第2話 赤ん坊

 狭い路地から国道に出、私は赤信号で停車する。歩道を歩く人物はたまにしかいない。しかし、その男性の姿はほぼ毎日見かけた。

 朝早い仕事なのだろうか、それとも夜の仕事を終えて帰ってくるところなのだろうか?

 どちらにせよ、その暗い表情と背中を丸めながら重い足取りで歩くその男性は、いつも何かに取りつかれ、疲れ切っているかのようだった。

 しかし信号が青に変わると、私の心はその男性から瞬時に離れ、私はアクセルを強く踏み込むのだ。まるで離陸直前の滑走路を走る飛行機のように強烈なGが私の体にかかる。その感覚の中で、私は恐怖と同時になにか別の振り切った感情を覚えるのだ。


 どうしてあいつの記憶とつながるこの車に私は執着しているのだろうか?

 あるいは猛スピードで走ることで、最終的には私もろとも破壊してやりたいと望んでいるのだろうか?

 しかし私には部屋で待つ赤ん坊がいるのだ。そのことは決して頭から離れることはなかった。そして、生まれた赤ん坊の姿を見ることなく、名前を呼ぶこともなく去っていったあいつに対する怒りが、腹の底の方からマグマのように突如として湧いて来るのだった。


 ひとしきり走ったあと、私は再びアパートに戻ってくる。ドアの郵便受けには、何日も前から家主からの手紙が挟まっているが、私はそれを無視したまま部屋にはいる。

 ドアの閉まる音で目を覚ましたのか、靴を脱いでいると赤ん坊が泣き出したので私は抱き上げると、おむつを換え、そして母乳を与えた。

 この子は哺乳瓶からは決してミルクを飲まなかった。母乳しか飲まないのだ。私がいなければこの子はたちまちお腹を減らし、それを満たされることなく弱っていくしかない。この子には私が必要なのだ。

 薄暗い部屋の隅で、壁にもたれかかりながら授乳をしていると、赤ん坊の規則正しい呼吸が聞こえてくる。この子は一生懸命生きようとしている。その顔を見ながら私は思うのだ。

 私は赤ん坊の柔らかな髪を撫でながら、ただその無邪気な顔を眺めるしかできなかった。


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