 家に足を踏み入れると、どこか異国の香りが漂っていた。

 木製の床や柱、重厚な扉が新鮮な感覚をもたらす。

 悠亀は少し照れくさそうに言った。


『二人で住むには広すぎる家だけど、中古だったからお手軽だったんだよ。こうして君が来てくれて、ちょうど良かった』


 虎道はその言葉に戸惑いながらも、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

 自分のための居場所があるという実感が、少しずつ形を成していくような気がした。


 家の中を見渡しながら、立ち尽くす。

 木の温もりを感じる床。雨に濡れた靴を脱ぎ捨てる音。

 すべてがこれまで過ごしてきた場所とは違っていた。

 新しい家、新しい家族、新しい生活。

 その事実が胸に押し寄せ、戸惑いと安心感が入り混じる。

 気づけば、何かが頬を伝っていた。


『あれ……』


 思わず手を伸ばして涙を拭う。

 けれど、拭っても拭っても新しい涙があとから後から溢れてくる。

 何度も手の甲で目を擦る虎道のことを、卯衣がじっと見つめていた。その瞳にもいつの間にか涙が溜まり、やがてポロポロと零れ落ちる。


『なんで……お前が泣くんだよ』


 虎道が戸惑い混じりに問いかけるが、卯衣は鼻をすすりながら泣きじゃくるばかり。

 言葉を探すようにしながらも、卯衣は手を伸ばし虎道の手をぎゅっと握った。

 その温もりに、虎道は何も言わずただ目を伏せた。


 悠亀はそんな二人の様子を黙って見守りながら、静かに微笑む。

 新しい家族を祝福するように、雨上がりの空から淡い光が窓辺に差し込んできた。



 今はまだ三人でも大きすぎると感じているこの家に━━

 悠亀の大学の先輩だった鹿乃かのが、フランスで保護した捨て子の絵馬を連れてやってくるのは、この少し後の話。

 離散してしまった遠縁の家族の末娘・灯未が加わるのは更にもう少し後のことになる。

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