水槽に沈む深海魚
ねこ沢ふたよ@猫好き作家
1
明滅する看板の灯りは、真っ暗闇の中を漂って、どこにも行けなかった貴子を捉えて離さなかった。
受験勉強には馴染めず、就職も結婚も貴子の人生には訪れそうになかった。
挙句に育った家では、母が連れ子のある男と再婚したのだから、貴子はその男の舐めるやうな目つきから逃げるようにここへ来た。
「貴子ちゃん、お父さんだと思って甘えてね」
男が笑うたびに虫酸が走るのがどうしようもなかった。
「貴子、あんた将来のことどう考えているの?」
知るかよ。
今までその場その場を貴子と二人で乗り切るだけで精一杯だった母親が、手のひらを返して切りつけて来た言葉に、貴子は打ちのめされてボロボロだった。
要するに、もう貴子は母親にとって二の次の存在になり、要らないからどこかへ勝手に行けと言っているのだ。
行き着く先は、どこにもなかった。
ただ、その場その場で転々と、彷徨う以外にどうすれば良かったのかを、貴子は知らない。
カビ臭いネカフェの狭い個室ブースで興味もない動画を眺めれば、自分が生きているのか死んでいるのかも曖昧になって心地よい。
机の上には、くしゃくしゃの千円札数枚とコインがいくつか。これが全財産。
猫を飼っていたサエない男が支払った対価は、貴子が今まで守ってきたものの価値を蔑んだ。
どこかのブースから弾けたような明るい笑い声が響いてくる。
おそらくは、さして貴子と年齢も違わない少女の声。
どうしようもないと言われ続けて育ったた貴子とは違う、どうしようもある少女。
年齢も性別も国籍も違わない少女が、自分とはどう違うのかは貴子にはわからなかったし、分かりたくもないし、分かりたい気持ちもなかった。
ただ少女のキラキラと囀る鸙 《ヒバリ》のような声を聞きたくない貴子は、備え付けの少し臭いヘッドフォンをしてジッと目を閉じる。
ヘッドフォンの向こうからAIが早口で捲し立てるプロパガンダは、貴子には半分も理解出来なかったし、理解することもさして重要だとは思えなかった。
何も世に重要なことなどない。
これが唯一の貴子の救いであり、ようやく見えた光明であった。
なにもない
なにも必要でない
似て非なる二文は、主語を持った途端に貴子に牙をむく。
お前は何もない
お前は何も必要ない
『お掃除しましょう! 幸運になります!』
突然AI音声が断捨離を勧める。
『ときめかないモノは不用デス』
『一年以上使わなかったモノは不用デス』
『掃除してスッキリすれば、心も軽く開運です』
可愛いらしい少女のキャラクターが、貴子に微笑みかけた。
『お時間です』
店員が言う。
ああ、そうだった。
時間だ。
貴子には、たった一つだけやるべきことが出来た。
それに縋りさえすれば、て良いのではないか。
『ときめかないモノは不用デス』
『一年以上使わなかったモノは不用デス』
断捨離せざるを得ないのだ。
使わなかったモノを捨てて、幸運を得る。
貴子は、誰にも知られずに、たった一つを捨てて幸運になる。
屋上に上がり見渡せば、視界は広がる。
ゴミだまりの世界が、全くもって愛おしい。
『ときめかないモノは不用デス』
『一年以上使わなかったモノは不用デス』
『掃除してスッキリすれば、心も軽く開運です』
ドン
慈悲深きはアスファルトの路面のみ。
貴子を受け止めた、たった一つの幸運だった。
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