安楽死探偵

ゆんちゃん

安楽死探偵


  アームチェア-ディテクティブ(armchair detective)


推理小説に出てくる探偵の一類型。現場捜査をせず、書斎の肘掛け椅子に座ったまま情報を分析し、居ながらにして難しい事件を解決してしまう探偵のこと。安楽椅子探偵。

     『大辞林』




 隅の席の男は、アンティークなウッドチェアを軋ませこう言った。

「謎だって? この世のミステリーは、あまりにも死に彩られすぎているよ」

 角野すみのおろは厭世的な口調でそう私に言いつけた。

「なんだ、せっかく退屈していそうな君のために、面白い話を持ってきたというのにさ」

「新聞記者って存外に暇なんだね」

 愚知は気だるそうに私を一瞥いちべつすると、高見えする椅子に身を沈ませて、まぶたを閉じてしまった。円形のテーブルには、彼の昼食となる予定だったチキングリル(一二〇〇円)と、クリームブリュレ(八〇〇円)、アメリカンコーヒー(五〇〇円)がそのままの状態で残っていた。私がこの『いろはダイナー』の隅っこの席──今では愚知の特等席のようになってしまっているのだが──に来たときには、すでに冷めていたから、かれこれ数十分、彼は料理をそのままにしているということになる。なんともったいないことなのだろう。

 愚知と私は大学の同級生である。私が大学を四年で卒業して新聞記者として働くようになった一方で、愚知はといえば、本人のみぞ知るというような生活を送っている。とはいっても、彼が私のような普通のサラリーマンの生活をしているとは思えない。私が『いろはダイナー』を訪れるといつもこの隅の席に座っているし──彼は私たちが学生の頃からこの店をよく利用していたのだが──、彼から自分の生活の話が出たことはほとんどない。噂によれば、まだ大学生活を謳歌しているとの声もある。


 愚知はよくこの席で項垂うなだれているか、本を読んでいる。項垂れているとき、彼はたいがい鬱になっているのだ。フランス人形のような均整の取れた目鼻立ちが、鬱のときはより際立つ。そして調子が良い時は、近くの古本屋から誰が読むともしれないようなニッチな本を買ってきて読んでいる。いつもテーブルの上には、料理の横に十数冊の本を積んでいるため、店員や他の客からは変人と思われているのに違いない。

 初めて角野愚知を見た人は、なんとも言えない印象を受けるだろうし、もしかしたら不審者だと思うかもしれない。その印象は三割程度は合っている。しかし、私は少なくとも別の面の彼を知っているのだ。

 角野の性質を上げるとするならば、ずぼらで、忘れっぽいが、頭が切れるといったところだろう。学生時代の彼は、少なくとも私が観察した限りでは、授業に間に合ったことはなかった。いつも遅刻の判定になる開始十五分にぎりぎりだった。その上いつも手ぶらか、授業に関係のない本だけを持っていた。それなのに、授業の評点はいつも完璧で、私はよく彼の才能に嫉妬したものだった。彼がこのように言うのを聞いたことがある。

「呼吸法のようなもので、脳の動かし方を変えるのさ」

 私には何とも理解しがたい。彼の断片的な言葉から私なりに推測をしてみると、彼は自分の興味関心から様々なことに興味を持つが、すぐに興味がほかのことに移り、さっきまで考えていたことは一瞬で忘れてしまう。そのため、脳の精神構造を意識的に組み替えることで、情報を身体に刻み込ませる術を身に着けたらしい。本人曰く、そちらの方がすっきり考えがまとまるのだとか。

 確かに彼は穿ったような意見を言っていたり、私には考えつかなかった鋭い指摘をしたりする。そのたびに私は感心するのだ。

私が推察するに、そういった激烈な自己変革の結果、彼が鬱になったと思っている。


 私はすっかりヤドカリのように閉じてしまった彼に言った。

「じゃあそのままで聞いていてくれよ。友人の愛里栖川あいりすがわ刑事が困っているんだ。君のその出来の良い頭が良い仕事をしてくれることを期待するよ」

「うーん」愚知おろちは唸り声を上げた。紛らわしいが、これは鬱状態の彼の肯定の返事なのである。

 私は冷めたチキングリルをぱくぱくとしながら事件の概要を語り始めた。

「死体が見つかったのはつい最近、ほら、この前の水曜日に大雨があったろう、その二日後の金曜日だよ。場所はC**区のボロアパート『るまんど荘』の二〇二号室で、被害者は伊藤いとう庄司しょうじという男だ」

 余談だが、C**区は『いろはダイナー』があるS県S*市O**区の隣の区である。

「伊藤は二十九歳のサラリーマンで未婚だね。一人暮らしの独身男性にありがちなように、ずいぶんと荒れた生活をしていたらしいよ。毎日仕事終わりに酒を飲む。というか仕事に行かないで酒浸りになる日もある。隣の二〇一号室に住んでいるあしかわ樫尾かしおは『夜遅くまでテレビを見ていて、うるさいんですよ。ほら、うち天井と壁薄いから、ちょっとでもテレビが大きいと聞こえてきちゃう。しかも、ネズミかなんかが行き来する音が聞こえるんですよ』って言っていた。伊藤の友人は『俺はビッグになるぞ! といつも言っていました』『あいつはやるときゃやる男ですよ。やるときが一生来ないだけでね』と彼のことを評していたよ」

 そこで話を止めると、彼は目をパチリと開けて言った。

「なんだかあまり評判が良くなさそうな人物だね。その伊藤って人は」

「これからもっと悪くなるぜ。まあ、伊藤は最終的に自殺してしまうんだけどね」

「自殺?」

「先に死因の話をしようか。解剖の結果、彼の死の原因は青酸カリを致死量より多く摂取したことだった。発見当時、死体の腐敗が始まっていて、部屋は結構におったらしい。推定では、死亡したのはあの大雨の水曜日の夕方から夜にかけてであるとのこと。

 彼の部屋はワンルームで狭苦しく、テレビと箪笥が壁際に、木製の机が部屋の中心に置いてあるだけの殺風景な感じだ。その部屋で伊藤は苦悶の表情を浮かべて死んでいた。仰向けになっていたから、発見者は当初、遠目に見て、眠っているように見えたらしい」

「そもそも彼の死体を発見したのは誰なんだい?」

「調子が出てきたね」

 そういって彼にデザートのブリュレを渡すと、金属のスプーンで表面をカチカチとたたき出した。私は続けた。

「死体を発見したのは、二〇五号室に住んでいる野村のむら素子もとこ、『るまんど荘』の大家さんだよ。彼女は部屋のドア前に置かれた回覧板が一日経ってもそのままだったことに気づいた。その時は部屋の鍵が閉まっていたから、『どこかに行ったのだろう』と思ってそのままにしていた。しかし、次の日になっても回覧板がそのままだったことを不信に思い、通報するに至ったらしい。これが死体発見時の鑑識の写真だよ」私は封筒をカバンから取り出し、中身を彼に手渡した。

「なるほどね」

 愚知は受け取った複数枚の写真をテーブルに並べると、砕いたブリュレを口に運びながら、一枚ずつ丁寧に調べていった。

「ふむ。たしかに殺風景な部屋だな。顔色の悪い死体だ。あまり食事中に見るものでもないな。机の上には酒瓶とグラスと……おや?」

 愚知は何かに気づいたように一枚の写真を手に取り、顔に近づけた。

「机の上に水たまりができているね」

 私は彼が見ている写真を覗き込んだ。机の上に、直径三センチ程度の水滴が広がっていた。

「ボロアパートのしかも二階だからね。数日前の大雨で、ひどく雨漏りがしていたのさ」

「壁は薄いし雨漏りはする、おまけに死体は出るで、ロクなアパートじゃないな。お化け屋敷か観光地にした方が儲かるんじゃないか?……うん? なんだこれは?……」

 愚知おろちが次に注目したのは、箪笥の二段目の中を映したものだった。

「何枚もの写真が入っているように見えるな。どれも映っている人物は若い女性だ。ほとんど一人の写真だな。その上、どれもカメラの方を向いていない。まるでストーカーが隠し撮りをしたみたいだね」

「まるで、ではなく、そのものだよ。実は彼はストーカーだったんだからね」

「また変な方向に話が飛んだぞ」角野は顔をしかめてそう言った。

 私は話の節目に、半分になってしまったチキングリルにブラックペッパーを振りかけて再び口に運んだ。味変である。

「評判の悪くなりそうな話になるって言っただろ。ここから本題に入ってくるぜ。

伊藤がご執心だったのは、同じアパートに住む加美山かみやまクララ。S大の大学院生だ。彼女は二〇四号室に住んでいて、事件が起きた日は大学の研究室で実験をしていたらしい」

「S大? 僕と同じ大学じゃないか」

「そうだよ。というか、同級生だ。覚えていないのかい?」

「うーん……」愚知は腕を組んで考え込むポーズをとった。どうやら本当に覚えていないらしい。愚知の忘れっぽさがまさかここまでだったとは。

「しっかりしてくれよ。一、二年生のころの英語のクラスで一緒だった美人じゃないか。僕とは七回話したぞ」

「いやあ、覚えてないよ、そんなの」

「そうか……じゃあ仕方ないな。話を戻そう。加美山さんは今年の春にアパートに引っ越してきたんだ。それまではわざわざ一時間半かけて大学まで通っていたそうだが、大学院で研究に集中するため一人暮らしを始めたらしい。それが運悪く伊藤との邂逅になってしまったんだね。

 彼女が伊藤と話したのは数回程度──やったな、私たちの方が確実に多く話してる──だったらしい。同じアパートだからね、すれ違った時に挨拶くらいはしたんだろう。で、ちょっと会話しただけで伊藤の方が惚れてしまったらしい。まあ仕方ないよな、あんな美人がいきなりボロアパートに引っ越してくるんだから」

「で、半年の間にこれだけの盗撮か。嘆かわしい男だ」

 愚知はテーブルに写真を伏せた。

「実は一か月くらい前にS大学に行くことがあったんだが、そこで加美山さんと偶然会って話をしてきたよ」と私。「その時の彼女は、なんだか疲れている様子だった。無理もない。彼女の研究室はブラックなんだ。朝から真夜中まで拘束されるらしいし、休みは日曜だけだ。その上ストーカー被害だからな。大変だよ」

「ああ、そういえばうちの大学にはブラックで有名なところがあったね、たしか有機合成をしている化学系の研究室だったかな」

「さすがに詳しいね。そうだよ。といっても僕にはどんな研究だか想像もできないがね」

 愚知は理系、私は文系科目の専攻なのである。

「サイエンスライターにでもなったらどうだい」愚知は明らかに皮肉の効いた目で私を見た。私は渋面を作って威嚇した。

「その変顔は何のつもりだい。それで、具体的な被害はないの?」

「ある日、彼女がアパートに戻ると、部屋の鍵が開けられた痕跡があったらしい」私は渋面のまま答えた。「彼女は用心深い性格だからね、外出時に部屋の扉に小さな紙を挟んでいたんだが、それの位置が変わっていた。

 ほかにも、大学の校門を出たら伊藤に待ち伏せをされていたり、屋根裏から軋むような音がしたりと、気味が悪くてしょうがないと漏らしていたよ」

「ふうん、気の毒にね」愚知は全くそんなことを思っていなさそうにあくびをした。

「おい、なんだか興味なさげだな。せっかく加美山さんの話をしているのに。彼女、だいぶ憔悴した様子だったよ。最近、大学のカウンセラーに相談した、と言っていたし」

「気の毒にねェ」今度は、まるで歌舞伎役者のように抑揚をつけて言った。

「まあいいだろう」私はぶしつけに言った。


「で、話を伊藤に戻すよ。

 伊藤がなぜ自殺したか、ということなんだが……」

「最初の方の話で、友人の刑事が困っている、と言っていたような」

「そうなんだよ。愛里栖川刑事が困っているのは、これを本当に自殺として処理してしまっていいのかということなんだ」

「やっぱりそういう話になるんだね」

 愚知おろちは座りなおして、いつの間にか注文していたコーヒーのおかわりを、音を立てずに器用に口にした。

「というのも、そもそも伊藤には自殺する決定的な動機がない。現場には遺書はなかったし、周りの人にもほのめかしすらしていなかった」

「それは不自然だね」と愚知。

「君もそう思うかい」私は問いかけた。「実のところ、僕は自殺ではないかと思っている。愛里栖川刑事とは意見が分かれてしまってね。よければ君の意見も聞きたいな。どうして伊藤が自殺することは不自然だと思うんだい? 伊藤のようなギリギリの精神生活をしている人は、ふとした瞬間に自殺を決意することもあるんじゃないのかな?」

「そうかな。どんな人でも大抵、なにか自分が生きた痕跡を残そうとするものじゃないかな。高いところから飛び降りたり、電車に飛び込んだりするのも、そういう心理が働いた結果だと思うけど。遺書はその最たるものだよ」

「それは確率的な話だろう。たまたま伊藤はそういう選択をしなかった。もしくはそういう人物ではなかった。そう考えられないかい?」

「伊藤の友人曰く、彼は『ビッグになってやる』とか言っていたわけだろう? そんなことを言う人が急に自殺をすることは考えにくいし、もし自殺をするにしても、黙って一人寂しく逝ってしまうような人間には思えないぜ」

「例えば、どんなことをすると思う?」

「まあ、確実に片思い中の加美山女史の眼に留まるようなことだろうな。おそらく、限りなく直接的に」

「怖いことを言うね」

「それがストーカーの狂気というものさ」

 愚知は達観したように言った。その黒い瞳はぼんやりとしていて、何の感情も孕んではいないように見えた。


「それに」愚知は沈黙を破るように続けた。「青酸カリの瓶が見つかっていない」

「ああ、うん。愛里栖川刑事と同じ、クリティカルな意見だ。さすがだね。

 では今度は、自殺説の根拠を三つ述べよう。その一、彼の部屋の玄関は鍵が閉まっていた。その二、つい最近、伊藤は加美山さんに強い拒絶を受けた」

「一個目はつい先ほど聞いたな。二個目は?」

「この間の土曜日のことなんだが、住人全員が伊藤の怒鳴る声を聴いていたらしいんだ。『誰なんだあの男は!』と、その日アパートのいた人全員が証言している」

「彼氏かなんかだろ。美人なんだしいてもおかしくないよ」

「ははは……で、加美山さんのほうもついに限界を迎えたらしい。『あなたなんなんですか一体! いつもいつも私に付きまとって!』と、これも住人全員が耳にしている」

「よくある痴話喧嘩だな。それで、その彼氏はどこに行ったの?」

「じつはね、加美山さんに恋人はいないんだ。これは彼女が言っていることでもあるし、研究室の友人や、ほかの住人も口を揃えていた」

「へえ、良かったね」

「それは慰めのつもり? まあいい……で、伊藤が誰を見て怒鳴り声を上げたのかということだが、これが不明なままなんだ。目撃者は死んでしまったし、アパートの住人もだれも目撃していない。加美山さんはこの事について一切口をつぐんでいる」

「どうして?」

「そこまではわからない、が、なにか後ろめたいことがあったんじゃないのかな?

だがまあ、伊藤が自殺する動機自体はあったと言える」

「しかし、殺される動機もあるぜ。伊藤のストーカーにうんざりした加美山女史が殺した。伊藤の行為を常日頃から迷惑に思っていた蘆川か野村が殺した。管理人ならマスターキーくらいは持っているだろうし」

「話はそううまくはいかない。死亡推定時刻には、みんなアリバイがあるんだからね」

「アリバイ?」

「そう。加美山は事件当時、研究室で実験を行っている最中だった。これは研究室の他のメンバーが証言していることだ。蘆川は、近くの公園のゴミ拾いをホームレスと一緒にしていた。大家の野村は成金マダム仲間と優雅なアフタヌーンパーティをしていたそうだよ」

「へえ、変わった人の集まりなんだね。サーカスでも結成したら?」

「以上のことから、自殺とも他殺ともつかない状況に陥っているわけさ」

 ここまで話してひどく喉が渇いていることに気付いた。こんなに喋ったのは、何年ぶりかもわからない。新聞記者の仕事を始めてからというもの喉を嗄らすほどの過酷な取材は経験していなかったのだ。私は愚知が残していたコーヒーを飲み干した。

「おい、勝手に飲むな、それ僕のだぞ」

「ごめんごめん、後で払うからさ。それよりも、どうだい。謎は解けそうかい」

「うーん」愚知は腕を組み、目を閉じてうつむいてしまった。これは、彼が考え込むときのいつもの態度なのである。


 秋の日はつるべ落としである。ランチの時間はとうに終わっていた。窓から茜色の夕日が差し込むほど話し込んでいたようだ。愚知は黙考するタイプである。その脳みその中では、私には及びもつかないほど複雑な思考過程が醸造されていることだろう。そのまま席を立ってしまっても気が付かなそうである。

 しばらくして愚知は顔を上げると、上着の内ポケットまさぐった。私はすかさず煙草を取り出し、慣れない手つきで一本、彼に差し出した。

「煙龍か、台湾の職人がこれをダンボール五箱分だけ作ったという」

 パッケージを見ると、白と黒の陰陽魚に赤の丸模様がまとわりついていた。

「君が気に入るかと思ってね」私は言った。「謎は解けたかい」

「ふむ。それじゃあ、質問その一」

「どんと来い」

「加美山女史が、最近なにか新しく影響を受けたことはなかったかな」不味そうに煙を吐きながら愚知は言う。

「変な質問だな。新しい趣味とかかな。いや、ないんじゃないかな。しいて言えば、研究の気休めに読書を始めたとか……」

「どんな本?」

「わりとポピュラーなものが多いと言っていたよ。東野圭吾とか、江戸川乱歩とか」

「ふうん。それじゃあ質問その二。『るまんど荘』の二階の部屋の割り当てはどうなってる?」

「それならメモしてきたよ。ええと、二〇一が伊藤の隣人の蘆川、二〇二が死んだ伊藤、二〇三が空き、二〇四が加美山さん、二〇五が大家の野村さんだ」

「二〇三は空き部屋か。なるほどね。

 次に質問その三。僕は先週の火曜日、なにをしていた?」

「えっ?」私はメモから彼に目をやった。「君の情報が事件に関係するのかい?」

「するかどうかは後で判断する」

 愚知は憮然として言った。私はメモを見ずに答えた。

「ええと、大雨の前日だよな、たしかどこかに外出していなかったかな」

「どこかって、どこへ?」

「そこまではわからないな、僕もいつでも暇なわけではないからね」

「そう。まあいい。これで質問は終わりだ、あとは考えをまとめよう……」

 愚知は立ち上がると、腕を組みながらテーブルの周りをぐるぐると回り始めた。店員がこちらをいぶかし気に見ていた。

 何分待ったかわからない。

 店員が観察に飽きてこちらを見もしなくなったころ、突然、

「ああああああッ!!!」

 というすさまじい雄叫おたけびが店内に響き渡った。ランチタイムを過ぎていたのが幸いした。客は私たち以外におらず、注目しているのは私と店員だけだった。

 雄叫びを上げたのは愚知を置いてほかにいない。彼は全身を硬直させてピンと棒のようになってから、少しの間を置いてその場にへなへなと座り込んだ。私は彼に駆け寄って、身体を支えてから椅子へと座らせた。

「ど、どうしたんだ?」

「わかってしまったんだ……」彼は俯きながら沈んだ声色で言った。「犯人がね……」

「ほ、本当かい! これは他殺なのか! 犯人は誰なんだい、いったい」今度は私が立ち上がる番だった。

「それは、屋根裏のネズミ、そして……」

「説明を求めるよ!」

 声を荒げた私を蔑むような目で見ると、彼は短くなった煙草を灰皿に放り投げた。


「では……初めから話をするとしよう。いま、事件に関するすべてを思い出した」彼はどっかと椅子に沈み込んで語った。「数か月前、僕が大学で本を読んでいると、ある女性に話しかけられた。彼女こそが加美山クララだった。僕は覚えていなかったが、彼女は僕のことを覚えていたらしい。一目見て、彼女は精神的に疲れていると確信したよ。いつか、何かをしでかすのではないかという危うさもあった。親しく話しているうちに、彼女はストーカーに悩まされているということがわかってきた。といったわけで、僕は彼女の周辺を探ってみることにした。図書館で借りる本の履歴をみて、彼女が毒物を作る計画を立てていることが分かった。ちょうど彼女の研究室は有機合成を専門としていたからね、環境はあったわけだ。そして彼女と話す中で、江戸川乱歩の短編が面白いということを聞かされた。それで僕も読んでみると、あるじゃないか、『屋根裏の散歩者』という、身の毛がよだつような恐ろしい話が。

 もしやと思い、彼女のアパートの屋根裏に上ってみることにした。大家さんに連絡を取り、入居希望者を装って二〇三号室の見学に入り、天板を外して覗いてみた。思った通り、昔のボロアパートだから屋根裏は仕切られておらず、すべての部屋がつながっていたのさ。それに、伊藤の部屋のちょうど真上には、つまようじくらいの小さな穴が空いていた。

 僕は確信したよ。加美山クララは屋根裏から登って伊藤に青酸カリを垂らして摂取させ、殺すつもりだとね」

「加美山さんが伊藤を殺しただって!?」

 私は思わず机をたたいた。なんという、非常識な展開だ! 人は見かけによらないということだろうか。

しかし、愚知は首を振って否定した。

「いいや、加美山女史は伊藤を殺していない。なによりアリバイが存在するし、実を言うと僕が阻止したんだ」

「君が?」

「うん。先週の火曜日、つまり大雨の日の前日、僕は加美山女史の部屋で青酸カリの小瓶を探していた。中々見つからなくて手間取っていたがなんとか発見することが出来た。一服でもしようかと思ったその瞬間、玄関の鍵がガチャガチャとなる音がしたんだ。加美山女史が帰ってきたんだよ。いつも夜遅くまで研究室にいる彼女が、この日に限って早めの帰宅をした。間違いない、その日がもともとの殺人の決行日だったんだ。

 このままではまずいと思った僕は、素早い身のこなしで屋根板を持って屋根裏に上がり、入口に蓋をした。そこで、あまりに焦っていたせいかとんでもない失敗を犯した。加美山女史の部屋に煙草を置いてきてしまったんだ。またやってしまったと思ったよ、僕はいつでも忘れっぽすぎるんだ。

 しかし、後悔してももう遅い。それよりは今自分が何をすべきかを冷静に考えて行動するべきだ。僕は加美山女史に真正面から相対することにした。一度アパートの廊下に出てから、彼女の部屋のドア越しに名前を呼び、出てきた彼女に対して、神妙の雰囲気でこう切り出したんだ。

「加美山さん、僕にはなんでもお見通しなんだぜ……」 

 僕に演劇の才があってよかったと心から思ったね。僕はさながら名探偵のように振る舞い、加美山女史が殺害計画を練っていることを解き明かした。その瞬間の、彼女の顔のこわばりようが鮮明に思い描けるよ。もともと人を殺せるような人間じゃないんだ。僕は、計画を辞めるようにさとした。もちろん、脅した訳では無いよ。彼女の心労を和らげるにはどんな言葉が効くのか、わかっていたからね。最終的に、彼女は目を潤ませて殺害計画を放棄した。僕は安堵の気持ちでいっぱいになり、それからアパートを辞した。この場面を僕は伊藤に目撃されたんだ。伊藤と加美山女史が言い争っていたのは、実は僕が原因だったんだ」

「伊藤が加美山さんの彼氏だと誤解したのは君なのか」私は嫉妬混じりにそう言った。

「ストーカー気質の人間にありがちな焦燥感が、思い込みを一層強くさせるのさ」

「でも、今のところ話は円満に進行しているように思えるよ。実際、伊藤はなぜ死んだんだい」

「ああ……」愚知は無念を湛えた表情で続ける。「僕がした失敗は、もう一つある。それは……青酸カリの小瓶を、屋根裏に忘れてきてしまったことだ」

「小瓶を?」

「そう。僕は加美山女史の突然の帰宅に驚き、屋根裏を通って戻った。それは話した通りだ。この時、僕は小瓶を屋根裏に置いてきてしまった。あのボロアパートは屋根裏で繋がっている。そして、二○一の葦川が証言していたように、屋根裏では元気なネズミが走り回っているんだ。おまけにあの大雨だろう。

 屋根裏に放置された青酸カリの小瓶は、ネズミによって二○二の伊藤の部屋の真上に運ばれ、そして運悪く倒される。蓋が外れ、中身がこぼれ出し、そのうえ大雨による雨漏りで混じり合う。するとどうなるか。屋根裏は青酸カリの水溜まりに浸され、天井の穴を通って、雫が伊藤のグラスに滴り落ちる。そして目覚めた伊藤がそのグラスをあおり……」そこまで話すと、愚知はぶるぶると震え出した。

「どうしたんだ、大丈夫か?」

 愚知は瞬時に躁状態へと切り替わったらしく、演説ぶった口調で嘆いた。

「ああ! 恐ろしい! 偶然が積み重なったとはいえ、僕の迂闊な行動が一人の人間を死に追いやってしまったのだ! なんと残酷なことか! この世は悲劇という名の神の児戯に等しいとでもいうのか! この人間社会における運命の手綱はすでに僕の手を、人間の手を離れ、ただ死という目的地へ向かう道中の飾り物に過ぎないのか! 僕は、哀しい!」

 彼は慟哭するとおもむろに上着の内ポケットから注射針を取り出し、素早い動作で自分の腕に刺した。中の液体が愚知の体内に取り込まれていくにつれ、彼の表情は穏やかなものへと変化していき、遂には目を閉じてしまった。私は唖然としてそれを見ていた。


 本当のことをいうと、伊藤が死んだのは愚知おろちが原因ではない。

 私は独り、思考を過去へとめぐらせる。私は、愚知と加美山クララに親愛の情を抱いている。だから二人がすることはなんでもお見通しだし、新聞記者だからターゲットを尾行するのには慣れっこなのである。

 その日も私は愚知を尾行していた。私は、小瓶を探しにアパートへ向かう最中に彼が吸っていた煙草を、帰りには吸っていないことに気づいた。彼はポケットをまさぐったりしてなにか物足りない様子だったが、本人はそのことを忘れているようだった。煙草を加美山の部屋に置いてきたのだ、私はピンと来た。このまま加美山が煙草を見つけてしまっては、彼が加美山のストーカーであるということになってしまう。それでは彼があまりに不名誉である。

 運良く伊藤が愚知を目撃していたおかげで、加美山と伊藤が言い争っている間に、部屋に侵入することが出来た。もちろん、加美山の部屋に入るのは愚知と同じルート、つまり二○三の空き部屋から屋根裏を通った。愚知はあまりに焦りすぎて、部屋の鍵をかけるのを忘れてきたのである。

 加美山の部屋で煙草を見つけ出すと、私を急いで屋根裏に戻った。その時、ひらめきが走った。天啓である。青酸カリの小瓶を伊藤の部屋の真上にぶちまけておけば、雨漏りで運良く伊藤を死に至らしめることが可能なのではないか? 伊藤が死ねば、加美山がストーカーに悩まされることもないのである。

 善は急げだ。私はほくそ笑みながら伊藤の部屋の屋根裏に小瓶の中身を開けると、そのまま瓶を持ち帰って捨てた。証拠が残っては我々の人生が破滅してしまうからだ。

 私は愚知に、彼が忘れてきた煙草を手渡した。しかし案の定、彼はその事を忘れているようだった。この忘れっぽさが愛おしい。彼の個性であり、楽しさなのである。

 

 しかし、運命は残酷だ。彼はそんな事などつゆ知らず、自らの業を呪って自害した。皮肉にも彼は、自らを悲劇の主役としてしまったのだ!

 ああ、もうここにきわまれり! 彼は人の運命を背負い込んで逝ってしまった! これこそ悲劇でなくてなんであろう! 

 いま、角野愚知は穢れも知らぬ童子のような表情で眠っている。

 ああ、神よ、彼に悠久の安らぎを与え給えポルジ・アモール

 ああ、主よ、人を憐れみ給えキリエ・エレイソン

 ああ、愚知よ、安らかに眠れ。


 R.I.P.






 

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