そういう星の下に生まれてきた
「うわっ、土砂降りだ」
大学に入学してからの親友、
「今日はうちに泊まっていく?」
「うーん……じゃあ、そうしようかな」
もう戻れない冬の日のこと。
隼人にメッセージを送ると、彼は快諾してくれた。余り物で一緒におつまみを作って、お酒を飲みながら色々な雑談をして、舞香オススメの洋画を観て、眠くなったタイミングで布団に入って……あの日は、とても充実していた。
「おやすみー」
女子力が高い、とでも言えば良いのだろうか。発する匂いの甘さも、ロングヘアのツヤも、様々な面での上品さも、料理の腕も何もかも、彼女は私より優れている。一人の女性として私も見習わなければ、と思うほどだ。
「はい、おやすみなさい」
変わらないおしとやかな声で言って、彼女は静かに瞼を閉じた。絵画のように美しいその横顔は、ベッドサイドのランプに照らされて、暗闇の中で浮き彫りになっていた。
「雷、鳴ってるね」
「怖い?」
「いいや」
「私は怖いよ」
出し抜けに真剣な声で言って、舞香は私に抱きついてきた。
「ふふっ、意外な弱点だね」
「……意外なところなら、まだまだあるよ?」
私の右脚に自分の両脚を絡めて、右半身にギュッとしがみついて、彼女は今コアラのようになっている。予想だにしなかった弱く震えた声に、私は何か重大なものを感じ取っていた。
「……例えば?」
「『好きな人はいない』って言っていたけど、あれは嘘。実は私、大学に入学してすぐの頃、ある人に一目惚れして、今でもずっと片想いしているの」
自分の真下に、ポッカリと落とし穴が開いた気分だ。その声の湿っぽさで、私はその「ある人」が誰なのか察してしまった。
「ダメだよ」
反射的にそう言って、私は彼女の体を押しのけた。脳みそは機能停止していたけど、脊髄が彼女を拒んでいたのだ。
「どうして? 私、二番目でもいいのに」
きっかけは、舞香が私の落とした財布を拾って、わざわざ講義室まで届けに来てくれたこと。他の女の子と違い、あまり隼人との関係に触れないでくれる彼女が、私は好きだった。
「……私は病気だから。好きな人を『肉体的に傷つけたい』と思ってしまう、気持ちの悪い病気だから」
しばらくして、私はやっと状況を理解した。これほどまでに真剣な彼女に引き下がってもらうには、もうこのことを打ち明けるしかない、と判断した。
「別にいいよ」
だけど、彼女は私の予想に反して即答した。節操なく沸き立つ心に、我ながら寒気がした。
「いや、でも……」
私が戸惑っている間に、舞香は起き上がった。部屋の照明を点けて、リビングの方に消えていく。しばらくして戻ってきた時、彼女は左手に何かを隠し持っているようだった。
「私はね、楓を心の底から愛しているの。だから、我慢なんてさせたくない。人を愛するということは、その人の気持ちを一番に考えることだから」
外では雷が鳴っている。コペンハーゲンの人魚像みたく脚を畳み、ベッドに座っている舞香は、向かいで正座している私の髪を右手で梳く。
「楓のその個性のこと、
彼女は淡々と語る。
「……でもまあ、確かめずに断定するのも良くないから、今から電話しましょうか? そして、ハッキリさせるの。楓の告白を聞いて、彼が受け入れてくれるのかどうか」
「確かめるまでもない。隼人は良くも悪くも、自分を曲げない人だから」
あれ? 私は今、どうして彼を責めるような口調になっているんだ? 私は、彼のそういうところが好きだったんじゃないのか?
「相手を満足させるためなら、自分の気持ちなどいくらでも押し殺す。それが本物の愛だよ」
そう言って、彼女は私の目の前に左手を差し出し、そっと開いた。そこにあったのは、カミソリだった。
「ほら、いいよ」
そして右頬を差し出し、扇情的な声で言う。
「……どうせ幻滅するよ」
本当に何をしても受け入れる。滲み出るそんな狂気に気づいていながら、私は彼女のキメ細かい頬に刃を立てた。昔に観た医療ドラマのオペシーンを思い出す。腕の良い女医が主人公の物語で、その話の患者はなんと彼女の恋人だった。
最愛の人を救うため、その無防備な腹にメスを滑らせる彼女は、いつもより緊張して震えていた。そして、それと同じように……私も今、こうして震えている。緊張ではなく、脳が痺れるような快感によって。
「楓、そんな顔するんだ……悦んでもらえて、本当に良かった」
苦痛に表情筋を強張らせ、脂汗を流しながらも、舞香は恍惚の表情を浮かべていた。
「……はい、ストップ。これ以上のことをしたいなら、私と契約して。これからも定期的に私の家に来て、こういうことをするって」
舞香を傷つけたい。そんな思いが湧いたことは、これまで一度もなかったのに、私は今こんなにも興奮している。
(今まで溜め込んできた欲を一気に解放したんだ。見境がなくなるのも、仕方がないのかもしれない)
そうやって納得しようとしたが、やっぱりダメだった。どうしようもない気持ちになって、涙が出てくる。
「泣かなくていい。遅かれ早かれ、こうなることは生まれた時から決まっていた。楓はそういう星の下に生まれてきたの」
彼女は、そんな私を優しく抱き寄せた。そういう星の下に生まれてきた。その言葉を頭の中で復唱する度に、私の心は段々と軽くなっていく。
「……ここを思い切り噛んでくれたら、契約成立」
彼女は左手の薬指の根元を指さし、そう言った。数瞬の後、私の欲望を抑えていたネジの最後の一本は、パンと弾け飛んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます