そこに待っていたもの
体中を切りつける、殴る、踏み潰す、首を絞める。理性を失い獣になった私は、舞香の身ぐるみを剥いで、ありとあらゆる暴力を加えた。舞香は苦しみに悶えながら、私の服を一枚ずつ脱がしていき、情熱的な手つきで体中を愛撫した。そうやって彼女が与える刺激に、私の体はこれ以上ないくらい深く強く呼応した。
彼女にどれだけの経験があるのかはわからない。だけどそれは、なんだかとても慣れている感じがして、隼人との行為にはない「支配されている感じ」があった。セックスなのだから、これが当然なのかもしれないが、彼女が始終求めていたのは、「私という人間」ではなく「私の体」だった。本当に、隼人との行為とは何もかもが違う。絶頂を迎える寸前を除けば、彼はセックスをしている時でさえも、「私」を見ていた。
――だけど、今さら隼人を恋しく思ってはいけない。だって私は、結果的に彼女の「愛」を選んだのだから。いいとこ取りしたいと思うのは、それこそワガママじゃないか。
彼女が電気を点けて消さなかったのは、この景色を私にハッキリと見せたかったからなのかもしれない。
「……どう? 満足した?」
石膏像のように滑らかな肌、胸も腰回りも一様に華奢な体。痛々しい内出血、体中についた赤い筋、固まって既に酸化し始めている血液。我に返った今やっと気がついた、やけに色っぽい彼女の下着。
それらを数十秒間見つめた後、私は嘔吐した。さっき食べたおつまみが溶けたそれは、まるで幸せの亡骸みたいに、舞香の腹からポタポタと滴り落ちる。私は近くにあった箱ティッシュで、それを必死に拭った。血液と吐瀉物を多分に吸い取ったティッシュは、きっとこの世で一番汚いものだ。
「……さて、私はシャワーを浴びるけど、楓はどうする?」
彼女は至って何ともない様子だった。大雨の暴力的な音も、空を割るような雷の音も既に止んでいたが、それから夜が明けるまで、私は一睡もできなかった。
翌朝、私は隼人に全てを打ち明けた。もう何もかも終わりにしたい、と思ったんだ。
「……そうだったのか」
見慣れた食卓で、こんな話をする日が来るとは、全く思ってもみなかった。
彼は驚いていた。私を軽蔑していた。隠しながら怒っていた。当たり前だ。暴言でも暴力でも何でもいい。私は彼からの罰を望んでいた。
「……楓には嘘をつきたくないから、正直に俺の気持ちを伝える」
しばらくの重苦しい沈黙の後、彼は苦虫を噛み潰したような表情で、やっと口を開いた。
「気持ち悪いよ。どうして、好きな人を傷つけて興奮するんだ? 全く理解できない」
彼のこんな嫌悪に満ちた表情を見るのは、これが初めてだった。……本当に、ずっとあのままの表情でいてくれたら、私の心はどれだけ救われただろうか。
「……だけど俺にも、きっと楓には理解できない性癖があるからな」
少しすると、彼は力なく笑ってそう言った。咄嗟に「ちょっと待って」と言おうとしたが、喉が潰れて声が出なかった。
「俺さ、水を飲んだり、食べ物を飲み込んだりする時、ゴクンゴクンって動く楓の喉元を見るのが、すっごく好きなんだ」
「はや……」
「それにさ、
「隼人! それとこれとは全然違うよ」
「……わかってるさ。だけど、俺はこの考えを変えるつもりはない。楓にはわからないかもしれないけど、俺は今、めちゃくちゃ怒ってる。そして……楓を失ってしまうんじゃないかって、めちゃくちゃ怖がってる」
ハッとするような切実な声に、様々な感情が混ざり合った眼差しに、千切れそうなほど心が痛んだ。
「この両方の気持ちを何とかするには、これが最適なんだよ。俺は楓のことを罰しない。楓のことを罰するのは、楓自身だ」
彼からの罰を受けてしまえば、私はそれで自分を許してしまう。だけど、私が自分自身に与える罰――つまり罪悪感は、これからも際限なく湧き続けるだろう。
「……地獄だね。だけど、まだ隼人と一緒にいられるんだ」
矛盾しているのはわかっている。本当に最低最悪だ、私という人間は。「どれだけ辛い思いをしても、その隣にいられるなら構わない。そう切に思ってしまうほどに、私は隼人のことが好きなんだ」と、今さら気づくなんて。
「――月に一回な」
そのまま声を殺して泣いていた私に、隼人はためらいながら声を掛けた。
「えっ?」
顔を上げる。彼の眼差しは真っ直ぐだった。
「だから、あんまり短いペースで続けるとエスカレートするから、月に一回」
「何が月に一回なの?」
震えた声で訊く。答えは薄々わかっていた。
「暴力だよ。どれだけ頑張っても治せない癖なら、ちゃんと向き合うしかないだろ?
その代わり、何をしてもいいってわけじゃなくて、一線を越えそうになったら俺が止めるから。道徳的な問題もそうだけど……何より楓、今日すごく顔色が悪いだろ? あれだよ、いま流行りの『サステナブル』ってやつ。俺は楓に幸せになって欲しいけど、それが一瞬で壊れるようなものなら、最初から掴まない方がマシだ」
舞香の声が蘇る。
〈人を愛するということは、その人の気持ちを一番に考えることだから〉
あんな言葉に踊らされて、全くバカみたいだった。仮に彼女の定義が正しいのだとしても、私を一番愛してくれているのは隼人だったんだ。
「じゃあ、今日がその一回目な。なんかドMになったみたいで恥ずかしいけど……何をしたい?」
気恥ずかしそうに目を逸らす彼を見ていると、私は昨日の今日なのに悶々としてきた。涙はもう止まっていた。
「じゃあ……手をつねらせて。血が出るまで」
「なるほど、まずはそんなもんか」
笑いながら言って、彼は右手を私の前に差し出した。この日に焼けた大きな手に、野球の練習でマメができた時は、何度「割りたい」と思ったことかわからない。
「……本当にいいの?」
「うん」
人差し指と親指の爪を毛抜きの先端みたくして、私は彼の頑丈な皮膚を思い切りつねった。
「爪、ちゃんと切らないと」
ネイルもしていなければ、特に手入れもしていない私の裸の爪を眺め、彼は母親のように言う。
「……中々、血が出ない」
「一応、最速で百四十五キロを投げた右手だからな……って、痛っ」
爪の先の感触が変わる。出血だった。
「うわー……」
気持ち悪いと思われるだろうが、今さら遅いし、そもそも自制できなかった。私は爪の先についたごく少量のそれを、窓から差す光にかざして、愛おしく見つめた。
「じゃあ、次はなんだ? パンチなら四回まではいいぞ」
「……いいや、これで十分」
「えっ?」
「これ以上は、刺激が強すぎるから」
妄想の中で彼を凌辱していた頃は、思ってもみなかった。実際に彼の体を傷つけることが、こんなにも刺激的だとは。
今まで包み隠さず色々なことを語ってきた私だが、この感覚だけは本当に誰にも知られたくないから、言葉にしないでおく。
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