第4話 蓄積疲労の罠

 深見真がカウンセリングルームに入ると、いつも明るく見えた優奈の顔が、どこか硬直していることに気づいた。目の下に濃いクマが浮かび、視線は机の一点を彷徨うように動いていた。


 「優奈さん、こんにちは。」真は穏やかに声をかけたが、彼女はうなずくのみで、口を開こうとしなかった。


 「今日はどうされましたか?」


 沈黙が数秒続いた後、優奈がか細い声で話し始めた。「先生、正直に言うと、もう頑張るのがしんどいんです。でも、やらないと……」


 その言葉を聞いた瞬間、真は胸が詰まるような感覚を覚えた。前回のセッションから、彼女の状態が悪化していることは明らかだった。しかし、それを自覚していても、自分がどう彼女を助けるべきか確信が持てないままだった。




 優奈は話し続けた。


 「学校での成績も、親の期待も、全部が重くて……昔から、少しでも手を抜くと怒られるのが怖かったんです。小さい頃から、頑張らない自分は価値がないって思ってました。でも最近、朝起きるのもつらくて、夜も寝付けなくて……」


 その言葉を聞きながら、真は彼女の「蓄積疲労」の根源がどこにあるのかを考えていた。




 瑞穂が言っていた「逃寝」が頭をよぎる。彼女は確かに逃げる必要がある状況にある。しかし、そのためにはまず彼女自身が、自分が限界にいることを認め、休むことを許容しなければならない。


 「優奈さん。」真は慎重に言葉を選んだ。

 「ずっと一生懸命頑張ってこられたんですね。その努力がどれだけ大変だったか、今の話でよくわかりました。でも、少し考えてみてください。ここ最近、心も体も疲れ切っている状態なのに、まだ頑張り続けていると感じませんか?」


 優奈はうつむきながら、何かを考え込むように黙り込んだ。


 真はさらに続けた。「疲れが蓄積すると、人はどんどん判断力を失ってしまいます。例えば、疲れたまま勉強しても、覚えたつもりのことがすぐ抜け落ちたり。無理を続けることで、もっと悪い結果になることもあるんです。」


 その言葉に、優奈の目に涙が浮かんだ。「でも……休んだら、私は怠け者だって思われるんじゃないかって……」




 真はその言葉に強く心を動かされた。


「怠け者なんかじゃありませんよ。」真は声を強めた。「むしろ、これだけ頑張り続けてきた優奈さんは、とても強い人です。でも、どんなに強い人でも、休まないと壊れてしまう。心も体も、一度壊れると元に戻るのにすごく時間がかかります。」


 その後のセッションで、真は優奈の過去を丁寧に聞き取ることにした。小さなストレスが積み重なり、それが現在の彼女の「頑張らなければならない」という思考パターンを作り出していることが見えてきた。


 「優奈さん、たとえ話をしてもいいですか?」


 優奈は小さくうなずいた。


 「例えば、小さなコップに毎日少しずつ水を注いでいくとします。最初は大丈夫かもしれません。でも、ある日コップがいっぱいになってしまうと、その一滴で溢れ出してしまいます。それと同じように、小さなストレスも蓄積すると、どこかで限界が来てしまうんです。」


 優奈はそのたとえにじっと耳を傾けていた。そして、ポツリとつぶやいた。「私のコップ、もう溢れてたんですね……」




 その日のセッションが終わった後、真は深く息を吐き出した。自分の言葉が優奈に届いたのかどうかはまだわからない。しかし、彼女が自分の状態に気づき始めたこと、それが小さな一歩になると信じたかった。




 帰り際、瑞穂が真に声をかけた。「どうだった、今日のセッション?」


 真は迷いながら答えた。「優奈さんに少しは気づいてもらえたかもしれません。でも、僕がもっと早く蓄積疲労のことに気づけていたら、彼女の負担を減らせたかもしれない……。」


 瑞穂は微笑みながら、肩を軽く叩いた。「深見さん、カウンセリングは完璧を求めるものじゃないわ。大事なのは、クライアントと一緒に前に進むことよ。今日のあなたは、それを十分にやったと思うわ。」


 その言葉に少し救われながらも、真の心には新たな決意が芽生えていた。蓄積疲労の罠――それを早く見抜き、助けられるカウンセラーにならなければならない、と。

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