第13話 恋のキューピッド?

「……ここが、あの……」



 皓々と月の輝く、ある日の夜の頃。

 そう、ポツリ呟きを洩らす。そんな私がいるのは、自宅ほどではないが十分に立派な邸宅の前――紀伊守きのかみという、左大臣に仕える男性の住む邸宅で。


 ……いや、自宅とは言ったけど帆弥そっち居住ほうじゃないからね? 言わずもがなかもしれないけど、帆弥わたしは至って普通の庶民です。



 まあ、それはともあれ……どうして、こんな時間に此処にいるのかというと――


「……あの、みやさま。重ね重ね、不躾な質問かとは存じますが……本当に、光君ひかるきみ愛情おもいを叶えて頂けるのでしょうか?」

「うん、任せて惟光くん。それと、協力してくれてありがとね」


 そう、少し不安そうに尋ねる端正な顔立ちの男の子。彼は惟光これみつ――げんちゃんの乳母の息子であり、それゆえ源ちゃんに仕えている少年だ。


 ……尤も、乳母――言わば、育ての親の息子だという理由で、源ちゃん――乳母に育てられた子に仕える立場になる辺り、当時の貴人の世界における関係性が窺えるというもので。



 さて、それはそれとして……お気づきの方もいるかと思うけれど、今のこの状況はまさしく異様そのもので。と言うのも……よほどの事情でもない限り、この時代の女性――少なくとも、藤壺わたしほどの高貴な女性が、とりわけこのような時間に外出することはまず皆無と言って差し支えないだろうから。……うん、バレたらどうなることやら。


 ……それでも、そんな並々ならぬ危険リスクを取ってまでこんな無茶を敢行している理由は――


「……お待ちしておりました、宮さま。どうぞ、こちらから」


 すると、東の門からそっと出て来て恭しくそう口にするのは、あどけなくもたいそう気品の窺える男の子。そんな彼に感謝を告げ、神殿の東側から渡殿わたどのと呼ばれる廊下を通り西側へ。すると――



「――おや、どちら様かしら」


 ふと、襖の向かうからそんな言葉が微かに届く。繊細で柔らかな、恐らくは女性の声。

 ……さて、何と答えるべきか。藤壺ふじつぼ、で伝われば良いのだけど……正直、宮中以外でも通用するのかどうかは定かでない。それより、もっと世間にて広く呼ばれていた名前があったはず。……えっと、確か……あっ!



「――突然の来訪、どうかお許しくださいませ。私こそは、輝く日の宮と申します」

「自分で言っちゃうの!?」




「……はっ、大変失礼しました宮さま!」

「いえいえ、宜しくてよ? この藤壺、大海原よりも深き寛仁な御心みこころで以てお許し申し上げましょう」

「……えっと、寛大なお言葉、大変痛み入ります……あれ、なんかイメージと違う……」


 そんな私の返答に、襖越しにも伝わる困惑した声音が耳に届く。……うん、ご尤も。誰だよ、この鼻持ちならない奴……うん、ほんとごめんね藤壺。


「……そ、それで……その、宮さまは、どうしてこのような……」


 すると、尚も戸惑いの窺える声音が届く。……まあ、そりゃそうだよね。もはや、わけの分からない状況――それこそ、夢だと思っていても何ら不思議はない。ともあれ、返事をすべく再び口を開いて――



「――はい、今夜こうしてお伺いしたのは……貴女へ、一つお願いがあるからです――空蝉うつせみさま」




「……お願い、でしょうか……?」

「はい……空蝉さまにしか申し上げられない、大切なお願いです」


 おずおずとした声音で問う彼女に、はっきりとした口調で告げる私。空蝉じぶんのような身分の人間に、藤壺わたしのような高貴な人間がいったいどんな――そんな疑問……と言うか、もはや不審に近い感情おもいがその声音からひしひしと伝わってくる。


 ……まあ、そうなるよね。これほどに立派な邸宅いえ――寝殿造しんでんづくりと呼ばれる立派な邸宅いえに住んでいることを鑑みても、決して卑下するような身分だとは思えない。それでも、藤壺わたしげんちゃんに比べれば格下――こうして、恐縮してしまうのも致し方な……いや、我ながらすっごい嫌な言い方だけども。

 ともあれ、一度ひとたび深く呼吸を整える。そして――



「……この藤壺、たってのお願いです。どうか、光君の愛情おもいを受け入れてはくださいませんか」

「…………え?」


 そんな私の申し出に、呆然と声を洩らす空蝉。……まあ、襖越しなので実際の様子は分からないけど。


 ともあれ、これが今夜ここを――空蝉の下を訪れた理由で。と言うのも――この頃、源ちゃんは随分と彼女にご執心だったはずだから。


 そして、彼女が源ちゃんの想いを受け入れてさえくれれば……もしかすると、彼はくだんの女性――六条ろくじょうさんの下へ通わなくなるかもしれない。風の噂によると、六条さんはまださほど源ちゃんに心を開いていないとのこと。


 もちろん、それが事実という前提にはなるけども……ならば、源ちゃんへの愛情が芽生える前に、彼が六条さんへの通いを絶ってしまえば万々歳――彼の正妻たるあおいうえが、六条さんの生霊に取り憑かれその尊い命を落とすこともないはずで。



 ……とは言え、思惑通りすんなり事が進めば苦労はないわけで――



「……僭越ながら、宮さま。ご自分が、何を仰っているのか分かってます? ご存知ないかもしれませんが、これでも一応は夫のいる身なのですよ?」


 そう、先ほどまでとは一転、些かの躊躇いは窺えつつも明瞭な口調で尋ねる空蝉。その声音からも、多少なりとも怒っているのが伝わって……まあ、当然といえば当然か。


 ……さて、どうしたものか。夫のいる身で、他の男性からの求愛に応じるわけにはいかない――要するにそういう返答ことだろうし、そう言われてしまえばこちらに反論の術などなく。……まあ、でもおおかた想定通り。なので――


「……はい、心中お察し致します。なので――是非、旦那さまとお別れ頂けたらと」

「旦那かわいそう過ぎない!?」



 私の申し出に、驚愕に目を見開く空蝉。……うん、ご尤も。だけど、私とて全く考えなしにこんな血も涙もない発言をしてるわけでもなく――


「……仰ることはご尤もです、空蝉さま。ですが……このままで、本当に良いのですか?」

「……あの、それはどういう――」

「――ご自身でも、きっとお分かりなのでしょう? 本当は、貴女自身も光君に深く心惹かれていることを」

「……っ!?」


 そんな指摘をすると、いっそう大きく目を瞠り喫驚を示す空蝉。……まあ、そりゃそうなるよね。でも、本作から判断するにまず間違いないだろうし。


 ともあれ、おおよそ求めていた反応を引き出すことに成功。それから、続けて口を開き――


「……重ね重ねになりますが、些かなりともご心中は推察しているつもりです。ですが、空蝉さま。差し出がましくはありますが……きっとこのままでは、貴女のみならず旦那さまのためにもならないと思うのです。自身の愛する奥さまが、本当は別の男性に深く想いを寄せている――そのような状況で、果たして旦那さまは心からの幸せを享受し得るのでしょうか?」

「…………それは」

「……もちろん、お二人共に一時的には酷く辛い思いをなさるかもしれません。ですが……貴女と別れた後、いつか旦那さまは、ご自身を一番に愛してくれる女性と巡り逢えるかもしれません。そして、貴女は憚りなく想い人――光君と永久とこしえの愛を紡いでいく……これが、お互いにとって最高の行く末なのではないでしょうか?」

「……ですが、私は……」

「……もちろん、今すぐに答えを出せというわけではありません。ですが……是非、ご一考頂けると幸いです」

「…………」


 襖越しにて、そう締め括るも返答はない。……まあ、無理もないけど。


 ともあれ……うん、ここが引き際かな。これ以上、私に出来ることもないだろうし。後は、彼女の判断に委ねる他なく――


「…………あ」

「……? どうか、なさいました?」


 卒爾、ポツリと声を洩らす私に怪訝な声音こえで尋ねる空蝉。……いや、何と言うか……うん、まあ心配ないとは思う。思うのだけども……まあ、念には念をということで――



「――ときに、空蝉さま。露ほどの心配もないとは存じますが……万が一にも、今件を外部に洩らすようなことがあれば――その時は、お分かりですよね?」

「脅しまでかけてくるの!?」






 それから、およそ一ヶ月経て。



「…………うーん」


 そう、一人唸りつつ佇む私。そんな私の前には、寝殿造の立派な邸宅――空蝉のいるあの邸宅いえで。


 あの後、夫――伊予介いよすけと別れてはいないものの、ひとまず源ちゃんの愛情きもちを受け入れてみる選択をしたとのこと。そんな朗報に、私もひとまず安堵を覚えて。



 ――なのだけども。


「……わざわざお越し頂き、真に申し訳ありません宮さま。……その、お手紙でも良かったのですが……」

「いえ、どうかお気になさらいでください空蝉さま。それより……いったい、どうなさったのですか?」


 例により西側の部屋――その襖越しにて、言葉通りたいそう申し訳なさそうな声音で告げる空蝉。だけど、謝る必要なんてない。確かに、用件を伝えるだけなら手紙でも事足りるかもしれない。だけど……手紙それだと、返答まで一定の時間を要するし……何より、口に出して話したい時もあるだろうし。


 ただ、とは言え……うん、いったい何だろう。こうして呼び出すくらいだし、少なくともそれなりには重要な用件ことなのだろうけど――



「……その、私の推察ではあるのですが……恐らく光君は、自身の愛情に応じない私にとりわけ魅力を見出していたようで……なので――端的に申しますと、今や私への熱が些か冷めてしまったようでして」

「いや面倒くせえなあの男!!」


 



 




 


 




 




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