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インシュリンを猫に注射しながら、ニュースに耳を傾ければ、どこかで若い女が飛び降り自殺したのだという。
「可哀想ねぇ。まだ若いのに」
年老いた母親は、何度もそう言った。
可哀想かどうかなんて知れたものじゃない。
赤の他人だ。
どこかのワガママ娘が、一時感情に身を任せて死んだのかもしれんし、そんなことは昌也にはどうでも良かった。
猫用の注射針を使用済みの容器にしまい、インシュリンの小さな薬瓶は冷蔵庫へ。
常温では悪くなるのだと獣医師は言った。
栄養剤の立ち並ぶ間に、いつものように猫のインシュリンをコロンと転がす。
「くしゃん」
鼻がむず痒くなって一つ出たクシャミに、母親は嫌な顔を向ける。
「風邪? うつさんとってよ」
「知らんわ」
そう思うならどっか行け。
そう言いかけて、言葉を飲んだ。
どこに行かれるわけもないのは自分だから、勝手に自分で自分の言葉に傷つく。
「そう言えば、あんた、今年でいくつになるね?」
「知らんわ」
本当は、知らないわけがない。
とっくに五十を超えて、少年の頃に憧れたアニメキャラクターは、皆、年下になって久しい。
「そう言えば……」
「もうなんも知らん」
これ以上何かと言われるのは堪らないから、隣の部屋に移動して滑りの悪い襖を閉める。
隣では、まだテレビを見ている母親が、時々高笑いをしているのが聞こえる。
畳に座り、ポケットにくしゃくしゃに突っ込んだタバコに火をつける。
ゆっくりと肺に煙を溜めて吐き出せば、白い煙が口から湧き上がる。
肺は真っ黒になるのだという。
マイセンのパッケージには、タバコは健康を害するのだと注意書きがされている。
とっくの昔に迎えが来ても遅くない生活に、まだ救いはない。
少年の頃は、五十になった自分など、想像もしていなかった。
だんだんと現世の記憶の薄れる母親の世話、仕事、飯、便所、寝る、猫の世話。
永遠に続くようなこの生活に、抜け道なんてあるわけもない。
「ニャーン」
猫の鳴き声に思い出す。
まだ餌はやっていなかった。
立ち上がって襖を開ければ、また母親が同じことことを言っている。
「可哀想ねぇ。まだまだ若いのに」
「知らんわ」
猫の餌袋を引き出しから取り出すと、先ほどの注射を忘れて、足元に猫が擦り寄っていた。
「いかん。仕事だ」
猫用の皿に餌を入れてやれば、猫はあっさりと足元から離れて餌に飛びつく。
現金なやつだと呆れはするが、猫だけが唯一、この部屋でマトモなもので、他には何もないからどうしようもない。
「もう行くんかい? また、来なされや」
「知らんわ」
もはや息子の顔もおぼつかない母親に、そう言い捨てて靴を履いた。
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